卑弥呼とはどんな人?生涯・年表まとめ【邪馬台国の場所や功績、まつわる謎や死因も紹介】

卑弥呼は、日本という国ができ始めたころ、つまり今から2000年近く前の時代に「邪馬台国」というクニに存在していたと言われる、倭国(当時の日本)の国王です。卑弥呼は当時の魏という国、現在の中国と関係を持ち、親魏倭王の金印、銅鏡百枚、刀や真珠など数多くの貴重なものを頂いていました。

さらに卑弥呼は鬼道と呼ばれる、占いなどの術も得意で、卑弥呼が亡くなった後には国をしっかりと治められないほどに卑弥呼は鬼道を用いた国の統治に成功していたと言います。

卑弥呼

卑弥呼は生まれた年も亡くなった年も、墓についても、どんな顔であったかについても全くわかっていない、そんな謎の多い人物です。彼女は邪馬台国に住み、倭国を鬼道により統治していた、という情報しか存在しない程です。

しかもその情報は「魏志倭人伝」という、卑弥呼が存在していた時代に中国に存在した魏という国が編纂した書物にしか記載されておらず、卑弥呼に関する情報だけでなく邪馬台国の場所に関する情報に関しても詳細は記載されておらず、大まかな情報しかありません。

しかし、その「魏志倭人伝」のおかげで卑弥呼が魏に使いを派遣、いわば朝貢を行っていて、かつ邪馬台国の政治はヤマト政権のように租税が存在し、卑弥呼の弟が実権を握る政治を呪術面で卑弥呼がサポートしていたということも知ることができます。限られた情報ではありますが、人物性に関してはある程度のことはわかる、そんな人物です。

今回は、そんな卑弥呼の魅力に惹かれ学校の勉強を忘れて関連書物を読み漁った筆者が解説していきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

卑弥呼とはどんな人?

名前卑弥呼
誕生日不明
生地不明
没日不明(242~248年頃)
没地不明
配偶者未婚
埋葬場所諸説あり(後に記述)
子女台与(卑弥呼死去後、国を治める)

卑弥呼の生涯をハイライト

卑弥呼像

卑弥呼の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 出生は不明だが、40年続いた倭国大乱の後、189年前後に卑弥呼と呼ばれる女子が倭国の王として即位
  • 鬼道をもって大衆をまとめる
  • 何度か新羅に使者を派遣する
  • 232年に倭国が新羅に侵入し、新羅の王都である金城を包囲、しかし、新羅の抵抗に遭い、1000人以上の倭軍の兵士が亡くなる
  • 238年から239年に卑弥呼直属の家来・難升米を魏に派遣し、金印と銅鏡100枚を皇帝から授かる
  • 242年から248年の間に卑弥呼死去、死因は不明

卑弥呼が書かれていた書物「魏志倭人伝」とは?

「魏志倭人伝」とは、当時中国にあった国、魏が著した書物で、その「魏志」の中の「倭人」に関する伝えが記されている部分を「倭人伝」と呼びます。

魏志倭人伝

この書物には、

  • 倭人とは、帯方郡(当時の朝鮮にあった中国の一部)から南東に海を渡ったところにある国の人々
  • 卑弥呼は邪馬台国に居住している
  • 卑弥呼は「鬼道」と呼ばれる占いを行って国を治めていた
  • 卑弥呼に夫はいなく、弟が国家統治の助けをしていた
  • 卑弥呼が死去した際には、倭人が直径百余歩にも及ぶ大きな塚(古墳)を作った

等の卑弥呼に関する事柄が詳細に記載されています。

卑弥呼に関する中国の書物は幾つか存在しますが、邪馬台国に関して詳細に記述された書物は世界中を見てもこれのみであり、卑弥呼が存在し、邪馬台国という国があったという唯一の証拠です。

卑弥呼の時代の倭国はどんな様子だった?

争いが絶えず、常に騒乱が起きていた

卑弥呼の時代の倭国は、大変荒れていました。「魏志倭人伝」によると、当時の倭国は卑弥呼が即位するまで男性が代々王の座を受け継いでいたところ統治が上手くいかず、倭国の中で大変な騒乱が起こっていました(倭国大乱)。

しかし、倭国の中の邪馬台国から卑弥呼が即位すると、鬼道などを用いることで倭国の情勢は安定し、中国にも朝貢を行っていました。卑弥呼の死後一度男性の王を立てると再び騒乱が起こりましたが、卑弥呼の後継者たる女性の国王を立てると、安定したのです。

卑弥呼の時代はどんな時代?近年わかってきた真実に迫る!【出来事、経済、文化なども紹介】

卑弥呼が治めていた国「邪馬台国」ってどんな国?

邪馬台国の場所や政治は?

邪馬台国は、卑弥呼が居住していた倭国の都の国のことを指します。魏志倭人伝には当時の朝鮮半島にあった国から邪馬台国に至る道程が記されていますが、それによれば、邪馬台国は朝鮮半島から東に1000里ほど海を渡ったところにあったとされています。

邪馬台国の政治には古代日本と同じように租税や賦役の制度が存在していました。また、男子はみな身体に入墨を施し、髪型も男子は髷、女子はざんばら髪のように特殊な風俗感もありました。

卑弥呼はなぜ魏に使いを送ったの?

当時卑弥呼は、「朝貢」という形で魏に使いを送っていました。近世の日本でも朝貢貿易を時代がありましたが、朝貢とは「その周辺の国の中で最も権力のある国に対して周辺諸国が貢物を献上する」という意味を指します。これは、権力のある国に対して貢物を献上してその返礼を受けることで外交秩序を築くという目的があります。

やはり自分の国が外国から攻められてしまっては大変ですから、朝貢することで外交を築き上げようと卑弥呼は思ったのです。

卑弥呼は占い「鬼道」を使って国を治めていた

卑弥呼は鬼道を使えたという記録も

卑弥呼は「鬼道」という呪術的なものを使って国を治めていたことは有名な話です。しかし「鬼道」という言葉は書物上の記述にすぎないため、その言葉が具体的にどんなものを指しているのかには諸説あります。道教と関係があるのではないか、邪術ではないか、はたまた神道ではないか…。

一番の有力説としては、鬼道を「呪術」と解すことで、卑弥呼はシャーマン(超自然的存在)であり、男性が行う政治を霊媒者として補佐していたのではないか、という考えがあります。これによれば邪馬台国は政治と神事の二元的な政治が行われていたということになり、その後の古代日本政治にもつながるのです。

人前に一切姿を見せない秘密主義

秘密主義

卑弥呼は女王に君臨すると、部屋の中にこもるようになり、そこで鬼道を操っていました。人前には一切姿を見せず、会うのは実の弟と、食事を運ぶ給仕1人だけだったと伝えられています。

そのため、女王となってから卑弥呼を見た人は極端に少なかったようです。また、卑弥呼の住む宮殿は楼観(物見櫓のようなもの)や城柵で囲まれており、建物内に入ることができる人も限られていました。

お墓の大きさは150m!100人の奴婢を殉葬

箸墓古墳

卑弥呼は240年代に亡くなった説が有力であるとされていますが、卑弥呼が亡くなった際、約150mの大きさにもなる墓が造設されたという記述があります。この時代は埴輪が導入される前であったので、卑弥呼の埋葬とともに奴婢100人ほどを一緒に殉葬しました。

卑弥呼が埋葬されたとされる墓は大きな塚であり、円墳や前方後円墳のような形をしていたのではないかと推測されていました。これらの情報をもとに奈良県桜井市の「箸墓古墳」が卑弥呼の墓なのではないかという説が挙げられています。

卑弥呼の功績

功績1「魏に使いを送り、金印や銅鏡100枚などを授かる」

卑弥呼は238年に自らの臣下である難升米を魏へと派遣しました。この際に魏の王様から親魏倭王の金印と銅鏡100枚を授けられます。この史実を元に卑弥呼が倭国の王であるという知らしめを全国民へと広げることにも成功したのでした。

親魏倭王の金印

一方で「日本書紀」を執筆した本居宣長は「『魏志倭人伝』に記載されている、卑弥呼が魏へ使者を派遣し、金品を授かり、倭王としての称号を得たという内容は受け入れられない」と批判しています。当時、倭国よりもはるかに高度な文明をもっていた魏が朝貢国の策略に騙され、金印や銅鏡を与え、倭国の王としての太鼓判を押すことはあり得ないと結論づけたのでした。

功績2「70年以上に続いていた王座を巡る戦争を終わらせた」

邪馬台国

卑弥呼が倭国の国王として即位するまでの間、40年から70年に渡って内乱が続いていました。男の首長たちが国王の座を狙っての覇権争いを繰り広げていたのです。その最終章で一際大きな内乱が起こり、このことに懲りた人々が卑弥呼を女王として君臨させたのでした。

卑弥呼は鬼道と呼ばれる呪術を用いて世をうまく治め、卑弥呼が国を統治している間は争いが起こらずに平穏な日々が続いたそうです。しかし、卑弥呼の亡き後は再び男の国王が誕生し、以前のように内乱の絶えない世の中になりました。

卑弥呼にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「卑弥呼は日本の神様、天照大神である」説

皇室の祖先神であり、この日本を築き上げたとされる天照大神(天照大御神)ですが、天照大神は女性であるとされており、また、須佐之男命(スサノオノミコト)と月読命(ツクヨミ)という弟がいたことから、伝記に記載されている卑弥呼の状況と重なります。

