始皇帝の功績
功績1「史上初の中国統一を果たした」
13歳で秦王に即位した政は法家の李斯を登用し国力を増強します。それと同時に実力者である呂不韋や母趙姫の愛人である嫪毐、弟の成蟜などを排除し独裁権力を握りました。富国強兵を果たした政は他の六国を圧倒。紀元前221年に中国を統一しました。
中国を統一した始皇帝は、各地の支配を封建制から郡県制に改めます。封建制が各地の支配をそれぞれの王に任せたのに対し、郡県制は皇帝が任命した県令が皇帝の命令に従って統治する仕組みででした。各地の事情よりも皇帝の意思が何より優先される政治の仕組みです。
次いで、各国で異なっていた貨幣を秦の半両銭に統一。重さや長さの単位、文字の規格も全て秦のもので統一しました。こうして、これまで戦国の七雄のもとでばらばらに統治されていた中国は、始皇帝によって一つにまとめられます。
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功績2「匈奴に勝利し領土を拡大した」
匈奴は中国北方のモンゴル高原を本拠地とする遊牧民族です。彼らは騎馬民族で高い戦闘能力を持ちました。これは機動力で劣る農耕民族にとって脅威となります。そこで、始皇帝は蒙恬将軍を派遣し、匈奴の勢力をより北方に追い払いました。
また、始皇帝は軍をすばやく移動させるため「直道」という軍用道路を建設します。この道は行く手を遮る山を削り、谷を埋め立て作られました。その理由は最短距離で戦場に到達したいからです。実際、現在残されている直道は果てしなく一直線で黄土高原を貫いていますよ。
こうして匈奴に勝利した始皇帝はオルドス地方を征服しました。始皇帝はオルドス地方の守りを蒙恬に託します。
功績3「万里の長城を修築した 」
始皇帝は万里の長城を修築した人物としても知られています。そもそも、長城とは防衛のために築かれた長大な城壁のこと。戦国時代に各国の国境にも作られましたが、もっとも有名なのは北方民族の侵入を防ぐために作られた長城です。
匈奴と国境を接する燕や趙、秦はそれぞれ独自に長城を築きました。築城の目的は遊牧民族が馬で越えられない壁を作ることで彼らの侵入を防ぐことです。万里の長城は、西は甘粛省から東は遼東までおよそ4000キロメートルにわたりました。
とはいっても、現在私たちが知っている明の万里の長城より遥に低いものです。明の長城を基準にしてしまうと、ちょっとがっかりしてしまうかもしれません。しかし、遊牧民族にとって馬で越えられない壁はとても面倒なものでしたので、長城を築く意味は大いにあったといえるでしょう。
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始皇帝の名言
天下、共に戦闘に苦しみ休まざるは、侯王有るを以てするなり。
この言葉は『史記』の「始皇帝本紀」に残されています。始皇帝は戦国時代に戦いが続いた原因を、各地を「王」や「侯」といった貴族たちが支配していたからだと考えていました。そのため、始皇帝は有力者を王や侯とする封建制度ではなく、皇帝が全国各地を直接支配する郡県制を施行しました。
始皇帝にまつわる逸話
逸話1「はじめて”皇帝”を名乗った」
秦王政は燕・斉・楚・韓・魏・趙の六国を滅ぼし中国全土を統一しました。これは、過去の帝王の誰一人として成し遂げたことがない偉業です。政は重臣たちに王に代わる新しい称号を考えるよう命じました。
臣下たちは「泰皇」の称号を提案します。「泰皇」とは、三皇(天皇、地皇、泰皇)の一つで、伝説の皇帝とされた五帝の上に立つとされた存在でした。「泰皇」の称号を聞いた政は「泰皇の泰を取り除き、昔に使われていた帝を用いて「皇帝」という称号にしよう。」と言い出します。
こうして、中国の最高権力者を指す言葉として「皇帝」が生まれました。また、政は自分を「始皇帝」、自分以降の皇帝を「二世皇帝」、「三世皇帝」と名乗らせることにします。
逸話2「不老不死を追い求めた」
中国を統一した始皇帝は、不老不死の存在である仙人になろうとしました。仙人とは神々や修行によって神々に近い存在となった人間のこと。仙人は「仙境」という場所に住み、仙術をあやつる不老不死の存在とされました。
始皇帝の仙人願望を知った方士とよばれる人々は始皇帝に近づき、自分たちに任せてくれれば不老不死の薬を作り出せると提案します。始皇帝は彼らに莫大な資金を与え不老不死の薬やそのヒントとなる知識の開発を命じました。
こうした方士たちの中でもっとも有名なのが徐福(徐市)です。徐福は東の海にある蓬莱山に行き、そこに住む仙人を連れてくるとして始皇帝に資金援助を求めました。しかし、いつまでも成果が出ないことに疑念を持った始皇帝は徐福以外にも調査を命じます。
