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足利義昭とはどんな人?生涯・年表まとめ【信長や光秀との関係、子孫も紹介】

足利義昭とは、16世紀を生きた室町幕府最後の将軍です。将軍職につくために、最初は織田信長を頼り、その後毛利輝元の庇護を受けるなど、独自の権力を持てなかったため、一般的には「傀儡(かいらい)政権」であるとか「運がない人」などと、歴代足利将軍の中でも言われたい放題の人物です。

足利義昭

しかし実際は織田信長と一時期は助け合いながら政治を行っていましたし、京都を追放されて以降も義昭は「征夷大将軍」としての存在価値を持ち続け、大名同士の和平交渉などに力を尽くしています。特に将軍職を返上し室町幕府を終わらせる決断をしたことは、足利義昭の見逃されがちな、大きな功績と言って良いでしょう。

この記事は、大河ドラマ「麒麟がくる」に出てくる足利義昭があまりに純粋な心の持ち主で、興味を惹かれて調べ始めたら面白すぎて古文書まで読み漁るほどに嵌ってしまった筆者が、その生涯や功績の解説だけではなく、おすすめの本、ドラマなども紹介していきます。

足利義昭とはどんな人物か

名前足利義昭(幼名:千歳丸)、還俗前は覚慶
誕生日1537(天文6)年11月3日
没日1597(慶長2)年8月28日
生地京都
没地大坂(備後国鞆という説もあり)
配偶者(側室)さこの方(播磨国龍野城主・赤松政秀の娘で織田信長の養女)、一対局(高貴な身分の女性)、大蔵卿局(高位の女性で義昭の葬儀に出席)、小少将(侍女という説あり)、小宰相局(伊勢大河内氏娘)、春日局(義昭臨終の際に同席)、三位局(古市胤栄娘)
埋葬場所等持院(京都市北区等持院北町63番地)
父親足利義晴(第12代室町幕府将軍)
母親慶寿院(関白近衛尚通の娘)
兄弟足利義輝(第13代室町幕府将軍)
直系子孫足利義尋(ぎじん)
義昭の子孫と思われる人物一色義喬、永山義在

足利義昭の生涯をハイライト

等持院にある足利義昭像

足利義昭は第12代室町幕府将軍・足利義晴の次男として生まれました。幼くして出家し、僧侶として一生を終える予定でしたが、第13代将軍足利義輝の突然の死により、次期将軍候補として幕臣たちに擁立されます。明智光秀を臣下に加え、勢いのある織田信長に引き合わせてもらったことで、将軍としての後ろ盾を得ます。

織田信長に支えてもらうことで第15代将軍となるも、共同政治は上手くいかず、毛利・朝倉・武田といった有力大名や石山本願寺などの反信長勢力を頼って、信長に反旗を翻しました。しかし失敗し、1573年には京都を追われ、毛利を頼って鞆に移り住みます。1587年には豊臣秀吉の臣下となり、1588年に将軍職を朝廷に返上し、室町幕府に幕を下ろしました。

足利家の菩提寺・等持院

足利義昭は1597年にこの世を去りました。葬儀は足利氏の菩提寺である京都の等持院で執り行われます。参列した家臣は30人余りと寂しいもので、ある僧は、世が世なら洛中洛外の大工を集めて盛大に葬儀を行うはずなのにと嘆いたそうです。

剣豪将軍と呼ばれた兄・足利義輝

足利義輝

第13代将軍足利義輝は、義昭と同じ母から生まれた兄です。ただし義輝は嫡男であったために、将来将軍職を継ぐ者として武芸を嗜むなど、義昭とは全く違う育ち方をします。20代半ば頃の義輝の政治的対処を見ていると、まだ拙いところもありながらも自分の立ち位置を理解した行動が見てとれ、将軍としてどうあるべきかを考えながら生きてきた様子が伝わってきます。

足利義輝が襲われた永禄の変を記録している山科言継の「言継卿記」

義輝で有名なのはその壮絶な最期です。三好三人衆と呼ばれる三好家家臣と松永久秀の息子・久通らの軍勢に御所を取り囲まれ、義輝は少ない手勢で果敢に抗戦するも力尽き、殺害されました。この時に義輝は自ら薙刀や刀を振るったと言われており、剣豪将軍という異名が付けられました。

実の兄とはいえ、育ちが全く違う義輝の将軍像は、義昭には真似できるものではなかったでしょう。しかし将軍という権威を利用して大名同士の仲介をするといった手法は、義輝の頃から行われていたもので、義昭は将軍という立場の価値の使い方を義輝から引き継いだのかもしれません。