天照大神

あくまで伝説ですから100%そうであると言い切ることはできません。しかし、日本の国史である古事記・日本書紀にそのような記載があるとわかってしまったからには、何か関係があるのではないかと考えてしまいます。

都市伝説・武勇伝2「卑弥呼は天皇の妻、神功皇后である」説

第14代天皇である仲哀天皇の皇后であり、日本初の摂政であるとされている神功皇后ですが、実はこの人物が卑弥呼なのではないかという説もあります。魏志から卑弥呼に関する記述を引用して、日本書紀では神功皇后と卑弥呼が関連するのではないかと推測させる記述があるのです。

江戸時代まで長い間その説が有力であると信じられていましたが、実は時間の隔たりがありました。卑弥呼が活躍していたのは3世紀前半であったのにも関わらず、神功皇后の夫である仲哀天皇のご時世はだいたい4世紀であると推測されているのです。この説は時系列が曖昧であるので、現在では少数説とされています。

都市伝説・武勇伝3「卑弥呼の墓は箸墓古墳である」説

箸墓古墳 全景

生まれた年も亡くなった日も不詳な卑弥呼ですが、その埋葬場所である古墳の場所もわかっていません。そんな中、日本最古級の前方後円墳である箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないか、という説があります。これは箸墓古墳の築造年代が不明であったために提唱されていました。

しかし、卑弥呼の没日が242~248年とされているにも関わらず、箸墓古墳の成立年代は3世紀末から4世紀前半とする説が有力となってきていることから、時系列にずれがあることにより、こちらの説は少数説とされています。また、魏志倭人伝に記載されている卑弥呼の古墳の規模・様式とも差異があるのです。

都市伝説3「卑弥呼の死と皆既日食が関係している?」

卑弥呼は242年から248年の間に亡くなったとされていますが、247年から248年にかけて皆既日食が起こったことと卑弥呼の死を関連づける研究結果を日本の天文学者たちが発表しています。

皆既日食

247年の3月と248年9月に北部九州で皆既日食が起こったことが指摘されており、研究者たちは247年の皆既日食で魔力の弱まった卑弥呼が殺され、248年の皆既日食で卑弥呼の代わりに男の国王が即位したと結論づけました。

しかし、現代の綿密な測定によると、邪馬台国の付近では皆既日食ではなく部分日食に留まっていることが分かっており、卑弥呼と皆既日食との関係性は都市伝説程度に収まっています。

卑弥呼の生涯歴史年表

189年「卑弥呼、女王となる」

女王に就任する

正確な情報は存在しませんが189年頃に卑弥呼が邪馬台国の女王となりました。それ以前は男性の王が国を統治していましたが、国内で内乱が続き、卑弥呼を立てることで治まったといいます。

232年「新羅侵入」

新羅への侵入

232年、倭国は新羅に侵入し、新羅の王都であった金城を包囲しました。しかし軽騎兵率いる新羅王の前に倭軍は太刀打ちできず、千人もの捕虜と死者を生んだといいます。

239年「卑弥呼、難升米を初めて魏に派遣」

239年、卑弥呼は初めて自らの家来を魏に送ります。この時派遣された人物が難升米という人物であり、彼は魏から「親魏倭王」と書かれた金印と銅鏡100枚を皇帝から賜りました。これにより、魏より倭国の女王であることを承認してもらったのです。

240年「帯方郡より使者が倭国に訪れる」

親魏倭王の印綬を受け取る

240年、前年の派遣の返答として、魏の使いが倭国を訪れました。この時卑弥呼は皇帝からの詔書や正式な印綬を賜ったのです。

247年「狗奴国との戦い」

247年、邪馬台国と敵対していた倭人の国、狗奴国との戦が始まりました。この時卑弥呼は載斯や烏越を帯方郡に派遣し戦の開始を報告。一方で魏は張政を倭に派遣、239年に初めて派遣された難升米に詔書や黄幢を授与しました。

240~249年「卑弥呼死去」

240~249年頃卑弥呼が亡くなりました。これにより男性の王が即位しますが、ここで再び内乱が起き、その後卑弥呼の後継者である壱与という女性が即位することで治まったと言います。

287年「倭軍が新羅に攻め入る」

当時倭国は食料に困窮していたため、新たな土地を探そうと新羅に郡を派遣し、新羅を火攻めにしました。この時新羅兵を千人程度捕虜としたと言われています。

卑弥呼の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

卑弥呼‐真説・邪馬台国伝‐

漫画という特徴を最大限に活用した本。卑弥呼が卑弥呼になる前からの生涯を、喜劇的な場面も交えながら面白くストーリーが展開していきます。今までの卑弥呼のイメージを払拭し、新たな「卑弥呼観」が生まれるかもしれません。

【真説】日本誕生Ⅰ卑弥呼は金髪で青い目の女王だった!

題名が独創的であるように、本の中身も独創的です。今までの卑弥呼に対する思い、考え、概念全てが覆され、自分の中の卑弥呼が変わります。しかし本に説得力があるので、納得も容易にでき、かつ価値観の変化を楽しむこともできます。

学習漫画 日本の伝記 卑弥呼 邪馬台国のなぞの女王

まさかの子供向けの学習漫画、と驚くかもしれませんが、やはり学習漫画はわかりやすく簡潔に書かれているという点で、卑弥呼という人物を広く浅く素早く知ることができます。一度この本を手に取って読んでから、さらに深堀している書物を読む、というのも良いのではないでしょうか。

卑弥呼をよく知れるおすすめ本6選【伝記から評伝、漫画まで】

おすすめの動画

【衝撃】日本の消された空白の150年。卑弥呼と邪馬台国、謎の四世紀

この動画は、まず邪馬台国がどのような国であったかを広く簡潔に紹介し、動画の中盤から、題名にもある卑弥呼と邪馬台国の関係性を、卑弥呼が神功皇后であるという説の観点から考察しています。卑弥呼の人物性・生涯・彼女自身の謎をサッと学ぶことのできる動画です。

「卑弥呼」踊る授業シリーズ 【踊ってみたんすけれども】エグスプロージョン

この動画では、卑弥呼がどのような人物であったかを、ダンスを取り入れた音楽の中で簡潔に説明しています。しかし、説明と言っても結局は謎の多い人物でありましたので、それを笑いに変えて結局は何が言いたいのかわからないという芸風のいわばお笑い動画となっています。

おすすめの映画

卑弥呼

この映画は、卑弥呼の人物としての物語を語った唯一の映画となっています。しかし内容は歴史的に述べられているものではなく、どちらかというとその風俗性を無理矢理映画にしたように感じるストーリーです。当時の風俗を知る分には十分に素晴らしい映画です。

関連外部リンク

  • 卑弥呼は神功皇后だと日本書紀にはある
  • 邪馬台国と卑弥呼とは〜天照大神との関連性と卑弥呼の可能性〜

卑弥呼についてのまとめ

卑弥呼という人物については伝記が少なく、さらには古事記・日本書紀も卑弥呼の時代から数百年経ってから著されたために卑弥呼に関する記述が曖昧であるという状況の中で、卑弥呼は謎が多い人物とされています。

しかし、邪馬台国に関する魏志倭人伝の記述や、諸説存在する学説から卑弥呼の人物性を推測することに卑弥呼の面白さがあるのです。鬼道によって倭国を治めていたといっても、その鬼道が何なのか、卑弥呼が即位しただけで戦乱が治まったといっても、具体的に何をして治まったのか、そのような記述のない事柄に関して想いを馳せることに意味があるのです。

この記事をきっかけに、卑弥呼に関してさらなる学説や書物を読んで学んで頂きたいと思います。

77 COMMENTS

レキシル編集部

> 都市伝説好き様

確かにその通りですね・・・!
まだまだわかっていないことがたくさんあるのが魅力を倍増している気がしています。

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京藤 一葉

> るるさん

ありがとうございます!
まだまだ書けていない情報も多いので、追記・更新していきます^^

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埴岡寂諦

note,com ペンネーム  卑弥呼の父

卑弥呼ファン集まれー集まれー!!

 さーて、1800年前の歴史!!
 わたし、その時生きていたんでしょうか―。??
 
 みなさん、民俗学の柳田國男先生は、ご存じでしょうねー。
 その「故郷」の話をします。
 こんな古代史に興味をもつなんて、みなさん変わっていますよねー。!!
 これからは、みなさんのことも「変人さん」と呼んでいいですかー。??
 えへへへー。
 前置きは、この位にしておいて、さてさて、何から入りましょうかねー??
 まず、この地に伝えられている「卑弥呼」とみられる。と私の考えている想像をお見せしましょうかねー。
 みなさん、パソコンで「神積寺・鬼追い・写真」で検索してみてくださいねー。
 金色の羽織を着た「山の神」と呼ばれる「鬼」。
 これが「卑弥呼」魏志倭人伝「少有見者」、「女王になってから誰とも会わなかった。

アドレス
sakurako_sakurako0131@yahoo.co.jp

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九州の田舎人

京藤一葉様

簡単に邪馬台国のことを紹介して頂き、有難うございます。邪馬台国は日本に残るロマンの最たるものでしょう。私も挑戦し、その答えを導き出すことが出来ました。荒唐無稽な内容ではないですので、一度ご覧ください。(080-5285-1948)

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九州の田舎人

再度

ほんの小さなことですが、投馬(つま)国は、和名抄に「都萬」とある地名を探せば見つかるはずです。この国は、ちゃんと薩摩半島にあります。基本的なベースを間違えなければ、必ず答えがあります。日本書紀には、天照大神が卑弥呼であることが明確に描かれています。ぜひ連絡ください。おかしな人間ではありません。(Tel:080-5285-1948)

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九州の田舎人

徐福の上陸地について日本各地が候補にあがっていますが、その殆どの地が修験道の聖地です。本当は、大倉集古館と国立公文書館に保管されている2枚の地図にはっきりと明記されています。誰も調べないのがおかしいですね。
邪馬台国の件もそうです。中国の古代の旅行記の書き方、日本の古代の言葉、三国史の時代の船の水準等々、何故調べないのでしょう。それでは同じように百家争鳴となるのは当然です。私としてはこれをきちんと整理したうえで、邪馬台国の位置を探りました。魏の百歩(145m)の墓がある横には、約130人の殉葬慕があります。If you want to know that, please contact me. I’ll send you about an 100 pages of manuscript for free by e-mails.

