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秦の始皇帝とはどんな人?簡単に解説【死因や家系図、母親、子孫など紹介】

始皇帝は、中国戦国時代に有力だった七国の一国、秦の王となり初の中国統一果たし初代皇帝となった人物です。若干13歳で秦王となり、中国全土を圧倒的な軍事力で従えた始皇帝。晩年には不老不死をも望んでいたそうです。

始皇帝像
出典:始皇帝 – Wikipedia

とはいえ、この記事を訪れた方の中には

「始皇帝が成し遂げた功績を知りたい!」
「始皇帝の家系や子孫がわからない…」
「始皇帝の死因は何だったの?」

と感じている方も多いのではないでしょうか。中国の偉人として名を残した一方で始皇帝自身がどのような生涯を過ごしたのか、また始皇帝の父や母・子供といった家族はもちろん、彼の死因についてなど謎に包まれている点が気になっている方もいるはず。

そこで今回は、初の中国統一を果たした始皇帝の生涯をご紹介。彼の生涯を年表にまとめ振り返りつつ、死因や家系図、子供の存在についても解説します。

強大な力を持ち名をはせた始皇帝の生涯に迫っていきましょう。それでは参ります。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

始皇帝とは?生涯をダイジェスト

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名前嬴政(えいせい)
または趙政(ちょうせい)
誕生日紀元前259年2月18日
没日紀元前210年9月10日
生地河北省邯鄲市(かんたんし)
没地河北省邢台市広宗県
(こうそうけん)
埋葬場所始皇帝陵

紀元前259年、のちに始皇帝となる嬴政(えいせい)または趙政(ちょうせい)が誕生しました。父はのちに荘襄王となる子楚(または、異人)です。父の子楚は孝文王の大勢の王子の一人で秦から趙に人質として出されていました。その理由は王位継承の可能性が低いからです。

商人のイメージ画像

子楚の境遇に目を付けた商人の呂不韋は子楚をもりたて、彼を秦王の後継者とすることに成功します。それにともなって政も秦の後継者となり、子楚の死後に秦王となりました。以後、彼は「秦王政」とよばれます。

秦王政は弟や母の愛人、父を引き立てた呂不韋などを相次いで排除し秦で独裁権を確立します。また、李斯や韓非を登用し法家思想によって国力を増強しました。そして、秦は韓を手始めに趙・魏・燕・楚・斉を次々と併合して紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げます。

始皇帝
出典:始皇帝 – Wikipedia

他の国々を滅ぼし、中国で唯一の支配者となった政は自分の称号を「皇帝」、自称を「朕」、初代皇帝である自分のことを「始皇帝」と定めました。始皇帝は北方民族の匈奴を攻撃し北に領土を拡大。さらに、万里の長城を修築し北の守りを固めました。

史上初の巨大帝国を作り上げた始皇帝は文字や道路、貨幣などを統一。全国を皇帝が派遣した官僚によって統治させる郡県制を開始します。その一方で反対者は徹底的に弾圧しました。絶対的な権力を手にした始皇帝は不老不死を願い、世界各地から秘薬を取り寄せます。しかし、効果的な薬はありません。

全国統一の翌年である紀元前220年から死去する紀元前210年まで、始皇帝はなんども全国巡幸を繰り返しました。始皇帝率いる長大な行列は、支配されている人民に始皇帝の姿を刻み込んだことでしょう。その巡行中の紀元前紀元前210年、始皇帝は49歳で亡くなりました。

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始皇帝の思想、死因

「焚書坑儒」で反対者を一掃

「焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)」とは、始皇帝が行った思想統制のことです。焚書とは書物を焼き捨てること、坑儒とは始皇帝を批判する儒学者を生き埋めにしたことでした。焚書・坑儒を提案したのは秦の宰相の李斯です。

李斯が焚書坑儒を主張した理由は、儒学者が過去を美化し始皇帝の法令を批判することで人々が秦の支配に反発するのではないかと考えたからです。これに対し、人々は書物を壁に塗りこめたり、地面に埋めるなどして焚書から守りました。

1933年にナチスドイツがおこなった焚書
出典:焚書 – Wikipedia

この提案を受け、始皇帝は秦以外の国の歴史書や儒教に関する書物、医学や占い、農業書などを除く「非実用的」な書物の多くが焼かれました。また、始皇帝に対する批判を理由として首都咸陽にいた460人の学者(儒学者を含む)が穴埋めにされます。こうして、始皇帝の政策に対する反対者は一掃されました。

