平治の乱とは何かわかりやすく解説!場所や勝者、保元の乱との違いも紹介

「平治の乱ってどんな戦いだったの?」
「争った場所や勝者が知りたい!」
「保元の乱との違いがわからない…」

平治の乱とは、京都を舞台に起こった平清盛と源義朝の政権争いです。

平清盛率いる平家が一代政権を築くきっかけになった戦いである一方、首を長くして見れば源氏が鎌倉幕府を築く一過程を示す戦いとも言えますね。

保元の乱と合わせて「保元・平治の乱」と言われたり、「源平合戦」と呼ばれるなど歴史の見方・切り取り方次第でさまざまな呼び方ができるため、混乱する方も多いのではないでしょうか。

実際、平治の乱だけを調べてみても前後の経緯を知らないと理解しづらかったり、調べてみても平治の乱単体で語られている情報が少なく結局わからずじまい…なんてこともありますよね。

そこで今回は、平治の乱とは何かわかりやすくご紹介。前後のいきさつを整理しつつ、保元の乱との違いはもちろん争いの舞台となった場所の詳細や勝者も交えて解説します。

この記事を読めば、平治の乱を深く理解できるだけでなく、鎌倉幕府成立までのいきさつも抑えられますよ。それでは参ります。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

平治の乱とは?

保元の乱・平治の乱を描いた図屏風
出典:保元の乱 – Wikipedia

平治の乱は1159年に京都で起こった戦いです。平治の乱の3年前(1156年)に、京都では保元の乱がおきていました。この戦いで勝利したのが後白河天皇です。その後白河天皇の側近たち(院近臣)の内輪もめが平治の乱だといってよいでしょう。

平清盛
出典:平清盛 – Wikipedia

保元の乱後、最も力を持ったのは信西(藤原通憲)です。彼は「保元新制」とよばれる政治改革を実行。信西は政治上のパートナーとして平清盛を選びます。こうして、信西・平清盛を中心とする新たな政治が展開されました。

これに対し、保元の乱後に登用された藤原信頼らは権力を独占する信西らの追い落としをはかります。信頼が頼りとしたのは源義朝の武力でした。こうして、信西派と反信西派の争いは日増しに強まりました。

平治の乱で焼打ちされる内裏(三条殿)
出典:平治の乱 – Wikipedia

平清盛が熊野詣で京都を留守にした1159年12月、藤原信頼らは挙兵し後白河上皇と二条天皇の身柄を確保。保元の乱が始まりました。不意を衝かれた信西は京都から脱出する途中で追い詰められ自害します。

一方、熊野詣に行く途中だった清盛は急遽、本拠地の六波羅に戻り体勢を立て直し、大規模な軍勢を整えました。体勢を立て直した清盛は二条天皇や後白河上皇を救出。信頼や源義朝の軍勢との戦いに勝利しました。ちなみに、平治の乱の年代の語呂合わせは「いいこきゅう(1159)」や「いいごくろう(1159)」などがありますよ。

平治の乱後、藤原信頼は捕らえられ処刑。源義朝は東国に逃れる途中で部下に裏切られ殺害されました。その後、朝廷で最大の実力者となった平清盛は太政大臣にまで出世。平氏政権を打ち立てます。

平治の乱の人物相関図

平治の乱の人物相関図

平治の乱が起きた時、最高権力者(治天の君)は後白河法皇でした。保元の乱後、二条天皇に皇位を譲り上皇となり、その後出家したためこの時は法皇です。

二条天皇即位を後押しした美福門院得子
出典:藤原得子 – Wikipedia

二条天皇は後白河上皇の長男ですが、生母が早くに亡くなったため、鳥羽上皇の后だった美福門院に育てられます。朝廷随一の実力者だった美福門院は保元の乱後に信西と直談判し、二条天皇の即位を決めます。信西も美福門院も出家していたので「仏と仏の評定」といわれました。

信西は中級貴族の出身です。家柄の関係上、皇位に上ることは難しい身でした。しかし、保元の乱後、信西は後白河上皇の政権で中枢を担い、様々な政治改革を行います。そのため、藤原信頼らの嫉妬を買って攻撃の対象となりました。

藤原信頼を引き立てた後白河上皇
出典:後白河天皇 – Wikipedia

藤原信頼も中級貴族の出身で、後白河上皇に引き立てられました。一説には、信頼の昇進を信西が妨げたことが信西と信頼の仲たがいの原因といいます。信頼は源義朝と手を組み、信西は平清盛と手を組みました。ただ、乱の指導者としては力不足だったようで最重要人物である二条天皇の内裏脱出を許してしまいます。義朝は信頼を「日本第一の不覚人」と罵倒しました。

源義朝はこの時期の源氏の棟梁です。保元の乱で一族の多くが崇徳上皇に味方する中、義朝は後白河天皇方につき勝利します。しかし、同じく後白河天皇側についた平清盛に比べ、待遇がよくありませんでした。一方の平清盛は父平忠盛から瀬戸内海貿易の利権を受け継ぎ、保元の乱後に恩賞として出世を果たしています。

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