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九州の田舎人

京藤一葉様

ご連絡がありませんでしたので、皆さんに本当の邪馬台国そして卑弥呼について知って頂ける機会が出来ませんでした。このブログには、まだ興味がある方々が来られています。そこで、この方達に邪馬台国について考える際のヒントを出して、皆さんが間違いなく邪馬台国に行きつけるように、時々コメント欄にヒントを書くことをお許し下さい。
今までの考古学者が以下におかしく、方向がずれ過ぎていたかが、掴んでもらえると思います。

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九州の田舎人

邪馬台国への旅程を探るには、古代の中国での旅行記(出張報告書)の2段階での記載方法が役に立ちます。古代中国では、まず(出発地)A~B~C~D~E(目的地)というように旅行した順番に風物等を記載します。その順番に従って距離や日数を示すので、分かりやすいですね。次に総括として、出発地Aから目的地Eが、どの方向にあり、どれだけ行った所にあるかを示します。
報告をもらった人の立場になると、いつの時代でもこの2段構成で全体像を掴みたいと思います。研究者と称する人が、連続式として奴国まで行ったあと投馬国に行き、それから邪馬台国に行くという永遠に長い行程を考えたり、伊都国から放射式に各国に向かうというような説を唱えるなどは、小学生のレベルであると分かります。

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九州の田舎人

水行1日千里
道教経典の叢である『正統道蔵(しょうとうどうぞう)』の「太清金液神丹経(たいせいきんえきしんたんきょう)」や後漢丹陽の太守の万震が書いた『南州異物志』には、航海の距離について一日千里、一昼夜二千里と示されています。当時の航海記録は、ほぼこれに沿い書かれています。何昼夜航行したとかで距離を推定します。目的地に着けば、それで1日の航海が終わります。正確な距離は関係ありません。よく短里、長里で何kmとか唱える方がいますが、古代の人々はそんなことは考えていません。
船の速度については、船首に木片を海に落として、それが船尾にどの位で着くかで決めていましたが、速い遅いは感覚でした。

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九州の田舎人

「次に〇〇国有り」
「次」という字は21ヶ国を挙げる時に使われています。この字は、最初軍隊用語として使われ「行軍途中での軍隊の小休止」、「泊まる」という意味であったものが、次第に物を順序つけて並べる意味が強くなります。つまり21ヶ国は、勝手な場所に別々にあるのではなく、1日行程の範囲で連続したルート状につながっていることを表しています。
『翰苑』は大宰府天満宮に伝世されていた唐の張楚金の撰、雍公叡の注の書物です。ここには、「邪は伊都に届(いた)り、傍(かたわ)ら斯馬(しま)に連なる」、「伊都(いと)国に到る。また南して邪馬台国に至る」とも書かれていて、伊都国の南側に邪馬台国が位置していることも述べられています。この途中の国々が21ヶ国です。

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九州の田舎人

可について
魏志倭人伝に「方可四百余里」という表現があり、「四百余里ばかり」と訳されています。「余」があるのに「ばかり」では、何かおかしいです。古代中国での「可」の原義は、『新版、漢語林』では「呵・歌や河・柯・軻などのような、「かぎがたに曲がる」の意味を共有するものが多い」となっています。つまり四百余里四方という表現が本当です。倭の国の「周旋可五千余里」は、倭の地が五千里四方の島ですという意味になります。「可」の字は、直線での距離では使いません。戸数でも「余」と「可」が同居しています。「可七万余戸」ですが、これは締めくくるということで、そこまでで七万余戸ということで、邪馬台国全体の人口は、島々と九州全体で7万戸余りということです。

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九州の田舎人

万二千里
『淮南子』は、前漢の時代、淮南王の劉安(紀元前179年~前122年)が賓客方術の士数千人を招致し編纂した思想書です。この巻5時則訓に、「五方位。東方の極は、喝石(けっせき)山より朝鮮を過ぎ、大人の国を通って(貫いて)、東方の日の出の場所、榑木(ふぼく)の地、青丘の樹木の野に至る。(中略)その地は、一万二千里ある。」とあります。榑木、青丘の樹木の野とは倭国を指します。この時に倭国が一万二千里の場所にあるということが初めて出てきます。この文章は、架空の世界を描いたものという方がおられますが、非常にリアルなものです。
「大人国」は、「貫いて」という言葉が島々を刺し抜いていく状態を示しているように、対馬や壱岐の島々のことを示しています。一大国の別の表現です。この一万二千里が、帯方郡から女王国への距離に使われています。慣用句的ではあるが、実際の距離に合っています。

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九州の田舎人

港でのチェック
中国からの船は、松浦の呼子に上陸します。そこでのチェックは国交を承認している国の符の有無を調べます。符は通行証です、使者はこれを持ち他国に赴きます。
 また簡牘(かんとく)というものがあります。これは役人が出張時に用いるもので、誰々が何日にこうゆう目的でその地に赴くので、何日間の食料と経由地での宿泊先を用意して欲しいということが書かれた書簡です。魏の使者の場合、帯方郡の長である太守が書いたと思います。この正式文書がなければ、古代はどの国も食料が不足していますので、役人といえども旅行することは不可能でした。これを港で確認し、役人はそれを必要な先々の村に通知したと思います。しかし書体や字体が違うとか偽の署名がされているとかの問題もあったようです。人物さえ信頼されず、年齢とかその人物の特徴まで記したものもあります。役人は、それをそれまでの経験も踏まえて、厳重にチェックしていたでしょう。

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九州の田舎人

対馬海峡の潮流
以前、韓国から連絡があり、釜山の潮流観測用のブイが流され、それが福岡県の神湊(こうのみなと)の沖の大島に着いて、それを大島の役場で保管しているので、回収する協力をして欲しいとの依頼がありました。そこで国の機関の担当者と一緒に大島に渡り、ブイを博多港に運び、無事にカメリアの定期船に載せて釜山に送り返すことが出来ました。釜山と大島の位置関係をみると、ブイは対馬海峡を直角に横断したことになり、対馬海流はどうなっているのか疑問に思いました。
実はこの海峡には、恒流(一定の方向に流れる対馬暖流の北流)と潮流(潮の干満による潮の流れ)の2つの流れがあり、これが航行の決定的要素になっています。潮の干満により潮の流れが、1日に2回北流したり、南流したりしています。日本海の方に北流することを「下(さ)げ潮(干潮)」、東シナ海の方に南流することを「上(あ)げ潮(満潮)」といいます。そのため古代では、とにかく目標に向かい直進するよう船を漕ぐことが求められました。

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九州の田舎人

朝鮮半島の陸行
 邪馬台国論争で、帯方郡からジグザグに韓半島を南下しこの狗邪韓国まで陸行した図を示す方がおられますが、私は韓国の南に長く住んでいたことがあり、その経験からはそれは不可能と思います。中世の朝鮮では、商売をする人が他の地域に移動することがまま行われていました。その時山に入る時に持っていける食料はせいぜい5日分であったようです。それが無くなるとそこで野垂れ死ぬ人が多く、村では無縁仏として葬られたという記録を拝見したことがあります
朝鮮半島の南部には小白山脈があり、高さが約1,000m近くあり、その中を往来することは非常に困難です。朝鮮半島の山は、岩と松だけで、水も食料を提供できる村もありません。古代では海を利用し移動するのは、安全で短期間で目的地に到達できる便利な方法でした。

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九州の田舎人

不明21ヶ国
斯馬国以下のいわゆる不明21ヶ国については、陳寿が引立てられた張華の『博物志』に載せてあったあいまいなものをそのまま記載した、あるいは特定する力がなく無視している研究者が殆どです。しかしこの21ヶ国の位置を知ることが、この邪馬台国の旅程問題を解決する最も重要なポイントです。
邪馬台国の横に(次に)斯馬(しま)国があり、邪馬台国が南にあるとしたら、この21ヶ国は縦方向に北に向かって繋がっているはずです。そして当然のことですが、出発点を奴国にして逆に南に順序に従い下がれば、邪馬台国の位置も判明するはずです。
奴国の次に、烏奴国(おな国:大野)があります。次が支惟国(きい国:基山)です。このように南行すれば、最後に斯馬国(しま国:都城:島津の名前の発祥地)に至ります。倭人伝は非常に正確に当時の九州の地名を残しています。面白いのは、宮崎市は「伊邪国」ですが、伊邪ナギ、伊邪ナミがそこで活躍し天照大神をもうけた地であることから、自分達の名前としたと思われることです。

