「豊臣秀吉の死因って何?」
「もう少し長生きしていたら歴史変わったかもしれないと聞いた」
豊臣秀吉は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、天下統一に導いた3英傑の一人です。戦国武将の中でもファンの多い豊臣秀吉は、農民から出世して遂には天下統一までしてしまう“下克上”の典型のような人物でもあります。
しかし晩年は嫡男である豊臣秀頼も幼少であり、非常に心残りのうちに死去したといわれています。そんな秀吉の死因は何だったのか?この記事では豊臣秀吉の最期と死因に焦点を当てて紹介します。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
豊臣秀吉の死因は?
有力なのは大腸がんや梅毒説
一番有力な死因は大腸がんや赤痢などのお腹の疾患です。秀吉の病は、下痢・腹痛・食欲不振・急激な瘦せ細りがあったと記録されています。これらの症状は、腸に深刻な症状があるときに現れる症状であるためです。そのため数ある死因の中でも、最も有力視されています。
また、脳梅毒などの性病説もかなり説得力のある説です。秀吉は晩年、痴呆が現れ精神錯乱し、失禁もしていたといいます。梅毒は感染後10年以降経つと脳や神経が犯されて麻痺性痴呆症になるそうです。秀吉は非常に漁色漢だったため、性交渉を介して感染する梅毒も有力というのです。もしかしたらこれらの病気が複合していたのかもしれませんね。
天ぷらの食べすぎという死因の噂は?
死因の一つに“天ぷらを食べて亡くなった”という噂がありますが、これは間違いです。恐らく徳川家康が天ぷらの食べ過ぎで死去したという説があるために、混同して噂になっていると考えられます。
天ぷらは16世紀にポルトガルの宣教師から日本に伝わったといわれています。それから広まっていき、特に徳川家康が天ぷら好きが有名で、天ぷらを食べた後に具合が悪くなった後に死去したといわれる程です。もしかしたら秀吉も天ぷらが好きだった可能性もありますが、想像の域を出ません。
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毒殺されたという説も
明国の使節“沈惟敬(しんいけい)”によって毒殺されたという説もあります。これは18世紀に朝鮮で編集された「燃藜室記述(ねんれいしつきじゅつ)」という本に、「秀吉は沈惟敬の毒によって命を落とした」と記されているからです。
沈惟敬は、明の使節であり小西行長や宗美智と和議交渉をしています。1596年には秀吉とも面会しますが、明国も日本も騙そうとする「欺瞞外交(ぎまんがいこう)」だったために秀吉は大激怒。二度目の朝鮮出兵を招いてしまったのです(慶長の役)。
その面会の際に、秀吉と“秘薬”と称して一緒に毒を飲み、沈惟敬は後で毒を吐き出したといっています。ただし秀吉が亡くなったのは1598年のため、2年の開きがあるために信憑性は薄いと考えられています。
前田利家の毒殺説も
秀吉はキリシタン大名にヒ素によって暗殺されたという説もあります。根拠はイエズス会の資料に、「キリスト教弾圧に反対していた前田利家が豊臣秀吉をヒ素によって殺そうとした」という記述があるといいます。
これは弾圧されたイエズス会の資料のために、主力の説ではないようです。ただし、精神錯乱や失禁などはヒ素による中毒でも同じような症状になるために、完全に否定は出来ない説でもあります。
ウィーアー
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やっぱり迫力がちがうなぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー~~