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豊臣秀吉の死因は天ぷらの食べ過ぎ?梅毒?有力説と最後の様子を紹介

豊臣秀吉の死因って何?」
「もう少し長生きしていたら歴史変わったかもしれないと聞いた」

豊臣秀吉は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、天下統一に導いた3英傑の一人です。戦国武将の中でもファンの多い豊臣秀吉は、農民から出世して遂には天下統一までしてしまう“下克上”の典型のような人物でもあります。

豊臣秀吉
出典:Wikipedia

しかし晩年は嫡男である豊臣秀頼も幼少であり、非常に心残りのうちに死去したといわれています。そんな秀吉の死因は何だったのか?この記事では豊臣秀吉の最期と死因に焦点を当てて紹介します。

豊臣秀吉の死因は?

高松城水攻の秀吉画、どんな人物でも死は平等に訪れる
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有力なのは大腸がんや梅毒説

死因は大腸がんという説がある
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一番有力な死因は大腸がんや赤痢などのお腹の疾患です。秀吉の病は、下痢・腹痛・食欲不振・急激な瘦せ細りがあったと記録されています。これらの症状は、腸に深刻な症状があるときに現れる症状であるためです。そのため数ある死因の中でも、最も有力視されています。

秀吉は非常な漁色漢だったと伝わっている

また、脳梅毒などの性病説もかなり説得力のある説です。秀吉は晩年、痴呆が現れ精神錯乱し、失禁もしていたといいます。梅毒は感染後10年以降経つと脳や神経が犯されて麻痺性痴呆症になるそうです。秀吉は非常に漁色漢だったため、性交渉を介して感染する梅毒も有力というのです。もしかしたらこれらの病気が複合していたのかもしれませんね。

天ぷらの食べすぎという死因の噂は?

徳川家康
出典:Wikipedia

死因の一つに“天ぷらを食べて亡くなった”という噂がありますが、これは間違いです。恐らく徳川家康が天ぷらの食べ過ぎで死去したという説があるために、混同して噂になっていると考えられます。

徳川家康の天ぷら好きは有名だが秀吉はどうだったのか…?

天ぷらは16世紀にポルトガルの宣教師から日本に伝わったといわれています。それから広まっていき、特に徳川家康が天ぷら好きが有名で、天ぷらを食べた後に具合が悪くなった後に死去したといわれる程です。もしかしたら秀吉も天ぷらが好きだった可能性もありますが、想像の域を出ません。

徳川家康の死因を明らかに!原因は天ぷらの食べ過ぎ?それとも?

毒殺されたという説も

沈惟敬は後に明の万歴帝によって処刑されたという(絵は万歴帝)
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明国の使節“沈惟敬(しんいけい)”によって毒殺されたという説もあります。これは18世紀に朝鮮で編集された「燃藜室記述(ねんれいしつきじゅつ)」という本に、「秀吉は沈惟敬の毒によって命を落とした」と記されているからです。

沈惟敬は、明の使節であり小西行長や宗美智と和議交渉をしています。1596年には秀吉とも面会しますが、明国も日本も騙そうとする「欺瞞外交(ぎまんがいこう)」だったために秀吉は大激怒。二度目の朝鮮出兵を招いてしまったのです(慶長の役)。

慶長の役、多くの被害を両国出す結果となった
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その面会の際に、秀吉と“秘薬”と称して一緒に毒を飲み、沈惟敬は後で毒を吐き出したといっています。ただし秀吉が亡くなったのは1598年のため、2年の開きがあるために信憑性は薄いと考えられています。

前田利家の毒殺説も

ヒ素による暗殺説もある

秀吉はキリシタン大名にヒ素によって暗殺されたという説もあります。根拠はイエズス会の資料に、「キリスト教弾圧に反対していた前田利家が豊臣秀吉をヒ素によって殺そうとした」という記述があるといいます。

前田利家、足軽時代から夫婦で仲が良かったというが…
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これは弾圧されたイエズス会の資料のために、主力の説ではないようです。ただし、精神錯乱や失禁などはヒ素による中毒でも同じような症状になるために、完全に否定は出来ない説でもあります。

豊臣秀吉の最期の様子

豊臣秀頼、秀吉が死去したときまだ6歳だった
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豊臣秀吉は下克上を体現しこれ以上何を望むのかというような状況でしたが、一つの心残りは嫡男の豊臣秀頼がまだ6歳と幼かったことだったことです。非常に可愛がった一人息子がどうなるのか気がかりで仕方がなかったことでしょう。今から秀吉の最期の様子を解説します。