幾度も命を狙われた

始皇帝はその生涯で幾度も命を狙われています。幼いころ、父と共に人質として滞在していた趙では秦と趙の関係悪化に伴い殺されそうになります。即位後は、実の母や母の側近で母との間に不義の子をつくった嫪毐(ろうあい)が反乱を起こしました。

また、天下統一事業の中、燕から派遣された使者の荊軻が始皇帝の命を狙います。彼は始皇帝に献上する短剣の中に毒を塗った短刀を仕込み、始皇帝の命を狙いました。このとき、始皇帝は背負っていた大剣で荊軻を切り捨て、辛くも暗殺の危機を逃れます。

始皇帝暗殺をもくろんだ張良
出典:張良 – Wikipedia

さらに、天下統一後に全国各地を巡業している際、のちに劉邦の軍師となる張良が行幸中の始皇帝の車列を襲撃しました。始皇帝はこれらの暗殺の危機を全てかわします。始皇帝は非常に疑い深い性格だとする記録がありますが、これだけ何度も命を狙われていれば疑い深くなって当然ではないでしょうか。

死因は水銀中毒とも毒殺とも

始皇帝の死因は水銀中毒とも毒殺とも伝えられます。始皇帝が毒物である水銀をなぜ服用したのでしょうか?その理由は、水銀が不老不死の薬であると信じられていたからです。永遠の命を求めた始皇帝は学者や医師たちに不老不死の薬を作らせ飲用していました。

始皇帝の死因の物質として有力視されている水銀
出典:水銀 – Wikipedia

そのため、彼は水銀中毒にかかっていたというのです。ただ、彼の死が100%水銀のせいだとは言い切れません。そもそも、水銀を飲んでいたというのはあくまで可能性の範囲であり、彼が飲んでいた不老不死の薬が別の成分だったかもしれないからです。

すると、何が彼の命を縮めたのでしょうか?もう一つの可能性として宦官の趙高や彼が擁立した二世皇帝胡亥が密かに始皇帝の薬に毒を混ぜたのかもしれません。病状が悪化した始皇帝は追放した皇子の扶蘇を次の皇帝にしようとしました。

そうなれば、今のところ皇位を継承できる胡亥がもっとも損をします。胡亥と始皇帝のそばにあり、彼の遺言を「捏造」することができる宦官の趙高が手を組んで始皇帝を毒殺した可能性は否定できません。

始皇帝の墓(始皇帝陵)

始皇帝陵がある驪山
出典:りざん 驪山

紀元前247年、秦王に即位した政は自分自身の陵墓造営を命じました。陵墓は西安の東25キロメートルの地点にある驪山(りざん)に作られたので驪山陵ともいいます。司馬遷が書いた『史記』によると、驪山陵の造営には70万人以上の罪人が動員されました。

死後の始皇帝を守り続けた兵馬俑たち
出典:兵馬俑 – Wikipedia

1974年に地元住民が驪山周辺で兵士や馬をかたどった「兵馬俑」を発見します。兵馬俑は現在8000体以上出土しており、つくられた当時は鮮やかな彩色が施されていました。彼らは死後の始皇帝を守るための兵士たちです。

また、驪山には地下宮殿がつくられました。地下宮殿は非常に広大で、水銀が流れる川が100本以上作られたといいます。地下宮殿の天井には天体が描きこまれ、まるで地上から夜空を見上げているような風景が作り出されました。

兵馬俑や地下宮殿は未発掘の部分が多くあります。その理由は発掘後の文物を適切に保管できない可能性があるからです。もし、全ての文物を発掘・保管することができたら、歴史上、最大級の考古学的発見になるでしょう。

始皇帝の家系図

始皇帝を含む秦王朝の家系図
出典:Twitter

始皇帝の父

始皇帝の父は秦の第30代国王となった荘襄王です。荘襄王は安国君(のちの孝文王)の王子の一人で、即位前は異人とよばれていました。父の安国君には20人以上の子供がおり、彼の母が安国君の寵愛を失ったため、彼が王位を継ぐ可能性はほとんどなくなります。