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九州の田舎人

帯方郡からの使者の船
南インドの崑崙船は、戦国時代頃から中国の沿岸に姿を見せはじめ、紀元前112年に漢に滅ぼされた南越には崑崙船の造船所があったと言われています。それを参考に中国船自体の改良が行われ、広州の造船所で作られた船は崑崙船クラスでした。
3世紀、東南アジアから帰国した康泰の『呉時外国伝』(『太平御覧』巻769、舟部2)には、扶南国の船(崑崙船)が記録されています。「扶南国は木を伐って船をつくる。(木は)長さ12尋(約23m)、広さは肘6尺(約3m)となり、頭尾は魚に似て、鉄鑷(てつじょう。毛抜き状の鉄板)を以って露装す。大なるは百人を載す。人は長短の橈(かい)と篙(さお)各々1あり。頭より尾に至り、面に50人あり。或は42人、船の大小に従う。」かなり大きな船で、小さな船しか知らない倭人は、この船を見て度肝を抜かれたと思われます。帆は、大型のものが2反ありました。
漢代に入ると船には面白い特徴がみられるようになります。船を魚になぞえ、必ず「目玉」を船の先に描いていることです。邪馬台国時代の使者の船では、それが見られたでしょう。

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九州の田舎人

狗古智卑狗
「狗古智卑狗」については、『倭名類聚抄(和名抄)』に「くくち(久々知)」が「菊池」に注釈されるとして、熊本県北部の菊池地方の豪族のことだとされる方が多いようです。
 しかし「狗」と「古」では音が違い、「くくち」と綴ることは不可能です。これは「狗奴国の古智(こち)彦」とするのが素直な解釈でしょう。「卑狗」は「彦」です。
狗奴国が九州の西側の熊本県中部・南部~鹿児島県北部に位置していたと考えると、「古智(こち)」はこの南側の地域に多い「川内」地名との関連が考えられます。
《八代市》敷川内(しきがわち)、《芦北町》大川内、道川内、川内、添川内、榎川内、鷹川内(たかごうち)、桑川内、榎木川内、《球磨村》河内谷、大川内、添川内、《水俣市》:宝川内、小野川内、招川内(まんば)、《伊佐市》小川内、大口小川内、石井川内、《山江村》内河内谷、内川内谷、《出水市》下大川内、上大川内、白木川内、《いちき串木野市》河内、《阿久根市》鶴川内、上川内、《薩摩川内市》戸川内、上川内、川内(せんだい)川、《姶良市》西川内、松川内、浦川内
呼び方の「かわうち/かわち/こち」は、状況に応じて簡単に変化があるものであり、この川内(河内)地名がある範囲が「狗古智卑狗」=「狗川内彦」が支配していた地域であり、この人物が狗奴国を代表する官となったのではないでしょうか。

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九州の田舎人

吉野ケ里
吉野ケ里遺跡は、佐賀県の東部にあり、弥生時代における非常に重要な遺跡です。しかし魏の使者はこの地に寄りませんでした。それには理由があります。
『後漢書東夷伝』の西暦107年の記事に「安帝永初元年、倭国王師升等生口百六十人を献じ、請見を願う」とあります。これが吉野ケ里の記事です。
『後漢書』では「倭面上国王師升」とあり、『通典』では「倭面土(地)国王師升」とあることから、この「倭の面土」というのが地名を表していると思われます。この「面土」というのは、上古音や中古音では「メタ」と発音するのが一般的です。そしてそれは、佐賀の目達原(めたばる)あるいは米多(めた)郷とある吉野ケ里であることは確かでしょう。
吉野ヶ里遺跡では、防御柵が壕の外側に設けられるという異常な環濠、内郭がありますが、ここに生口が厳重な監視のもと収容されていたと思われます。160人程度の人たちを収容するに丁度良い広さがあり、出入りをチェックするゲートもあります。
160人の生口を後漢に送るとすると、戦だけでは足りず近隣のどこかから人さらいのようにして無理やり集めるしかなかったと思います。結果として泣き叫ぶ160人の生口を贈られた王朝は、この面土国に好感を持たなかったと思います。それはその見返りが歴史書に記載されていないことから分かります。漢王朝の怒りを買い、そしてそれがこの面土国の衰退に繋がっていったのではないでしょうか。

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無アクセント地帯
方言の基礎は、日本では弥生時代に出来たと云われています。方言には、語彙、音韻など様々なファクターがありますが、その中でもアクセントは長い年月をかけても型の明瞭さを維持すると云われていますし、弥生時代の勢力図を表しています。
九州の分布図をみると、北九州と豊前・豊後では中国地方と同じ東京式アクセントが行われていて、かってこの地域が出雲の勢力圏にあったことを示しています。また島原半島、熊本沿岸部や鹿児島では特殊なアクセントが行われています。これは狗奴国と投馬国として生きる肥人と隼人が、本来同じ南方系等の同じ人種であることを示していると思われます。これらの地域は、女王国あるいは邪馬台国の範囲からは除かれます。
もっとも重要なのは長崎北部、奴国、阿蘇の山岳地域、日向の海岸地域から都城にかけての九州の中間部では、崩壊アクセントか曖昧アクセント地域になっていることです。その原因は明瞭な別々のアクセント基があったが、弥生末の戦乱による混乱と統一国家樹立でその基礎を失ったものと言うことが出来るでしょうし、地域間の交流が部族に関係なく行われたことによる崩壊とも考えられます。
 この地域には、奴国から南に下った魏使が邪馬台国に至る際に通過した、北部九州の国々や21ヶ国がぴったりその中に入ります。つまり女王国あるいはその連合国家の地域ということになります。

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対馬の形
対馬をみると、南北に長い島で、真ん中の浅茅湾で狭くなっていて、くびれがみられます。縦状の北の島状は上県(かみあがた)郡で、同じく縦状の南の島は下県(しもあがた)郡で、これが何故「方四百余里四方」と四角い形で表現されているのでしょう。不思議です。これは1辺が400里の正方形という意味です。
この理由は、中世までに描かれたどの古地図をみても、対馬は地図では横長の浅茅湾を上と下の島が「コの字」の形をして挟むように描かれていて、西海岸の村は挟まれた浅茅湾の上下に描かれているためです。
この謎を早稲田大学の黒田智さんが解かれています。「地図上の浦と現在の地名を照らし合わせてみたところ、東海岸と浅茅湾にはたくさんの浦がきわめて正確に記載されている一方で、西南海岸の浦は順番も場所もいい加減に書かれていました。地図の製作者にとっては、東海岸と浅茅湾だけが重要だったらしいのです」と書かれています。
どうも古代の航海者は、東海岸を通って航海することを常としており、西側の情報が少なく、対馬を「コの字」になった楕円形のように思っていたようです。

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一大国
『魏志倭人伝』では、壱岐の島を「一大国」と表していて海北の島々には「一大率」が置かれたとされています。しかし「一大」は「一支(いき)」の間違いであろうと考えられる研究者が殆どですが、私は以前紹介させて頂いた『淮南子』に示された「大人国」から来たものと考えます。陳寿は、『魏略』で「一支国」としてあったものを、『魏志倭人伝』では「一大国」に替えています。それなりの理由があったものと思います。
「大人国」は、「貫いて」という言葉が島々を刺し抜いていく状態を示しているように、対馬や壱岐の島々のことを示しています。紀元前2世紀から後1世紀頃にかけて長崎県の西部、佐賀県北部、奴国(博多)、壱岐、対馬、韓国の南部には赤色の糸島式祭祀土器が分布しており、これらの地域が一つにまとまった国であったと思われます。これらの国を総称して「大人国」といい、壱岐の島は一大国だったと考えられます。『魏志倭人伝』の時代は、これより2世紀後になりますが、まだ「大人国」の時代の記憶が残っていて、「一大国」という表現になったと思われます。

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天の岩屋戸
「天の岩屋戸」での真っ暗闇の世界の出現の出来事は、日食が原因でしょうか。
247年3月24日の皆既日食は、九州の西方海上から中国大陸にかけて18時25分から32分にかけて見られました。248年9月5日は日の出前の5時30分頃から能登から東北を通り、本州の東に抜けます。邪馬台国・卑弥呼とはまるで関係ありません。
それは火山により起こされたものであることは明確です。私もそれに遭遇した経験があります。火山の噴火が起きると、空一面が雲に覆われ、地上は闇に閉ざされます。
 1984年私がバンドンに駐在していた時でした。朝起きると真っ暗闇で、とっくの昔明るくなっていなければならない時間なのに真っ暗闇で一体何が起きたのか分からなくていたら、メイドが近くのバンドンの西にあるガルングン火山が爆発したというニュースをラジオが伝えていたと知らせてくれました。朝食を終えて暗闇の中を事務所の方にライトを付けたジープで向っていたら、空から灰のようなものがフワフワ落ちてきて、フロントガラスにたちまち積り始めました。それをワイパーで除きながら進んでいくと、灰が路上に積もり始めるととともに、徐々にではあるが空が明るくなってきました。事務所に着いた時は、それでもまだ夕方のような明るさで、机の上の灰を下にかき落としたことを覚えています。

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邪馬台国の人々の寿命
『魏志倭人伝』で「その人は寿考、或いは百年、或いは八、九十年。」とあるのは、中国の例を見てくると平均という意味ではなく、そこにいる方の最高齢の方に百年あるいは八、九十年の人がいるという意味です。
漢の時代の地方行政の報告書を「集簿」と呼びますが、「八〇歳以上と六歳以下の人数、九○歳以上と七○歳以上の受杖人の人数」を地方の行政官は調べあげて報告するようになっており、倭国に赴いた使者も、これらを報告したと思われます。
伊湾漢墓は江蘇省連雲市で見つかったものですが、そこから出土した1号牘(とく)から出土した「集簿」では、下記のような数字が挙げられています。
1. 男子:706,064人、女子:688100人
2. 年80以上:33,871人、6歳以下:262,588人
3. 年90以上:11,670人、年70以上受杖:2,823人
高齢者が意外と多い気がします。倭国でも同様な人口比だったでしょう。ちなみに受杖人とは、国家に功労があった方でその証として杖を頂いた方です。
『魏志倭人伝』の文章について、「寿命というものは人々の平均を表しており、百年というのはあり得ない」、あるいは「倍歴」だと主張される方が多いですが、古代中国や多分日本でも寿命という時は、その地域の最高齢の方の年齢を謂っていたと思います。

