性善説と性悪説の違いは?詳しい中身や共通点を詳しく解説!

性善説と性悪説の共通点

性善説と性悪説に、明確な違いがあることは分かりました。しかし、この2つには共通点も少なからず存在しています。では、どこに共通点があるのでしょうか。ここでは、性善説と性悪説の共通点を、3つご紹介します。

起源は性白紙説(せいはくしせつ)

性白紙説を唱えた告子
出典:捜狗百科

性善説と性悪説には、どちらももととなる考え方がありました。それこそが、「性白紙説」です。

別名「性無記説(せいむきせつ)」とも呼ばれるこの思想は、孟子・荀子が登場する少し前に登場した考え方です。その名が示すとおり、「人の善悪は生まれながらには決まっていない」とした説で、提唱したのは思想家の告子(こくし)です。残念ながら、性白紙説どのような経緯で生まれたのかは定かになっていません。ですが、この考え方がもとになって、孟子は性善説を、荀子は性悪説を成立させたのです。

また、提唱した告子自信についても謎が多いのが特徴です。その理由は、彼の記した書物が、その死後散逸してしまったことにあります。ただ、断片的に分かる史料からは、存命中に孟子と論争した記録が残されています。

告子をめぐってはさまざまな説が噂されていますが、未だに決定的な証拠や理由付けとなる史料は見つかっておらず、今後の研究が待たれます。

成立したのもほぼ同時代

戦国時代の勢力図
出典:Wikipedia

性善説と性悪説は、どちらも中国の戦国時代に成立したという共通点もあります。

それぞれ、韓(かん)、趙(ちょう)、魏(ぎ)、楚(そ)、燕(えん)、斉(さい)、そして秦(しん)の7カ国に分かれてしのぎを削っていた時代です。いずれものちに秦によって統一されるのですが、性善説と性悪説が登場した当時は、まだそれぞれの国がほぼ拮抗した力を持っていた時でした。ちなみに、これらの国をまとめて、戦国の七雄とも呼びます。

この時代は約200年にもわたり、中国大陸が分裂していた時代でもありました。その様子を見て、武力による統治や侵略が、いかに人民の心から離れていっていたかを説くため、孟子と荀子は説いて回っていたのです。性善説と性悪説は、どちらも武力による統治を終わらせるために生まれたといっても過言ではないのです。

結論は「教育が大事」

儒教はその後非常に重要視され、中国の官吏登用試験「科挙」の試験問題にもなった
出典:Wikipedia

根本的な考え方が違うように見える性善説と性悪説ですが、実は人としての最終目標はまったく同じなのです。そのゴールが、儒教における最高の人間である聖人になることです。

儒教の祖である孔子は、徳を積んでこそ聖人になれると説いていました。この徳が、いつ頃、どのようにして身につくのかという話は、孔子の死後も絶えず議論をされていました。その結論として、孟子と荀子は生まれたときには決まっていると仮定し、それぞれ、性善説と性悪説を唱えるに至ったのです。

実は、性悪説に関しては、生まれたときの状態こそ「悪」で会っても、勉強、つまり儒教を学ぶことで聖人になれる可能性はあると説いていました。つまり、「最初はみんな弱い存在だから、どんな色にも染まるけど、勉強したらえらくなれるんだよ」といっているのです。対して性善説を唱えた孟子も、生まれた時から「善」であるとは言いながら、「さぼっていれば簡単に悪になるから、勉強を続けなさい」と説いていました。

つまり、この2人は儒教を学ぶ大切さを、それぞれ違う角度で訴えていただけなのです。

性善説と性悪説はどちらが正しい?

目指すべきゴールは同じでも、ではどちらの立場に立って人と接すればいいのか。性善説と性悪説の議論に決着を求める人の中には、こう思っている人もいるでしょう。

最初にも述べましたが、性悪説と性悪説のどちらが正しいかの答えは、まだ出ていませんし、おそらくこの先も出ないでしょう。では、なぜそう言い切れるのかを説明していきます。なお、ここでは性善説・性悪説の考えを、一般に理解されている「人はみんないい人(悪い人)である」という意味で話を進めています。

結論は出ていない

秦の始皇帝は儒教弾圧のため焚書坑儒を行ったことで有名
出典:Wikipedia

性善説と性悪説をめぐっては、その思想が登場してから今日に至るまでどちらが正しいのかの論争が繰り広げられています。しかし、その結論は今もって出ていません。

その理由は「信じる人次第でなんとでもとれる」からです。

仮に、性善説の立場をとっている人がいたとします。この人からすれば、周りの人はみんないい人です。魔がさして誰かに裏切られたとしても、おそらくこの人は「まあ、根はいい人だから」といって許すことができるでしょう。裏切られたことに対する怒りよりも、相手の心の奥底にある善に期待をするわけです。

反対に、性悪説の立場の人がいたとします。この人からすれば、周囲の人間全員が悪者です。いつ自分を裏切ってもおかしくないですし、極端な話殺されてしまうかもしれません。だから性悪説の考えに立つ人は、周りの人を信用せず、1人で生きていくことを選ぶでしょう。

かなり極端な例ですが、みなさんの周囲にも似たような人はいると思います。このように、人によって考え方は異なるのですから、性善説と性悪説のどちらが正しいという議論に決着がつかないのは、ある意味当たり前の話なのです。

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