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平治の乱とは何かわかりやすく解説!保元の乱との違いや覚え方も紹介

「平治の乱ってどんな戦い?」
「保元の乱と平治の乱は何が違うの?」
「平治の乱で平清盛はどうなった?」

この記事をご覧の皆さんはそのような疑問を持っているかもしれません。平治の乱とは京都で起きた戦いです。保元の乱で勝利した後白河天皇(のち、上皇・法皇)の側近(院近臣)どうしが争い、平清盛と源義朝が激突する構図となりました。

結論、戦いは平清盛の勝利に終わります。この戦いで当主の源義朝が殺されるなど大打撃を受け、義朝の嫡男頼朝は伊豆に流されました。勝った清盛は、二条天皇や後白河上皇の信任を得ることで異例の昇進を果たし、平氏政権を樹立します。

今回は、平治の乱の内容をコンパクトにまとめ、保元の乱との違いをわかりやすく解説します。この記事を読むことで、その後の歴史に大きなインパクトを与えた平治の乱がよりわかるようになりますよ。

平治の乱とは?

保元の乱・平治の乱を描いた図屏風
出典:保元の乱 – Wikipedia

平治の乱は1159年に京都で起こった戦いです。平治の乱の3年前(1156年)に、京都では保元の乱がおきていました。この戦いで勝利したのが後白河天皇です。その後白河天皇の側近たち(院近臣)の内輪もめが平治の乱だといってよいでしょう。

平清盛
出典:平清盛 – Wikipedia

保元の乱後、最も力を持ったのは信西(藤原通憲)です。彼は「保元新制」とよばれる政治改革を実行。信西は政治上のパートナーとして平清盛を選びます。こうして、信西・平清盛を中心とする新たな政治が展開されました。

これに対し、保元の乱後に登用された藤原信頼らは権力を独占する信西らの追い落としをはかります。信頼が頼りとしたのは源義朝の武力でした。こうして、信西派と反信西派の争いは日増しに強まりました。

平治の乱で焼打ちされる内裏(三条殿)
出典:平治の乱 – Wikipedia

平清盛が熊野詣で京都を留守にした1159年12月、藤原信頼らは挙兵し後白河上皇と二条天皇の身柄を確保。保元の乱が始まりました。不意を衝かれた信西は京都から脱出する途中で追い詰められ自害します。

一方、熊野詣に行く途中だった清盛は急遽、本拠地の六波羅に戻り体勢を立て直し、大規模な軍勢を整えました。体勢を立て直した清盛は二条天皇や後白河上皇を救出。信頼や源義朝の軍勢との戦いに勝利しました。ちなみに、平治の乱の年代の語呂合わせは「いいこきゅう(1159)」や「いいごくろう(1159)」などがありますよ。

平治の乱後、藤原信頼は捕らえられ処刑。源義朝は東国に逃れる途中で部下に裏切られ殺害されました。その後、朝廷で最大の実力者となった平清盛は太政大臣にまで出世。平氏政権を打ち立てます。

平治の乱の人物相関図

平治の乱の人物相関図
出典:平治の乱の人物相関図

平治の乱が起きた時、最高権力者(治天の君)は後白河法皇でした。保元の乱後、二条天皇に皇位を譲り上皇となり、その後出家したためこの時は法皇です。

二条天皇即位を後押しした美福門院得子
出典:藤原得子 – Wikipedia

二条天皇は後白河上皇の長男ですが、生母が早くに亡くなったため、鳥羽上皇の后だった美福門院に育てられます。朝廷随一の実力者だった美福門院は保元の乱後に信西と直談判し、二条天皇の即位を決めます。信西も美福門院も出家していたので「仏と仏の評定」といわれました。

信西は中級貴族の出身です。家柄の関係上、皇位に上ることは難しい身でした。しかし、保元の乱後、信西は後白河上皇の政権で中枢を担い、様々な政治改革を行います。そのため、藤原信頼らの嫉妬を買って攻撃の対象となりました。

藤原信頼を引き立てた後白河上皇
出典:後白河天皇 – Wikipedia

藤原信頼も中級貴族の出身で、後白河上皇に引き立てられました。一説には、信頼の昇進を信西が妨げたことが信西と信頼の仲たがいの原因といいます。信頼は源義朝と手を組み、信西は平清盛と手を組みました。ただ、乱の指導者としては力不足だったようで最重要人物である二条天皇の内裏脱出を許してしまいます。義朝は信頼を「日本第一の不覚人」と罵倒しました。

源義朝はこの時期の源氏の棟梁です。保元の乱で一族の多くが崇徳上皇に味方する中、義朝は後白河天皇方につき勝利します。しかし、同じく後白河天皇側についた平清盛に比べ、待遇がよくありませんでした。一方の平清盛は父平忠盛から瀬戸内海貿易の利権を受け継ぎ、保元の乱後に恩賞として出世を果たしています。

平治の乱がおきた原因

信西(藤原通憲)と藤原信頼の対立

争いのイメージ図

平治の乱の原因の一つは、政治の実権を握る信西への反感です。保元の乱後、信西は荘園や公領を整理する改革に乗り出しました。土地の所有権を整理し、荘園や公領を天皇の支配下に置こうとする取り組みです。

同じころ、後白河上皇は自らの側近として藤原信頼らを取り立てます。保元の乱で勝利したといっても、後白河の側近は手薄で、信西以外に頼るべき臣下がいなかったからでした。ところが、その信頼と信西が政治の主導権をめぐって争ったのです。信頼は信西の政治手法に反感を持つ勢力を集め、信西に対抗しました。

平清盛と源義朝の対立

源義朝(右上)を描いた江戸時代の浮世絵
出典:源義朝 – Wikipedia

平清盛は平氏の、源義朝は源氏の棟梁でした。彼らの対立も平治の乱の原因です。平清盛率いる伊勢平氏は上皇と結びつくことで勢力を増しました。祖父の正盛、父の忠盛はいずれも院政下で出世します。清盛は祖父や父の遺産を引き継ぐことで強い経済基盤を持っていました。

一方、源氏は摂関家と結びついて力をつけます。しかし、摂関家は院政の始まりとともに衰退。保元の乱では摂関家の家督をめぐる争いまで起き、勢力を弱めました。上り調子の平氏と下落基調の源氏は非常に対照的な状態といえるでしょう。

官職の面でも両者の間に差がありました。清盛は播磨守や大宰大弐に任官していました。これは瀬戸内海貿易で重要なカギを握る要職です。これに対し、源義朝は下野守と左馬頭に任じられました。下野守は国司という点では清盛と同じですが、実入りは随分と違いました。経済面で見ると、両者の格差は大きかったのです。

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