投資のイメージ画像

立場が弱かった異人は人質として趙国に預けられました。これにより、異人は趙の都邯鄲で生活するようになります。この不遇の人質に目を付けたのが大商人の呂不韋でした。呂不韋は「奇貨居くべし」(珍しい商品だから投資すべきだ)と考え、異人に資金援助をしました。

呂不韋は安国君の寵愛を受けていた華陽夫人に工作し、異人を後継者とすることに成功します。その後、異人は子楚と名を改めました。あるとき、子楚は呂不韋が連れてきた趙の豪族の娘(趙姫)に一目ぼれ。彼女を側におきました。

実は、趙姫は呂不韋と関係を持っていたともいわれます。そのため、子楚と趙姫の間に生まれた政の父は呂不韋ではないかという説が生まれました。この説は『史記』の呂不韋列伝や『漢書』で採用されている説ですが、現在の学会では否定的です。

始皇帝の母

始皇帝の母親は趙の国の豪族の娘でした。そのため、彼女は「趙姫」とよばれます。趙姫は子楚の妃となる前、呂不韋の妾でした。呂不韋はそのことを黙って趙姫を子楚に差し出します。そして、紀元前259年に趙姫は政を生みました。

子楚の地位が向上し、秦の世継ぎになると趙姫と子の政は秦の国に迎えられます。その後、子楚が秦の王(荘襄王)になると趙姫は王后となりました。紀元前246年に荘襄王が亡くなり、政が秦王に即位すると趙姫は王太后となります。

秘密の恋のイメージ画像

『史記』によると、趙姫は淫乱で男好きでした。王太后となってからもそれは改まらず。かつて関係持って居た呂不韋にと密通していました。宰相となっていた呂不韋は、密通が露見することを恐れ、自分の代わりに趙姫の相手をする男を紹介します。それが嫪毐(ろうあい)でした。

呂不韋は嫪毐に髭をそらせ、偽宦官に仕立て上げ、趙姫の側に侍らせます。やがて、趙姫は嫪毐の子を産みました。紀元前238年、自分の子を王位につけたい嫪毐は反乱を起こしましたが失敗。嫪毐本人と趙姫と嫪毐の子は殺され、趙姫は雍に幽閉されます。その後許され、紀元前228年に死去しました。

始皇帝の弟

歴史書『史記』に、政の弟についての記述があります。彼の名は成蟜(せいきょう)。生年月日は不明です。彼について詳しい記録がなく、母が政と同じ趙姫だったかどうかもわかりません。一説には、妻子を置いて一足先に帰国した子楚が、趙姫と別に妃とした韓国夫人の子だとも伝えられます。

反乱のイメージ画像

政が秦王となると、成蟜は長安君に封じられました。その理由は、韓の領土百里を秦の領土として編入したからだといいます。紀元前239年、成蟜は趙を攻撃するための軍を率いて出陣しました。ところが、彼はその軍を率いて反乱を起こします。秦王は反乱鎮圧軍を送り成蟜を滅ぼしました。

始皇帝の子孫

始皇帝が死去すると、胡亥が二世皇帝として即位しました。始皇帝が後継者にしようとした長男の扶蘇は胡亥と宦官趙高の謀略によって自害に追い込まれます。胡亥は政治力に乏しく、趙高に政治の実権を預けてしまいました。その結果、有能な人物が趙高によって殺され、秦の力が大きく低下します。

紀元前209年、史上初の農民反乱である陳勝・呉広の乱がおきました。国中が混乱する中、胡亥は趙高によって謀殺されます。それから、趙高は王族の子嬰を三世皇帝にしようとしました。しかし、諸悪の根源が趙高だと考えていた子嬰は趙高を殺害します。そして、皇帝ではなく秦王として即位しました。

子嬰は態勢立て直しを図りますが、すでに主力軍を失っていた秦は反乱軍に対抗する力をもっていません。やがて、劉邦軍、ついで項羽軍が秦の都咸陽を占領すると、子嬰は項羽によって殺され、一族皆殺しにされました。

始皇帝の子孫を称した秦氏の氏神神社である木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)
出典:木嶋坐天照御魂神社 – Wikipedia

ところが、滅亡したはずの秦の王族を名乗る一族が日本にいます。それが、秦氏です。秦氏の祖である弓月君は始皇帝の子孫を称する人物で、古墳時代に日本に来た渡来人です。もしそれが本当なら、始皇帝の一族は日本で生き延びたことになりますね。

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