6歳で仏門に入り20年近く僧侶として修行

第6代将軍足利義教

足利義昭は将軍候補の兄がいたために、6歳で僧侶の道に進みます。足利将軍家には、後継争いを防ぐために次男以降の男子は寺に入るしきたりがありました。例えば第6代足利義教は、第4代足利義持の弟ですが、幼い時に出家し義円と名乗っていました。しかし義持の子義量(第5代)と義持の他界で将軍職が空位になってしまい、義円が還俗し第6代足利義教となった経緯があります。

足利義教は、「義円」時代に比叡山延暦寺のトップである天台座主になっていることからも、若い頃から相当頭の切れる人物であったことがわかります。将軍決めはくじ引きでしたが、選ばれた後は幕府権威の復興のため、強引ともいえる政治を主導しています。

第6代将軍を決めるためにくじ引きを行った石清水八幡宮

しかし義昭はもともと、幕府を引っ張っていくようなカリスマ的存在感を兼ね備えていた人物ではありませんでした。才能がなかった訳ではないのですが、立派な僧侶として生涯を終えるよう育てられ、自分もまたそう思って日々を過ごしていたはずです。次期将軍という降って湧いたような話に戸惑い、それでも納得し、遂行することの大変さは、6代将軍義教以上に大きかったことでしょう。

外交能力に長けた性格

歴史学上の足利義昭の評価として、外交能力の高さを指摘する研究者が多くいます。義昭は筆まめで、生涯でたくさんの御内書を出していますが、実際に会わずとも文書のやりとりを通じて、将軍という立場を最大限に利用し、大名同士の仲介に入り、歴史を動かしました。

足利義昭が織田信長と朝倉義景の調停を行った三井寺(滋賀県大津市)

例えば1570年の朝倉氏と信長との和睦は、義昭が仲介に入ることで成立し、信長のピンチを救いました。この年は信長にとって生涯で最大といってもよい危機に直面していました。もしこの和睦が成立していなかったら、信長はおそらく倒され、天下泰平への道は遠ざかり、あるいは戦国時代がさらに長く続いていたかもしれません。

足利義昭の功績

功績1「織田信長を頼ったことで近世の到来を早めた」

足利義昭が生きた16世紀の景観を描いた洛中洛外図屏風

歴史の大局を見ると、足利義昭は戦国時代という民衆にとって迷惑な戦ばかりの時代を早く終わらせることに手を貸した功労者と言えます。なぜなら、義昭が上洛するために織田信長を頼ったことが、素早い行動力と判断力を持ち、尚且つ大軍を率いて動かせるカリスマ的リーダー織田信長を、中部地方の一大名から天下を見据える権力者へ導くことに繋がったからです。

織田信長の天下統一への方法は、かなり手荒なものもありました。その後を引き継いだ豊臣秀吉も、特に晩年は目を覆いたくなるような所業もあります。しかしこの2人がいたからこそ、徳川家康は江戸幕府を長く続くものにするように布石を打つ努力をしたのでしょう。そして実際にその孫である徳川家光の代あたりから、江戸幕府は平和な世を保つ機構として役割を果たすようになります。

義昭はあくまで自分の上洛の助けになって欲しいと織田信長を頼った訳ですが、結果的に織田信長を歴史の表舞台に出すという日本史上大切な役割を担った足利義昭は、戦乱続きの世を早く収束させるという、武士のトップの地位である将軍として大切な仕事をした人だったのかもしれません。

功績2「明智光秀を世に出すきっかけを作った」

本能寺の変で織田信長を討ち取りながらも、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ、3日天下といわれる明智光秀ですが、この人がいたから豊臣秀吉が天下を狙えたとも言えるので、近世を迎えるために必要な人物でした。

本能寺の変からわずか11日後に起こった山崎の戦い

明智光秀はその前半生を示す資料が少なく、謎に包まれています。逆に言うと、足利義昭の側近として活躍し始めて以降は史料に名前を多く残しており、義昭が明智光秀を世に出したと言っても過言ではないでしょう。

義昭にとっても、信長に引き合わせてくれたのは明智光秀と言われており、この3人の出会いが歴史を大きく動かしたわけです。

功績3「室町幕府の存在意義を世に問う」

室町幕府の全盛期・第3代将軍足利義満の時代に建てられた金閣寺

義昭は自分の意思で将軍になったというより、周囲に担がれてその地位を得て、それに見合う仕事をしようとした人だと思います。経緯はともかく、足利将軍家の血を引く者として、将軍になったからには職務を全うしたいと考えたことでしょう。

足利義満が建てた足利将軍家の邸宅・花の御所(応仁の乱の戦火で焼失)

しかし足利将軍家も全盛期のような力はなく、大名同士の調停役などあくまで権威づけのための存在でした。それでも戦乱の世では役立つこともあり、実際義昭は和平交渉に尽力しています。しかし天下統一が成れば、それも必要なくなると、義昭は判断したのかもしれません。

