平治の乱がおきた原因
信西(藤原通憲)と藤原信頼の対立
平治の乱の原因の一つは、政治の実権を握る信西への反感です。保元の乱後、信西は荘園や公領を整理する改革に乗り出しました。土地の所有権を整理し、荘園や公領を天皇の支配下に置こうとする取り組みです。
同じころ、後白河上皇は自らの側近として藤原信頼らを取り立てます。保元の乱で勝利したといっても、後白河の側近は手薄で、信西以外に頼るべき臣下がいなかったからでした。ところが、その信頼と信西が政治の主導権をめぐって争ったのです。信頼は信西の政治手法に反感を持つ勢力を集め、信西に対抗しました。
平清盛と源義朝の対立
平清盛は平氏の、源義朝は源氏の棟梁でした。彼らの対立も平治の乱の原因です。平清盛率いる伊勢平氏は上皇と結びつくことで勢力を増しました。祖父の正盛、父の忠盛はいずれも院政下で出世します。清盛は祖父や父の遺産を引き継ぐことで強い経済基盤を持っていました。
一方、源氏は摂関家と結びついて力をつけます。しかし、摂関家は院政の始まりとともに衰退。保元の乱では摂関家の家督をめぐる争いまで起き、勢力を弱めました。上り調子の平氏と下落基調の源氏は非常に対照的な状態といえるでしょう。
官職の面でも両者の間に差がありました。清盛は播磨守や大宰大弐に任官していました。これは瀬戸内海貿易で重要なカギを握る要職です。これに対し、源義朝は下野守と左馬頭に任じられました。下野守は国司という点では清盛と同じですが、実入りは随分と違いました。経済面で見ると、両者の格差は大きかったのです。
平治の乱で抑えておきたい3つのポイント
ポイント1:清盛不在のタイミングが狙われた
平治の乱は、平清盛が熊野詣で京都を留守にしたタイミングで起きました。熊野詣とは、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を参詣すること。京都から遠く離れた熊野に清盛が出かけたということは、京都で信西を守る兵力が手薄になることを意味します。反信西派にとって千載一遇の後期でした。
実際、挙兵を予想していなかった清盛にとって、不意打ちだったことは間違いありません。しかし、清盛は紀伊国の武士、湯浅重宗や熊野神社の別当湛増の支援により体勢を立て直します。気を取り直した清盛は配下を引き連れ平氏の拠点である六波羅で信頼・義朝軍の迎撃準備にあたります。
ポイント2:二条天皇は女車で六波羅に脱出
二条天皇は女車で六波羅に脱出しました。信頼・義朝は、先手を打っただけでなく、後白河法皇や二条天皇の身柄を抑えていたため戦況を優位に進めます。信西が自害に追い込まれた状況で、上皇や天皇の身柄まで抑えられていれば清盛が賊軍にされかねません。そこで、清盛は二条天皇を脱出させる計画を練ります。
側近から清盛が二条天皇を脱出させる計画を進めていると知った後白河上皇は滞在先の仁和寺を脱出します。同じころ、二条天皇は女性が使う「女車」という牛車に乗って内裏を脱出。清盛の本拠地である六波羅に行幸します。これで、清盛は賊軍になる危険を回避することができました。
ポイント3:勝者は平清盛
平治の乱で勝利を収めたのは、平清盛でした。二条天皇を六波羅に迎えた清盛は官軍の立場になります。もともと、源義朝は信西を排除するための少数の兵力しか動かしていませんでした。それに対し、清盛は信頼・義朝軍を圧倒するだけの兵力を六波羅に集めます。おまけに、清盛の立場は官軍です。誰の目にも清盛の優勢が明らかになりました。
清盛は内裏を占拠する信頼・義朝軍を攻撃しますが、、内裏を破壊したくなかったためわざと退却し、信頼・義朝軍をおびき出します。清盛軍が退却すると信頼・義朝軍は勢いに乗って六波羅まで攻めてきました。ここで、清盛は一気に反撃し勝利します。