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投馬国
投馬国は、南にあり水行20日かかると『魏志倭人伝』にあります。この20日をどう考えるかが大きなポイントです。帯方郡から末盧国まで水行10日ですので、これを除くと後は「水行10日」が残ります。この残りの水行10日分については、外洋船を使ったものではなく、帆の使用がまだ一般的でなかった時代ですから、櫓で漕ぐ航海となったでしょう。漕ぐやり方で1日に行ける距離については、22kmから25kmです。
当時の航路をたどると丁度10日目に薩摩川内市の「京泊(きょうどまり)」に至ります。この地は可愛の山稜(えのみささぎ)や薩摩国府があった場所です。川内は「せんで」ともいい、古くは「千台」とも書かれ、天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)が高城千台宮を築き、宮居した処と云われています。しかし重要なことは、この薩摩川内市のやや東南に『和名抄』における「鹿島郡都萬(万)郷」があったことです。この「都萬(つま、あるいはとま)」は明らかに「投馬」のことを指しています。
「と」と「つ」は通音であるため、「とま」が「つま」になり、これに接頭語「さ」が加わり「薩摩(さつま)」になったものでしょう。「さ」は、アイヌ語で山側に対する浜側を意味しており、現地の状況によく合っていると思います。

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天の安川
都城には、鹿児島県財部(たからべ)町、末吉(すえよし)町や三股町などから小河川が流れ込み、都城の中でそれらが合流し、北へほぼ南北方向に向け流れている1級河川の大淀川があります。大淀川は、都城では「竹之下川」、宮崎の跡江辺りでは「大川」、その下流部では「赤江川」と呼んだりしていて、地域の事情により名前が変化しています。
この大淀川に流れ込む河川をよくみると、まず市南部の金御岳の東側を通り北に流れている安久(やすひさ)川があります。この川の市街地に入ったところには、安久(やすひさ)や安留(やすとめ)という地名があります。
また西からは世界一の甌穴(おうけつ)群として有名な関ノ尾(せきのお)がある庄内川が入り込んできますが、川名となった庄内町があり、安永城跡があります。しかしこの庄内は、明治以前は安永(やすなが)と呼ばれていたものが改名して出来たようです。この城の南側を流れる庄内川は、明治以前は安永川と呼ばれていたようですし、この川が大淀川と合流する地点の山田町には、安原神社があります。
また高原町には、安丸(やすまる)という地名と大淀川に流れ込む安丸川があります。これらを鑑みると、これだけ「安」の地名を持つ大淀川は、昔は「安川」と呼ばれていたと考えて間違いないでしょう。神様が集まり会議する場に、最も相応しい堂々とした川です。

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高天原
高天原(たかまがはら)は、「高」が高所にあること、「天」が海人族の入植したこと、「原」が新開地を意味していると考えられます。伊邪那岐・伊邪那美の二神のいた宮崎市から、天照大神が統治を命じられた都城盆地一帯をみると、まさに高い場所という印象です。
この都城盆地には、高原(たかはる)、高崎、高木、高城、少し離れて高岡と、「高」の付く町名が並んでいますが、これは高天原と関係があるのかも知れません。江戸時代の『三国名勝図会』に「土俗伝え云、当邑を高原と号するは、高天原(たかまがはら)の略称なり」とあり、以前からこの地を高天原と伝えてきていたようです。
九州では、平坦な高台を「原(はる)」といいますが、本来霧島山麓に広がる小高く広い平地を、高原と呼んだことから来たかも知れません。高原は、高天原に一番近い名前です。
高崎町(たかさき:都城市)は、高天原の祭事(まつりごと)や居住される皇居(こうきょ)の地を崎と呼ぶことから高崎になったと伝えられています。
 高城町(たかじょう:都城市)は、『三国名勝図会』には「高城の名は皇都(こうと)の遺稿(いこう)なり」とあり、高城(たき)と呼ぶ地名もあります。
この「高」は、天照大神の相談役であり高天原の舵取り・主のような高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)にも関係しており、「高」という字が天孫族のシンボルだったと思われます

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卑弥呼
この時代の卑弥呼の呼び方としては、「ぴみか、ぴめか」というのが近いでしょうが、時の変化で「ぴ」が「ひ」、「か」が「こ」に変化し、私達の理解しやすい言葉「ひみこ、ひめこ」になっていったものでしょう。
「邪馬台国の会」第340回での安本美典さんの記述に下記のようなものがあります。
◇『播磨国風土記』では、「蚕(かいこ)」のことを、「蚕子(ひみこ)」といっている。 「蚕(かいこ)」のことを古語で、たんに「蚕(こ)」ともいうが、養蚕や機織(はたおり)には、女性がたずさわることが多いので、「蚕子(姫子)」といったのであろう。
◇「姫子」「比咩古」の音は、いずれも、「ひ(甲)め(甲)こ(甲)」であって、「卑弥呼」の音に一致する。「姫子」は、古典にあらわれるひとつの熟語として、「卑弥呼」と完全に一致する。「卑弥呼」が、「姫子」であるとすれば、「姫」という語に、愛称または尊敬の「子」がついたものであろう。◇
これは私が25年前より述べ、安本さんにお伝えしていたものと同様の内容です
「卑弥呼」は職業的な名前ではなく、本名ではなかったかと思います。蚕の呼名を「蚕子」あるいは「姫蚕」と書いて「ひめこ」といいますが、この言葉が本名ではないでしょうか。
『日本書紀』には、高天原の話として「また大神(天照大神)は口の中に、蚕の繭をふくんで糸を抽くことが出来た。これからはじめて養蚕が出来るようになった」とあります。
口から糸を出して見せ驚かしている、悪戯っぽい乙女の顔が浮かんできますが、書紀の作者のなかで真相を知っているものが、分からないように暗示しているのかも知れません。
神に捧げる衣服を「神御衣(かんみそ、おんぞ)」と呼びますが、これは特別な巫女のみが織ることが出来るものです。この元は天照大神が自分の衣服を作っていたことに由来しており、その頃は庶民と似て自給自足の生活をしていたことを表しています。現在の伊勢神宮も、この自給自足の考えを引き継いでおり、儀式の意味を知るキーワードでしょう。
しかし、この名前には深い意味が含まれています。

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先蚕儀礼
 古代の中国の王朝が重視した儀礼に、「先蚕儀礼」というのがあります。これは,一連の国家儀礼の一つで,民に養蚕を教えた人物(先蚕氏)を祭る儀礼です。この儀礼の大きな特徴は,ほぼ全てのの祭祀を皇帝が行うのに対して、唯一の皇后主宰を原則とする祭祀であるという点です。下記の文章は、新城理恵氏の「先蚕儀礼と中国の蚕神信仰」を参考にしています。卑弥呼が何故名前を「姫蚕」と名付けられた理由となるでしょう。
先蚕儀礼は「蚕」と「桑」と「祀先蚕」の三つの要素で構成されています。
(『周礼』巻2「天官」内宰条):(二月,詔して,后は女官と諸侯の夫人を率いて北郊で養蚕を始め,祭服を作る。)
『礼記』巻5「月令」):(三月,后妃は斎戒して東に向かい,自ら桑を摘む。(養蚕に従事する)婦女の身を飾ることを禁じ,他の仕事を省いて蚕事に専念させる。蚕事が成ると,繭を繰り,出来高を調べ,郊祀,宗廟の祭服に提供し,みだりに怠ったりしないようにする。)
(『礼記』巻14「祭統」):(王后は北郊で養蚕し,祭服を提供する。夫人は北郊で養蚕をし,祭服を提供する。)
これらは、「農は天下の元」という考えにおいて、皇帝の親耕と皇后の親桑とは,歴代王朝で推進された勧農政策の一環として始められたもので、皇后の被服管理は王朝行事の重要な要素であったと考えられる。
(『礼記』巻14「祭統」)(夫人は北郊で養蚕をし,祭服を提供する。三宮の夫人,女官を占って,吉となって者を蚕室で養蚕に入らせる。蚕の種を奉って,川で沐浴し,公桑で桑を摘み,風で乾かして,これを蚕に与える。)
卑弥呼は、将来重要な国の皇后としての役割を担うことを期待されており、そのため姫蚕(ひめこ)という名前を付けられたものと考えられます。日本においても、現在の皇室でも御養蚕が行われており、当時皇后であった美智子さまが紅葉山御養蚕所で春から夏にかけてたずさわっておいででした。