すると、徐市は自ら海に出て仙人を探すとして大勢の職人や子どもたちを伴って出航しました。そして、二度と始皇帝の前に姿を現しません。結局、徐福以外の方士たちも不老不死の薬や仙人を発見できず、始皇帝の夢は叶いませんでした。
逸話3「秦の滅亡は隕石で予言された」
紀元前211年、東郡(現在の河南省や山東省に広がる地域)に隕石が落下します。その隕石には「始皇帝死而地分」という文字が刻まれていました。始皇帝が死に、中国が分裂するという意味の言葉ですね。
始皇帝はこの文字は秦に反感を持つ者が刻み込んだに違いないと考え、犯人探しをします。しかし、犯人は見つかりませんでした。すると、始皇帝は周辺住民を皆殺しにし、文字が刻まれた隕石は粉々に砕かれてしまいます。
実際、秦は始皇帝が死んですぐに崩壊し始め、始皇帝の死後わずか15年で滅亡してしまいました。その後、陳勝呉広の乱や項羽と劉邦が中国大陸の覇権を争う楚漢戦争を経て勝利した劉邦が新しい王朝「漢」を打ち立てます。結局、隕石の予言はあたってしまいました。
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始皇帝の生涯年表
紀元前259年 – 0歳「政が生まれる」
政、のちの始皇帝が誕生しました。父は荘襄王とも呂不韋ともいわれています。母の趙姫は趙の豪族の娘で呂不韋の愛人でした。そのことを知らず、子楚(のちの荘襄王)は趙姫を自分の妃に迎えました。人質である子楚の子として生まれた政も、自動的に人質となります。
紀元前253年年 – 6歳「秦の昭王が邯鄲を攻撃」
政の曾祖父である昭王はたびたび戦争を起こし、秦の領土を拡大していました。紀元前253年、人質を送っているにもかかわらず、昭王は趙の都の邯鄲を攻撃します。趙はこれに怒り、子楚や政たちを殺そうとしました。
子楚の命が危ないと知った呂不韋は彼を秦に逃がします。しかし、趙姫と政の脱出まで手が回りません。趙は趙姫と政を捕らえて処刑しようとしましたが、彼らはかろうじて趙の追ってから身を隠します。始皇帝はとても疑い深いと評されますが、この時の経験が彼の疑い深さの原因かもしれません。
紀元前246年 – 13歳「政が秦王となる」
紀元前252年に昭王が死去すると、安国君が即位し孝文王となりました。ところが、孝文王は即位後わずか3日で死去。かわって、政の父である子楚が即位し荘襄王となります。これにともなって、子楚の妻と子である趙姫と政は秦の国に行くことが許されました。
そして、紀元前247年に在位わずか3年で荘襄王が死去します。こうして、政は13歳で大国秦の王となります。趙姫は王の母ということで王太后となりました。
紀元前238年 – 21歳「嫪毐の乱」
政が即位しても政治の実権は呂不韋が握っていました。呂不韋は荘襄王を即位させた功績で宰相となり、領土を与えられ文信侯とよばれます。政は呂不韋を父に次ぐ称号である「仲父(ちゅうほ)」とよんで敬意を払いました。
一方、政の母である趙姫は以前と変わらず呂不韋と関係を持ち続けます。これに危機感を覚えた呂不韋は嫪毐という巨根の男を趙姫に侍らせ、自分から関心をそらしました。趙姫は嫪毐を寵愛し、二人の間に子が生まれます。紀元前238年、政は嫪毐が偽宦官であるという情報をつかみ、彼を粛正しました。
紀元前227年年 – 32歳「荊軻による始皇帝暗殺未遂」
秦に人質に出されていた燕の太子丹は紀元前233年に秦から脱出し燕に帰国しました。しかし、無断帰国は当然、秦の怒りを買います。燕の力で秦に勝つことは不可能です。思い悩んだ太子丹は一人の暗殺者を秦に送り込みました。彼の名を荊軻といいます。
荊軻の名は『史記』の刺客列伝に記録されており、もっとも有名な始皇帝暗殺未遂犯といってよいでしょう。荊軻は燕が割譲する領土の地図と秦から燕に亡命していた樊於期(はんおき)の首を秦王政に献上します。
これに喜んだ政は荊軻に謁見を許しました。謁見の日、荊軻は地図を政に献上します。実はこの地図の巻物には毒を塗りこんだ匕首が仕込んでありました。地図が最後まで開かれると、荊軻は毒の匕首を握り政に切り付けます。政はあわてて長剣を抜こうとしますがなかなか長剣を引き抜けません。
その様子を見ていた医者がとっさに薬箱を荊軻に投げつけました。これで荊軻が怯んだ隙に政は長剣をさやから引き抜き、荊軻の足を切り付け、彼の動きを封じます。荊軻は渾身の力を込めて匕首を政に投げますが外れてしまいました。
紀元前221年 – 38歳「中国統一」
秦王となった政は強力な軍隊で隣国の韓・趙を滅ぼします。次いで、魏や燕、楚といった国々も攻め滅ぼしました。そして、秦は最後に残った斉を攻めます。斉は他の5国が滅亡しても軍事力を強めません。これは、大臣が秦からわいろをもらい、軍備拡張を遅らせたからでした。結局、斉は秦の圧倒的大軍に対抗できず、紀元前221年に秦に降伏。こうして、政は中国を統一しました。