足利義昭は室町幕府で将軍を務めた最後の人物となりました。義昭は1588年、将軍の職を朝廷に返しています。息子・義尋を還俗させ、将軍の座につけるという発想もなかったようで、後継者を定めませんでした。室町幕府の、将軍の意義を世間にも自分自身にも生涯に渡って問い続け、終わらせるべきと判断して職を返上した義昭の決断は、素晴らしいと思います。

何事も、幕引きというのはある意味一番難しい仕事です。江戸幕府も、大政奉還を決断したことは徳川慶喜の大きな功績であり、それがあったからこそ明治時代を迎えることができました。そう考えれば、200年以上続いた室町幕府に幕を下ろした足利義昭の功績は大きいと言えるでしょう。

足利義昭の名言

福井県の桜の名所となっている一乗谷朝倉氏遺跡の桜

もろ共に月も忘るな糸桜年の緒ながき契りと思はば

1568年3月下旬、足利義昭が朝倉義景の元にいた頃に、南陽寺で糸桜を観る会が開かれた時に義昭が読んだ歌と言われています。糸桜というのは枝垂れ桜のことです。「しだれる」という表現は家が没落するといったマイナスイメージがあるので、武士は枝垂れ桜のことを糸桜と呼んでいました。

「一緒に見た月を忘れないで欲しい。桜が長く枝垂れるように、長い年月にわたる契り(約束)だと思うなら」という意味で、義昭が朝倉義景に対し、長い付き合いを望んでいることが伝わってきます。

この歌に対し、朝倉義景はこのような返歌をしました。

君が代の時にあいあう糸桜 いともかしこき今日の言の葉

足利義昭の人物相関図

備中高松城攻防時の人物相関図

足利義昭にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「本能寺の変の黒幕は足利義昭?!」

明智光秀が土橋重治に当てた書状

2017年、明智光秀が室町幕府の再興を計画していたのではないか?と思わせる書状が発見されました。これは反信長派として知られる土橋重治から光秀が受け取った密書に対する返信です。義昭の上洛に向けて指示を受けた重治に、光秀が協力するという内容が書かれています。

これまでも、本能寺の変を起こした明智光秀の動機として、信長への怨恨説とは別に、義昭を京都に戻して室町幕府を復活させるためという説がありましたが、それを裏付ける史料として注目されています。

竹槍を持つ農民が明智光秀を狙っている様子を描いた月岡芳年の浮世絵

ただし、この書状が出されたのが本能寺の変より後という点が引っかかります。実際にはこの書状が出された翌日に光秀は山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ、この世を去っているのです。つまり光秀は国内統治のために将軍という立場である義昭を利用しようとしたとも考えられ、室町幕府再興が本能寺の変の動機とは一概に言えない訳です。

本能寺の変についてはいまだに様々な議論が続いています。今後の研究結果を待ちたいところです。

都市伝説・武勇伝2「晩年は豊臣秀吉の話し相手」

朝鮮出兵の際は肥前の名護屋城まで御伽衆を連れて行った

足利義昭は晩年、京都へ戻り、豊臣秀吉の臣下となり御伽衆を務めていたようです。御伽衆とは主君のそばで話し相手になる役のことで、主に合戦や政治経験が豊富であったり、特殊な芸能を身についていた人が選ばれました。足利義昭のような波乱万丈の人生を送った人間にとっては、うってつけの役だったと言えるでしょう。

そして、豊臣秀吉はもともと百姓の身分であった訳で、そんな人物が元足利将軍を御伽衆に召抱えているという構図自体が秀吉にとって自らの権力の象徴であったと思われます。

都市伝説・武勇伝3「足利義昭の子孫は今も続く?」

足利義昭の子供としてはっきりしているのは、嫡男の義尋です。幼くして織田信長に人質として出され、出家します。興福寺大乗院門跡になるものの、還俗し2人の男子が生まれました。しかし2人とも出家し子供を儲けなかったため、嫡流は途絶えています。

現在も残る興福寺大乗院の庭園

一色藤長という、足利義輝の近臣であった武将が育てた一色義喬は、足利義昭の子供であるという説があります。栃木県足利市にある足利氏の菩提寺・鑁阿寺(ばんなじ)の文書に記載がありますが、明確な証拠は出てきていません。なお、江戸時代後期に坂本義辰という会津藩松平家家臣がいましたが、一色義喬の子孫だと主張していたようです。

永山弥一郎

また、永山義在(よしあり)という薩摩藩の人物が、足利義昭の息子という説が薩摩藩の史料にあります。薩摩藩で永山という薩摩藩士の娘婿となって永山を名乗るようになったようで、今も鹿児島でこの血統が続いています。西南戦争で戦死する永山弥一郎が子孫という説もありますが、定かではありません。

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