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卑弥呼が死に至る経緯
『魏志倭人伝』では、狗奴国との戦いを有利に進めるため、邪馬台国は使者を魏の都洛陽に派遣し、色々な工作を行ったようです。その結果「塞曹(さいそう)の掾史(えんし)、張政等を遣わし、因って詔書、黄幢を齎(もたら)し、難升米に拝仮し、檄を為(つく)りて之を告諭(こくゆ)す。卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬ずる者は奴婢百余人。更に男王を立つ。国中服さず。更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。復(また)、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。政等は檄を以って壱与に告諭す。」
「檄」とは、「仲間を集めるためのふれぶみ」のことで、「告喻」とは、「広く一般人民に告げさとす」という意味です。恐らく邪馬台国の役人、兵士、一般の人々へ、宮殿内の広場に集まるようにお触れが出され、人々が集められたと思います。そこに一人の年取った壮年の方に手を引かれ、年老いた卑弥呼も出てきたと思います。そして、帯方郡から派遣されている役人の張政らが、皆の前で邪馬台国の至らないさまを激しい言葉で叱責したのでしょう。卑弥呼はそれで全てを悟ったと思います。
 この死の原因については諸説ありますが、既に老婆となっており国の最高指導者として全ての責任を持ってことに当たっていたことから、狗奴国との戦を有利に進めることが出来ず、檄まで作られ告喻されたことにより、その責めを負い、身を退けることに何のためらいも無かったと推察します。多分服毒し、それで一生を終えたと思います。

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卑弥呼の墓
卑弥呼の墓の場所については、今まで日本国中で探されたと思いますが、確かなものは何もありません。しかし、ここに不屈の研究家がいて、その想像を超えた長期間に渡る努力により、その場所が判明しました。卑弥呼(天照大神)が生まれ育った、宮崎市から少し中に入った瓜生野(うりゅうの)と呼ばれる場所です。
 この研究家は、日高祥(しょう)さんと言います。上北方に住んでおられます。以下は、日高祥氏の著書『史上最大級の遺跡、日向神話再発見の日録』を参考にしています。
 私も日高氏とともにこの場所に立ち、これが卑弥呼の墓であることを確信しましたので、今この弥生式墳丘墓(前方後円墳形)を紹介できることを嬉しく思います。この山は、古来笠置(かさご)山と呼ばれて来ていましたので、日高氏は笠置山墳丘墓と名付けました。この全貌からは、最古級の前方後円墳の可能性があります。
笠置山墳丘墓は、後円部が72.1mで、前方部が72.4mであり、全長で145.5m(魏の100歩)の非常に大型の前方後円墳です。2段目の後円部は、直径が32.0mです。
 加えて墳丘墓の西南側の道路工事をしていた際に、多数の土壙墓が発見されました。最初に4号土壙墓が発見されましたが、30cm掘ると多数の土器片が現れ、この土器片は祭祀時と思われます。土壙の長さは2.57m、幅1.20m、深さ1.20mで、中に約95cmの鉄剣が1本と鉄の鏃2個、鐵飾りなどが入れられていました。「副葬品から見ると、これ等は着装したまま埋められていることがわかる。」とも書かれています。
その後も多数の土壙墓が発見されています。この土壙墓の総数は、まだ発掘されていないものを加えると、土壙墓区で最低105基を超えることが推定され、また直ぐ横の王宮区(もがり部)では、20基以上の土壙墓が見つかっています。総合すると130基ほどになると思われます。
また特殊建築物を囲う柵がずっと西方に続いていて、この柵の内側に柱穴があります。「この建物は四角形で東西283センチ、南北295センチで小さいが、柱穴は平均29センチの大きなもので、中央に柱があり、北西側に南北1メートル。東西80センチの炉があ」り、「火をたやさないほど燃やし続け」られていたようで、「もがりや」の建物とみられます。
笠置山墳丘墓は生目1号墳と同じように山を削るように作られており、卑弥呼が高齢になった際に生まれ故郷に墓を作りたいとして、生前から作られていたものでしょう。この場所は古くより伊勢と呼ばれていた場所で、墓の横には五十鈴川が流れています。

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京藤一葉様
邪馬台国と卑弥呼について、現在分かっている範囲のことを、簡単にまとめて述べさせて頂きました。本当はまだまだお伝えしたいことはありますが、これ以上ご迷惑をおかけするのは本意ではありませんので、ここで止めさせて頂きます。大変ご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした。コメント欄は有難うございました。
邪馬台国を含む歴史については、私は専門ではありませんでしたので、間違いもあるでしょう。皆さんがより真摯に向き合い、真実に迫られることをお祈りします。
最後に一葉さんの書かれた232年の記事を含め新羅侵入については、以前慶州の周辺を何回も現地で調査し侵入方法等を調査しました。勘でしかありませんがもう少し時代が下がるのではないかと思います。

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卑弥弓呼
卑弥呼がどんな人かについて大事なものを忘れていましたので、追加させて下さい。卑弥弓呼に一つの手がかりがあります。
蚕に関する布目順郎氏『絹の東伝』に弓の弦を鳴らす躬桑礼(きゅうそうれい)の話が紹介されています。
 「弓は「別に矢を使わなくても、弦を弾くだけで神秘的で大きな音が出るところから、害獣や害鳥を追い払うのに呪(まじな)いにも使われるようになった。これが鳴弦(めいげん)といわれる作法である。わが国では、弦(つる)打ちといわれる」と書かれていた。この躬桑礼は、后妃が自ら桑を摘むもので、春蚕(はるこ)が始まる時に行われる儀式です。」布目氏は、これを描いたものとして、中国の戦国時代の四川省成都(せいと)百花潭(ひゃっかたん)中学10号墓出土の銅壺と魏晋(ぎしん)時代の甘粛省嘉峪(かよくかん)の新城公社で発見された画像塼(がぞうせん)を紹介されています。
四川省の銅壺には、高松塚古墳壁画に描かれたような衣装を身につけた人々が多く見られます。また甘粛省の画像塼には、鳴弦する子供や弓を持たないが鳴弦の恰好だけをしている子供が描かれています。鳴弦をするのは、男の子の役割と思われます。現在の日本の宮中にもこの儀式が残っています。このことから「卑弥弓呼」の中の「弓」は、この鳴弦からきているのではないかと考えます。
張政一行の一人が、卑弥呼の名前の由来を知り、「ぐ」という言葉に蚕(桑)での「弓(ぐ)」を当て、男性の王の身分を得た人物であることを表したのではないかと思います。逆にこの字は、卑弥呼自身も蚕に関する名前であることを証明してもいます。
 姫は、本来は女性のことを意味していず、単に蚕ということだけを意味していたものが、後にそれらをつくるのが女性であることから、女性のことを指すようになったように思えます。

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九州の田舎人

京藤一葉様

私が離れた後も、いくつか指摘させて頂いた内容を、何らかの形で一葉さんのブログに反映して頂けるかも知れないという淡い期待を持っていました。一葉さんの姿勢である「レキシルでは新たな発見も踏まえながらも王道の情報を入念に調べ上げてご紹介できたらと思います。」と記されているにもかかわらず、そういう姿勢が見られないのは残念です。
私は後期高齢者として、そう長く調査や研究が出来る体力はありません。そこで、語り残したものを紹介させて頂き、万が一このコメント類を発見された方の邪馬台国感が向上されることを望みたいと思います。邪馬台国については、いろいろな方がそれなりの案を述べられていますが、それらがいかにお粗末なものかが、ご理解出来ると思います。他のブログでもそうですが、一葉さんが本当の歴史の深みや楽しみを見つけて頂けることを望みます。

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邪馬台国の方向

女王国の方向は帯方郡より南となっており、その位置を決める重要な要素です。しかし女王国を九州と考えた場合、この南という方向は20度ほど東側に傾くことになります。古代中国においては、どの程度までの方向のブレが許されていたのでしょう。
漢を中心とした地理誌ですと、洛陽が中心となり、そこからそれぞれの目的地への方位、距離が示されています。『続漢書』郡国志五に載る南方の諸国での位置関係を示すと、次のようになります。雒陽は洛陽のことです。(城数、人口等は省略)
● 南海郡 武帝置。雒陽南七千一百里。(東へ約20度)
● 蒼梧郡 武帝置。雒陽南六千四百一十里。
● 鬱林郡 秦桂林郡,武帝更名。雒陽南六千五百里。
● 合浦郡 武帝置。雒陽南九千一百九十一里。(真南)
● 交趾郡 武帝置,卽安陽王國。雒陽南萬一千里。(西へ約15度)
● 九眞郡 武帝置。雒陽南萬一千五百八十里。
● 日南郡秦象郡,武帝更名。雒陽南萬三千四百里。
これを見ると、交趾郡(西へ約15度)から南海郡(東へ約20度)の範囲に収まっています。そのことから、帯方郡からみた九州の東へ約20度傾斜は、ほぼ範囲内として良いと思われます。
そして帯方郡から南方向に向かい、会稽東治の東に向かう交差した箇所に、邪馬台国はあります。

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不明21ヶ国の比定(その1)

21ヶ国の記述は「次○○国」となっていますが、この「次」というのは当時の軍事用語で「1泊して次に向う」という意味です。「新漢語林」では、主に順序をつけると宿泊するという二つの字義が載せられています。
従ってこれらの国々が勝手な場所に別々にあるのではなく、1日行程の範囲で連続したルート状につながっていることを表しています。勿論その到着点は『倭人伝』に「次に奴国あり、此れ女王国の境界の尽くる所」とあるように奴国ですが、原文では邪馬台国からの順番となっていますので、それを終点からとして逆方向で考えてみました。

奴(な)国 = 福岡市中南部、春日
烏奴(おな)国 = 大野城(旧大野郷)
支惟(きい)国 = 基山町一帯(「延喜式」での基肄郡)
巴利(はぎり)国 = 杷木(「延喜式」の杷伎駅、原、針摺などの地名が派生)
躬臣(くし)国 = 玖珠(日田)
邪馬(やま)国 = 八女
鬼奴(きな)国 = 玉名(日本書紀の「玉杵名(たまきな)」の略称)
為吾(いが)国 = 山鹿(為の音は湯、温泉郷)
鬼(き)国 = 菊池郡(旧城野郷で、木乃の地名あり)