紀元前210年 – 49歳「始皇帝死去」
中国統一以後、始皇帝は4度にわたって全国巡行を実施します。紀元前210年、始皇帝は4度目の巡行に出発しました。この時、始皇帝は末子の胡亥と丞相の李斯、宦官の趙高らを伴って巡行に出かけます。
ところが、巡行途中の平原津で始皇帝は体調を崩しました。病状は日を追って悪化します。回復の見込みがないと悟った始皇帝は趙高に遺言書を書かせました。その中で始皇帝は長男の扶蘇に咸陽で自分の葬儀を主宰せよと命じます。ところが、趙高は胡亥と図って遺言書を捏造。扶蘇に死を命じる内容に変えてしまいました。これにより扶蘇は自害。胡亥が二世皇帝に即位します。
旅先で亡くなった始皇帝の遺体は日を追うにつれ腐り死臭を放ちました。それをごまかすため、大量の魚を積んだ車を始皇帝の遺体が乗る車に伴走させます。咸陽に到着した始皇帝の遺体は驪山の始皇帝陵に埋葬されました。
始皇帝の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
『キングダム』
秦王政と将軍李信を主人公にした原泰久原作のマンガ作品です。『史記』のエピソードが土台となっていますが、この作品独自のフィクションも程よく織り込まれています。春秋戦国時代がどんな時代かわからなくても、この作品単体で十分楽しめました。『キングダム』はアニメや映画にもなっているので、こちらもオススメです。
『史記』
横山光輝原作のマンガ『史記』です。横山光輝といえば『三国志』で有名ですが、こちらの『史記』も非常に読みごたえがあります。原作となった司馬遷の『史記』は国の興亡だけではなく、一人一人の人物をフォーカスした列伝が多数収録されていました。
もちろん、始皇帝のエピソードもこの中に含まれます。『史記』を文章で読むのは結構大変ですが、マンガなら気軽に読むことができるのでオススメです。
『秦の始皇帝』
陳舜臣著の本で、始皇帝に関する古典的名作の一つです。『史記』に基づいて始皇帝の人となりや業績を紹介していますので、始皇帝がどんな人か知りたいという人にオススメです。1990年代に出版された本なので、最新の研究が反映されていません。しかし、読みやすさは抜群なので始皇帝の入門書としてもよいのではないでしょうか。
おすすめの映画
「始皇帝暗殺」
「始皇帝暗殺」は1998年に作成された映画で、日本・中国・フランスの合作映画として話題になりました。秦王政と彼を憎む燕の太子丹、丹に政の暗殺を依頼される刺客荊軻のやり取りが見ごたえありますよ。ちょっと古い映画ですが、非常に楽しめました。
おすすめドラマ
「コウラン伝 始皇帝の母」
2019年に中国で制作されたテレビドラマ。2019年1月19日から3月24日まで放送されました。始皇帝の母である趙姫の本名は伝わっておらず、ドラマでは呂不韋が大金で購入した「光輝く美しい珠」にあやかり、「皓鑭(こうらん)」と名付けられたという設定がつくられました。
始皇帝本人というより、趙姫にスポットがあてられた作品ですが、始皇帝も重要人物として描かれています。権謀術数渦巻く秦の宮廷の様子がとてもよくわかる作品でした。
始皇帝についてのまとめ
いかがでしたか?
始皇帝は歴史上初めて中国を統一した人物です。中国全土を統治する制度や貨幣、度量衡など統一国家に必要な様々なものを整え、中国を一体化させた立役者です。
その一方、焚書坑儒や敵の生き埋めなど、敵対者に対しては容赦ない弾圧を加えました。その意味で、始皇帝の評価は功罪相半ばするものといえるでしょう。
すべてダンジョー
バタッ・・・・・・・・・・・(死亡)
黙れ
は~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ウータン風情は消え去れ
うっ、くさすぎる バタッ・・・・・・・・・・(その後死亡)
うるさい。そんなことをいうやつはこうしてやる。くらえ、
ハ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ぷ~~~~~~~~~~~~~
ピカ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
もわ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ん
ちょっと君たち。くさすぎるぞ。いい加減にしろ
おれの体臭はくさいぜ
ぷ~~~~~~~~~~~~~ くう~~~~ 今日もおれのおならはくさいぜ
今日もおれの頭はひかってるぜ
私は息がくさいのよ~~~~
ウッホウッホ