西太后とはどんな人?生涯・年表まとめ【遺体や死因、悪女の逸話も紹介】

西太后とは、中国が清という名前の国だった頃の権力者です。彼女は最初、咸豊帝(かんぽうてい)という皇帝の側室でしたが、後継ぎとなる男子を出産しました。そのため正室になれなかったにもかかわらず、咸豊帝が亡くなった後に、西太后は皇太后の地位につくことになりました。

咸豊帝のあとに自分の息子・同治帝を即位させ、政治を補佐していた西太后でしたが、その権力欲は強く、意見の合わない者、ジャマになった者は次々と粛清していきます。

西太后の晩年の姿
出典:Wikipedia

そんな西太后も病気のために、1908年に72歳でこの世を去りました。前日に同治帝の後に皇位についた光緒帝が亡くなっており、さらに後継ぎまで用意していた手際の良さでした。

女性として政治に携わり、豪華な生活も楽しんだ西太后の人生は、小説よりもはるかに興味深いものです。同じ女性として、ぜひ多くの人に西太后の人生をお知らせしたいと思います。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

西太后とはどんな人物か

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名前西太后・慈禧太后(じきたいこう)
誕生日1835年11月29日
没日1908年11月15日
生地不明
没地清国北京中南海儀鸞殿
配偶者咸豊帝
埋葬場所清国直隷省遵化直隷州普陀峪定東陵

西太后の生涯をハイライト

西太后たちが暮らした紫禁城
出典:Wikipedia

1835年に清国で生まれた西太后。詳しい出生地は不明です。18歳で後宮に入り咸豊帝の側室となり、男子を出産したために貴妃(事実上の側室のトップ)に昇進しました。

自らの息子・同治帝が即位すると、それを補佐するという名目で西太后は政治に関わるようになります。同治帝が若くして亡くなると、甥にあたる光緒帝を即位させ、自らの権力が衰えることはありませんでした。

光緒帝が目指した国の改革に反対、クーデターを起こした後は、義和団の乱を利用して外国に宣戦布告しようとして失敗してしまいます。義和団の乱の終結以降は、民衆の気持ちを重んじて政治改革しましたが、病には勝てずに1908年に死去。その3年後に、辛亥革命により清朝そのものが終わりを迎えるのです。

中国三大悪女と呼ばれた一人

中国三大悪女の一人・武則天の肖像画
出典:Wikipedia

西太后は前漢時代の呂雉(りょち)、の武則天と並んで中国三大悪女の一人と呼ばれています。残忍な行いと、国を傾けたことで3人は悪女と呼ばれるようになりました。

西太后と同じく呂雉も武則天も、政治の場で自分の思い通りにふるまったために、トラブルが頻発したようです。そんなトラブルが結果としては国の力を弱めてしまったわけです。

特に西太后の死後、清王朝が滅亡したときに、次々と国内の省が独立、中華民国が誕生します。その後は事実上国内が分裂状態となり、弱った中国は西欧列強の餌食となってしまいました。西太后の責任は大きく、悪女と言われても仕方がなかったかもしれません。

西太后が権力を手にしたきっかけ

同治帝は西太后の息子であり、清朝第10代皇帝だ
出典:Wikipedia

咸豊帝が亡くなった後、政治の実権を誰が握るかで、西太后は次期皇帝の後見人に指名された大臣たちと激しく争います。西太后は咸豊帝の正妻だった東太后、そして咸豊帝の弟・奕訢(えききん)を取り込み、クーデターを起こし、大臣たちを処刑しました。

その後に息子を同治帝として即位させ、それを補佐するという名目で、東太后や奕訢とともに、政治に関わるようになるのです。

不幸なことに同治帝は若くして亡くなりますが、西太后は自分の甥を光緒帝として即位させます。光緒帝が即位した後、東太后は脳卒中で亡くなり、奕訢は清仏戦争の責任を問われ、失脚しました。その結果、西太后は獲得した権力を独り占めすることとなりました。

注目を集めた西太后の爪やファッション

オランダの画家による西太后の肖像画
長い爪が印象的
出典:Wikipedia

現在残されている西太后の肖像画や写真を見ると、どれもたっぷりとした布地の服を身に着けていることがわかります。これは清を支配していた満州人貴族の服で、旗装と呼ばれるものです。この旗装は後に洋装の要素を取り入れ、チャイナドレスへと進化していきます。

また、西太后の爪がとても長いこともわかりますが、これは爪にカバーをつけているためです。かなり位の高い者しかつけられない装飾品で、美しい細工が施されています。長く伸ばした爪を保護するだけでなく、自分は爪を伸ばしていても不便ではない(使用人にすべてやってもらえる)のだと誇示する目的もあったようです。

西太后の死因・遺体の末路

歴代皇帝や皇后の墓陵群を清東陵と呼ぶ
西太后の墓は普陀峪定東陵という
出典:Wikipedia

1908年西太后は病にかかります。ひどくお腹を壊していたと伝わっており、赤痢だったとも言われています。甥の光緒帝が亡くなるのを見届けるかのように、光緒帝の死の翌日に72歳でこの世を去りました。

西太后の遺体は5日かけて、歴代皇帝たちが葬られている清東陵に運ばれ、葬られました。棺桶には金銀財宝が収められていましたが、1928年、国民党の軍隊によりすべて盗まれてしまいました。

徹底的な略奪と破壊に、西太后から光緒帝の跡継ぎに指名された溥儀は政府に対して猛抗議しました。しかし、それは聞き入れられることはありませんでした。

この事件は溥儀を中国よりも日本に近づけ、中国東北部が日本に占領される結果を招きました。西太后の遺体の末路は中国と日本の歴史を大きく動かすことになったのです。

西太后が亡くなる前にしたこと

西太后に殺害されたかもしれない光緒帝
出典:Wikipedia

西太后は死の直前に光緒帝を殺害、その後継ぎとして光緒帝の甥にあたる溥儀を擁立したと言われています。

西太后はもともと光緒帝の行った変法運動(明治維新のように国を改革する運動)に反対して、一時は光緒帝を廃立しようとしたのでした。

諸外国からの反対でそれができなかった西太后は、亡くなる前に強い意思で光緒帝を殺害したのかもしれません。実際に光緒帝の頭髪からはヒ素が検出されています。それは致死量を上回るもので、毒殺された大きな証拠となっています。

自らの死期が迫っているのに、甥にあたる光緒帝を殺害したとするなら、西太后の意思は相当な強さだったと思われます。

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