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不明21ヶ国の比定(その2)

——ここから蘇の範囲となります——
華奴蘇名(かなそな)国 = 阿蘇市(阿蘇黄土(酸化第二鉄)産地、「かな」は「金」)
呼邑(かお)国 = 河陽(南郷谷)
蘇奴(そな)国 = 高森、馬見原(蘇は阿蘇全体の地名、幅・津留遺跡)
対蘇(つそ)国 = 草部(蘇陽峡を挟んだ蘇奴の対岸)
姐奴(しゃな)国 = 高千穂(椎屋谷が土着鬼八の根拠地)
——ここから日向の範囲となります——
不呼(うか)国 = 岡富(延岡五ヶ瀬川北岸)
好古都(おかた)国 = 臼杵郡刈田(かった)郷、あるいは阿賀多(延岡五ヶ瀬川南岸、旧英多郷)
弥奴(みな)国 = 美々津(「延喜式」美弥(みね)駅)
都支(たし)国 = 佐土原町田島(「延喜式」当磨(たいま)駅)
伊邪(いや)国 = 宮崎(イザナギ、イザナミの根拠地、伊勢の地名から発生)
巳百木(いわき)国 =岩瀬(泉姫が景行天皇を向えた岩瀬川)
斯馬(しま)国 =嶋津(都城の旧名。島津名の発祥地))

つまり帯方郡から、水行10日(帯方郡~呼子、1万里)+陸行(5日+1日+20日=27日≒30日(1月))となり、『倭人伝』の記述通りです。この斯馬国の近くに邪馬台国があります。邪馬台(やまだい)国の名前は都城盆地の「山田」として残っています。

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九州の田舎人

末盧国(呼子)から伊都国までのルート

末盧国の呼子から伊都国までの魏使が通ったであろうルートを検討してみました。呼子から東南方向に下り、中原地区の近くの松浦川の渡河が可能な地点で渡河をし(唐津より少し南側です)、そこから古墳の多い陸を通り現在の玉島川を遡り、七山村平野から荒川峠を北側に向け越え、二丈深江の辺りで東方向に道をとり、伊都国に入るルートが最適ルートと考えています。
『延喜式』の道路を取る案もありますが、後に切り開かれたルートで、『魏志倭人伝』の時代のルートとしては、この案は採用出来ません。それにしても、陳寿は『魏略』にはなかった陸行をわざわざ加えているのが、興味深いところです。荒川峠付近からに二丈町を望む景色は、海と山のアンサンブルが素晴らしく、この景色を紹介するため、わざわざ末盧国から陸路を取ったのではないかと疑われるほどです。
古代の人は、荒ぶる峠の神を畏敬し、峠を越える際何らかのものを手向けていました。この風習は江戸時代まで続いていたようです。荒川峠には土器散布地あり、人びとは土器を割り、それを捧げと思われます。

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陸の運搬手段

日本では古代から陸での運搬手段には背負子(しょいこ)が使われていました。以前伊都国歴史博物館で展示されていたことがあり、その時に拝見した記憶があります。各地でこの背負子に使われた木材が出土しています。
 当時の道路は、対馬国の「道路は禽鹿(きんろく)の径(こみち)の如し。」であり、末盧国の「草木茂盛(もせい)し行くに前人(ぜんじん)を見ず。」という状態でしたので、長い棒に二人で荷物を吊るして運ぶ方法は無理であり、やはり背負子を使ったものと思います。
末盧国(呼子)から伊都国のルート上の松浦川の横に中原遺跡があり、ここから背負子が出土しています。ここでの背負子が魏使の移動に使われたのかも知れません。勿論九州縦断にも使われたのは当然です。
日向地方では、背負子を「カルイ」と呼びました。また運搬具に網を編んで袋としたもの(カガリ)や、背負子に袋を付けたもの(カレコ)などもありました。
背負子で銅鏡を運ぶとすると、20cm径位のものが重ねやすく、運びやすかったでしょう。

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陸行の日数

『魏志倭人伝』での末盧国(呼子)から邪馬台国の横の国斯馬国(都城)までの陸行での一月とは、どのようなものだったでしょう。
これは、末盧国から奴国までが600余里(6日)であり、この奴国から邪馬台国の横の斯馬国までの20ヶ国分20日をその陸行に加えて、移動日が合計26日となります。
 古代の中国では、往亡日(おうもうにち)というのがあり、1年間に12日、旅行や婚姻、建築などを忌み禁じています。出掛けるのに凶の日は、正月寅、二月巳、三月申、四月亥、五月卯、六月牛、七月酉、八月子、九月辰、十月未、十一月戌、十二月丑の日にあたります。日本では、正月7日目、二月14日目などという日を定めています。まあ現代の私達からみるとそこまでしなくてもと感じることがありますが、古代の人は真剣にそれを守ったようです。
 古代中国には、その他方位や星の方角による吉凶等もあり、旅行するのは大変でした。このため恐らく1月に4日ほどは、移動できない日があったと思われます。そうすると、旅行日は26日+4日で、30日となり丁度一月となります。

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水深測量と潮汐

秦や漢の時代は河川から始まり沿岸での船の通行が頻繁に行われてくるようになり、この時問題となるのが河や海の水深でした。安全に航行できなければ、どうしようもない訳です。
そこで船には、測深錘や水鉈という重い金具とひもを結び水面下に下ろして水深を測りました。測量の単位は、人が両手を広げた托(たく)で1.5mの長さです。単位長さのタッグをこの紐につけ、それで水深を測ります。測量の左辺が水を示すサンズイがあるのは、そこから測量が始まったことを示しています。
そして航海の発展と水深測量の結果で、潮の潮汐活動がだんだんと分かるようになってきました。海が浅い場所では浅瀬・暗礁での座礁の危険性が大きく、また港への出入りには海の高さが関係しています。必然的に潮汐の知識が要求されてきます。前漢時代、枚乗(ばいじょう、~前140)は著書『七発』で、潮汐と月齢の関係を説明するような「8月の望」の大潮のことを述べています。
後漢になると、王充(おうじゅう、27-97)は潮汐の成因理論を作っています。著書の『論衡』の書虚篇に、「涛之起也、膸月盛哀」(潮の満ち退きは、月の満ち欠けによって大きかったり小さかったりするのであって、潮の満ち退きはいつも同じではない)ということ考えにいたり、月と潮汐の関係を科学的に示しています。紀元1世紀には潮汐表も作られていました。これを使い船は潮をうまく利用をして航海をしていたようです。潮の流れに乗れれば、船を進めるのが容易ですし、港に入ることも容易になります。後漢の光武帝の時代に、馬援将軍は航海の安全を期するため「潮信碑」を作り、渡海する人に潮の満ち引きが分かるようにしたと云われています。
『魏志倭人伝』の時代に、中国あるいは帯方郡から来た船は水深を測量し、帰路の安全を図り、潮の流れの変化をみて、航海の安全を図っていたと思われます。

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大国主命(おおくにぬしのみこと)

出雲の国譲りで有名な大国主命(おおくにぬしのみこと)は亡くなられ出雲大社として祀られた時に、その御殿が西に向けられて建てられています。土井ヶ浜遺跡の頭骨の向きが西北西であり、山東半島を故郷とする人々だったのではないかと考えられていますが、同様にこの方の本来の出身地が西側の「大人国」であったのではないかと思われます。大国主命の父親の名前は、『日本書紀』では「天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)」という意味が分からない不思議な名前になっていますが、言葉で伝わったものを漢字で表わした際に、意味が違ってきたものと思われます。ワザとかも知れません。 
『粟鹿大神元記』は、戦後に発見された古記録で、『記紀』より古い和銅元年(708年)に但馬国朝来(あさご)郡の神部勅根(みわべのあたいねまろ)によって書かれた古書です。ここに書かれている神名は本来の形を表していると云われています。
ここに大国主命の父親の名前として、「天布由伎奴(あめのふゆきぬ)」の名が出てきます。「ふ」と「ゆ」がはっきりと分かれています。つまり「天の府壱岐主神」が本来の名前であったものでしょう。
ちなみに「ゆき」は『万葉集』にも「壱岐(ゆき)の海人(あま)」とあるように、昔の島の読み方です。つまりこの壱岐国のあるいは大人国の支配者であり、その子の名前に出身地の「大」が付けられているように考えられます。

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「火の国」の名(ちょっと休憩)

『矢部風土記』という書物があります。江戸時代後期に熊本県矢部地方の伝説・伝承を集めたものです。その中に面白い挿話があります。「景行天皇が九州に巡幸した際に、椎葉村と矢部(山都市)の境の国見岳(1,739m)に登り国見をした際に、遠くの方に山(多分阿蘇山)から火が出ているのを見て、その国を火の国と名付けた」というものです。これが、本当の熊本の「火」の国のゆらいを表したものと思います。この場合景行天皇が九州全体を見て国見をするという話が『記紀』にはありませんので、実際は何らかの事情で抜けている可能性があります。
『日本書紀』には、景行天皇が八代(やしろ)県豊村で不知火の火を見たことから火の国と名付けたという話があります。『肥前国風土記』では肥君(ひのきみ)らの祖健緒組(たけおくみ)が土蜘蛛(つちぐも)を討伐した時、八代(やしろ)郡の白髪山で宿泊した時に、大空に火があり、ひとりでに燃え、しだいに降下しこの山に燃えついた。このことを崇神天皇に報告すると、「天から火が下ったのだから、火の国とよぼう」との話があります。これらの話に、『矢部風土記』の伝承も加えると、より熊本が「火の国」としての印象が強くなるでしょう。