豊臣秀吉とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や功績、お城などについても紹介】

五大老に遺言書を書いている

五大老の花押
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豊臣秀吉は1593年に豊臣秀頼が生まれてから、自分が死去しても秀頼が大丈夫なように現在でいう“終活”を徐々に行っていました。後を継がせていた甥の豊臣秀次から関白職を奪い自刃させ、秀頼が後を継げるようにしています。

現在の豊国神社、結局神号は「新八幡」ではなく「豊国大明神」となった
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そして死去する1598年の5月に、徳川家康や前田利家など五大老とその嫡男を呼び、遺言書を作成しています。これを受け五大老は、起請文に血判をつけて返しています。この時に秀吉は、

「死後、自分を新八幡として神格化するように」

と遺言しています。そして7月にいよいよ死期を悟った秀吉は再度諸大名を呼び集め、徳川家康に秀頼の後見を依頼。そして大名に形見分けとして多くの品を分配しています。

秀吉は秀頼を心配し、二度も遺言書を書いている

8月5日に秀吉は、五大老に2度目の遺言書を送っています。その遺言書には、

「秀頼の事を頼みます。その他には、何も思い残すことはありません」

と記されています。死の数日前には、再度五大老を呼び、更に秀頼の事を頼むと念を押しています。こうして秀吉は62歳で息を引き取ったのでした。

宣教師が残した秀吉の最後の様子

イエズス会の宣教師と日本人の画
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1598年の8月18日に秀吉は死去しますが、最期の様子などはあまり記録が残っていないそうです。そんな秀吉の様子がわかる証言を、ポルトガルの宣教師のロドリゲスが残しています。ロドリゲスは秀吉を見舞い、

「干からびたかのように衰弱して、まるで悪霊のようで人間のように思えない」

という感想を残しています。晩年の秀吉は疑心暗鬼になり身内から町人まで厳しく罰し、かつての「人たらし」といわれた面影はありませんでした。忖度がない宣教師の言葉には、何か真実味を帯びているように感じます。

秀吉の辞世の句は?

秀吉は自分の人生を露のように儚いものに例えた

豊臣秀吉の辞世の句は、

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにわのことも 夢のまた夢」

露のように生き、露のように消えてしまう儚い人生でした。大阪での栄華も夢のように儚く消えていくというなんとも寂しい内容でした。下克上を体現し一時期は傍若無人な振る舞いも目だったという豊臣秀吉も、死を前にすると寂しげななんとも悲しい雰囲気がにじみ出ています。

死後は神として祀られた秀吉

新たな八幡神(八幡大菩薩)となることを遺言していた
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秀吉は死後、朝鮮出兵の影響を考慮して死を隠匿し、約半年間伏見城に遺体は保管されていたといいます。そして半年後に秀吉の遺言で「新八幡として神格化」を残していたために、後陽成天皇から「豊国大明神」という神号を賜っています。

神号が「新八幡」ではなく「豊国大明神」となったのは、正室のねねや徳川家康の意向によるものでした。秀吉は武士の神様である八幡神から、自分を「新八幡」とすることにより、スペインなどの外国から日本を守りたいという願いがあったといいます。

阿弥陀ヶ峰の豊国廟
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八幡神ではなかったものの、「豊国大明神」は武の神として祀られました。その後翌年の4月に、遺体は遺言により京都の阿弥陀ヶ峰に埋葬されました。神として祀られたために葬儀は行われなかったといいます。

豊臣秀吉の死因に関するまとめ

いかがでしたでしょうか?今回豊臣秀吉の死因を執筆し、天下を極めた人物の最期は物悲しかったことに何だか歴史のいたずらを感じてしまいます。朝鮮出兵するなど評価は別れる豊臣秀吉ですが、派手好きのために京の街を活性化させたり、日本が250年以上外国から攻撃を受けなかったのも秀吉の影響があると功績が見直され始めているそうです。

しかし結果論であり当時の人々の気持ちは想像しかありませんが、歴史の事実を見ると秀吉にとっては最悪の方向に向かったのだと感じました。またそこも歴史のロマンなのかもしれません。この記事を読んで秀吉の死因を詳しく知る人がいたら嬉しく思います。最後までお読みいただきありがとうございました。

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