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霧島山の噴火

 古事記に「高天原も葦原中津国も闇になり、様々な禍(まが)が起こった」と記されていますが、この出来事はまさしく火山の爆発がもたらしたものと言えます。それではこの火山の爆発がどこで起きたのでしょう。
宮崎県の「平成7年度 霧島山火山噴火災害危険区域予測図作成業務報告書」のデータに気象台の記録を加味してみると、霧島山火山の歴史時代の爆発の記録から、霧島山の特に御鉢の大噴火が、1895-96年、1566年、1235年、788年に起こったことが分かります。しかしこの間にも小~中クラスの火山の爆発が起きていますが、大きな火山の爆発は古いほど間隔が長く、この傾向から西暦200年頃の卑弥呼の時代に大噴火が起こったことが推定されます。卑弥呼が30代の頃だったでしょう。この御鉢の大噴火は時代を遡るほど規模が大きくなっていることが分かります。788年の噴火では溶岩流、火砕流、降下火砕流などが観測され、霧島神宮が焼失しています。(史上最初の噴火は、742年)
 従って卑弥呼の時代に起きた噴火が非常にすさまじいものであったことが分かります。
宮崎県の報告書では、1959年の新燃岳噴火による災害実績図が載っていますが、火山灰は東側に向って都城盆地から広範囲に宮崎市の海に及ぶ範囲に広がり、農作物に多大な被害をもたらしました。卑弥呼の時代のものはそれより大きいものでした。霧島山の火山灰は気流の関係で、必ず東側に流れることが分かっています。まさに記紀の記録そのものです。
他の火山では、卑弥呼の時代を特定することが出来ません。天照大神がいた時代に起こった天地が暗闇に閉ざされる事件は、日食ではなく間違いない霧島山の噴火によるものです。

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邪馬台国の人口

安本美典氏の『卑弥呼は日本語を話したか』によれば、奈良時代の薩摩国・大隅国・日向国それぞれの人口は、下記の数字になります。
       薩摩国  58,869人
       大隅国  44,741人
       日向国  61,224人
これをベースに人口を推定してみました。投馬国を薩摩国、邪馬台国を日向の国とし、大隅国の一部が邪馬台国の時代は日向国に含まれていましたので、日向国に1/3程度を配分しています。それに両国の人口を奈良時代の3/4と推定しました。他国の人口も加えれば、下記の通りになります。(可はそれまでの合計という意味ですので、投馬国、邪馬台国とも2万戸とし、北部九州は3万戸としています。倭人伝の数字は、真実に近いようです。)
     投馬国 (薩摩国)  44,144人(2万戸)
     邪馬台国(日向国)  57,104人(2万戸)
女王国(邪馬台国以外)19,037人 (邪馬台国の3割として算定)
     伊都国他 75,000人 (1戸2.5人として:3万戸)
     合計         195,285人 (狗奴国以外の総合計)
邪馬台国の人口を奈良時代の3/4としたのは、桑原秀夫氏の『古代文化』の中の「日本の古代人推計についての一考察」における人口増加曲線を使い、奈良時代(西暦680年)より邪馬台国の時代(240年)が440年遡るとして、奈良時代の比で求めています。
この人口は鬼頭氏の推定より大幅に大きなものですが、鬼頭氏の推定は余りにも小さなものですので、この程度が適当でしょう。恐らく九州の人口は、狗奴国を加えれば21~22万人といったところと推定されます。

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花弁式間仕切り住居

 『魏志倭人伝』では、住居のことを「屋室有り。父母、兄弟臥息(がそく)処(ところ)を異にす。」と記述しています。これは「部屋には区切りがあり、父母や兄弟が別々の所で寝ている。」ということです。
 この時代の普通の住居をみると、円か方形に掘り下げた竪穴住居が一般的です。ところが邪馬台国の時代を境目に、弥生後期から古墳時代にわたり、宮崎県の南部から鹿児島県が中心で、九州の北部にまで広がった「花弁式間仕切り住居」が出現しています。宮崎市熊野原遺跡、都城市祝吉(いわよし)遺跡、鹿屋(かのや)市王子遺跡など、この手の住居が数多く九州南部を中心に発見されています。
 この住居の特徴は、壁際の数か所に幅50cm、長さ1mほどの堀残しがあり、この突出した壁により部屋割りをしていることです。円形の住居が花弁状にみえることから、この名が付けられました。
 この部屋は、幅が2mほどあり、人が寝るのにちょうど寸法が合うので、間違いなく寝るときは「床を異にす」と一人一人別々だったことが窺がえます。このことは邪馬台国が宮崎であったという、はっきりした文献と考古学の成果が一致した大きな証拠でしょう。

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赤く顔や体を染める風習

「朱丹(しゅたん)をもってその身体を塗る。中国の粉(ふん)を用ちうるがごとくなり」。これは宮崎県都城市山之口町の「弥五郎どん」祭りに見られるように、隼人などの南方の風俗としての赤く顔や体を染める風習を謂ったものでしょう。
弥五郎どん祭りとは、征服した隼人のたたりを恐れた朝廷が、隼人の鎮魂を願い放生会(ほうじょうえ)を行った際、降伏した隼人の首領をその先払いにしたことに始まります。この弥五郎どんは、高さ3mほどの朱面を被った人形で、子供たちが引っ張って町中を練り歩く祭りです。この朱面が隼人の風俗を示していると伝えられていますが、九州の南部全体で同様の風俗があったものと思われます。
南九州の人々は阿蘇山でのベンガラを豊富に入手することが可能でしたので、こうゆう風習が自然と身についていたのでしょう。「朱丹」とは赤い色の顔料を言う言葉で、必ずしも水銀朱(硫化水銀)を指す言葉ではないと思います。「丹」として、この産地が邪馬台国だという説は、この点間違いがあります。

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何故魏使は九州を周回したのか(蓬莱の三神山)

『魏志倭人伝』に、「倭地を参問するに、絶えて海中の洲島(しゅうとう)の上に絶在す。或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかり。」とあり、「参問」とは「実際に訪ね確かめる」という意味ですので。魏の使者が倭地(九州)を周回したことが、その優れた短い筆跡から分かります。では、何故この九州の地を周回したのでしょうか。
 この答えは、中国の蓬莱思想にあります。中国最古の地理書『山海経』の「海内北経」に、「蓬莱(ほうらい)山は海中にあり、大人の市は海中にあり」と記されているように、古代から海中には蓬莱山があることが言い伝えられてきました。この蓬莱山は仙境の一つで、仙人が住み不老不死の薬があるところとされていました。道教の中の神仙思想の流れを汲むものです。
 この蓬莱伝説では、海上に五神山があるとされていました。「蓬莱(ほうらい)」、「方丈(ほうじょう)」、「瀛州(えいしゅう)」、「岱輿(たいよ)」、「員嶠(いんきょう)」の5山ですが、このうち「岱輿」と「員嶠」は、海中に沈んでなくなったと云われ、三神山のみがあるとされていました。
 これらの山は、壺の形をしているので「三壺山」とも呼ばれ、不老不死の象徴ともされ、それが前方後円墳の壺型の形となったと思われます。この三神山は、山東半島の先の海中にある日本のことを指すとも言い伝えられていて、魏使はこの3ブックの西側の島(九州)に行くことにし、この島が三神山の一つであるか確かめるためこの島を周回し、それを記録に残したと思います。九州を一周できたことで伝説を実感し、感動し、それが『魏志倭人伝』の文章に残ったと思います。
 『魏志倭人伝』では、また「女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有り」ということで、東側に同じような国があることを報告していますが、これは三神山での中央の島が、同様に千余里離れた所にあり、この倭の地が伝説の土地であることを、やはり感動を持ち伝えていると思います。

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卵形の墳墓

 笠置山墳丘墓は、後円部が72.1mで、前方部が72.4mであり、全長で145.5mの非常の大型の前方後円墳です。生目1号墳の全長が136mであることから、それよりも重要な人物が埋葬されていたことが分かります。後円部が32.0mですが、やや卵側をしています。
 この卵形の円墳というのは、うっかり見逃しそうになりますが、非常に重要な初期の古墳を考える上でのファクターになります。それはこの地方で円墳での盛土が始まる前の円墳が、実は卵側あるいは楕円形をしていたということです。朝倉観音神社の横に円墳があり、日高氏と一緒に見に行ったが、ここには手つかずの円墳が残っていたが、確かに卵型をしていることが分かります。
 西都原第2古墳群の、81号墳が3世紀中ごろ造られ、日本の最古級の前方後円墳と云われています。この後円部の径は37.5mで、前方部の長さ20.0m、全長で53.7mの形をしていますが、特徴的なことはこの後円部の形が卵型をしていることです。笠置山墳丘墓では、特に2段式の墳丘墓の上部の形が、完全に卵側です。
 卵側の後円部は、人を埋葬する場所ですので、人が卵の中で温められ再生することを祈ったものではないかと思われます。宮崎県では農地造成のために多くの円墳が壊されましたが、その多くが卵形をしていた可能性があります。生目1号墳も、よく見ると後円部が卵側をしています。このことは、当時の人々の願いを表していると思います。後の前方後円墳には周壕が作られますが、これは子宮を意味していて、同様に再生を願ったものだと考えています。

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