西太后とはどんな人?生涯・年表まとめ【遺体や死因、悪女の逸話も紹介】

西太后の呆れた点

呆れた点1「飢饉は無視しても権力は強めた」

最終的に西太后に失脚させられた奕訢
出典:Wikipedia

西太后は清のピンチは無視して、自分の権力を強めることに一生懸命でした。

政治に携わっていた西太后でしたが、1875年から4年ほど続いた飢饉のときは何の手も打たなかったようです。民衆の救済は裕福な民間人によって行われるだけだったため、1000万人以上の餓死者が出てしまいました。

飢饉の後すぐ、1881年に東太后が突然亡くなります。このチャンスを西太后は見逃しませんでした。東太后の死後、ともに政治に携わってきた奕訢を失脚させ、権力を独り占めするのです。

呆れた点2「莫大なお金を浪費したため日清戦争の予算が激減した」

西太后が莫大なお金をかけて再建した頤和園は
中国北京市にある庭園公園
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1895年の日清戦争で、小さな島国だった日本が大国・清に勝利しましたが、これも西太后に責任があったと言えます。西太后が力を入れていた頤和園の再建と拡張工事、また、自らの60歳の祝いに莫大な金額をかけたために、戦争のための予算は激減してしまったのです。

頤和園の工事は海軍の予算を流用して行われたそうですし、60歳の祝いに日清戦争・総費用の2倍の金額がかけられたと言います。

日清戦争は日本が勝利したのではなく、清が自滅したというのが本当のところでしょう。

呆れた点3「義和団の乱をけしかけるも途中で逃げ出した」

8カ国の連合軍が迫り、西太后は逃げ出した
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西太后は民衆の力を利用して外国諸国に宣戦布告しようとしましたが、思わぬ醜態をさらすことになりました。

宣戦布告はアロー戦争で痛い目にあったからとも、政治方針が気に入らない光緒帝を廃そうとしたのをジャマされたからとも言われています。

1900年に義和団という新興宗教団体が「義和団の乱」を起こします。国内の外国人を襲い、西洋文明の証である鉄道や電線を破壊した義和団。そのスローガンは「扶清滅洋」で外国嫌いの西太后にはピッタリでした。

西太后は義和団の乱に乗じて外国諸国に宣戦布告しましたが、連合軍が迫ってくると、慌てて逃げ出してしまいます。その後、1902年に義和団の乱が終結すると、平然と北京に戻り、以前と変わらぬ権力を振るおうとしました。

西太后の名言

義和団の旗・西太后はもう彼らに頼るしかなかった?
出典:Wikipedia

中国の積弱はすでに極まり。恃むところはただ人心のみ

義和団の乱のときに、諸外国に宣戦布告した西太后。このときの彼女の言葉です。積弱とは長年の間に積もった衰弱です。西太后には、清国が弱っていたことがわかっていたのでしょう。そして頼みの綱は民衆の心だと言っています。状況がわかっていながら、あまりに無謀な判断でした。

西太后にまつわる逸話

逸話1「西太后の食事は現代でも通用するものだった」

北京ダックは西太后の好物だったという
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西太后の食事は健康に良いものだったと考えられています。権力を誇った西太后ですから、食事もさぞ豪華だっただろうと考える人も多いでしょうが、長い間権力の座につくためには、健康が必須条件でした。

西太后の食事には現在でも学ぶところが多くあります。その食事で大切にされていたのは、次の2点です。

  • 多種類の食材を使うこと
  • 1度の食事に必ず5つの味の料理を出すこと

この2つのために、自然に西太后が口にするものは栄養のバランスが取れたのです。5つの味は、酸味、苦味、甘味、辛味、塩味で五味と呼ばれ、中国に古くからある陰陽五行説の考えに基づいたものです。

西太后は伝統を重んじながら、食事で健康を保ったのです。

逸話2「西太后が嫉妬深いというのは俗説だった?」

麗妃の手足を切断したエピソードが描かれている映画「火焼円明園」日本でのタイトルは「西太后」
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嫉妬深いと言われていた西太后ですが、これは根も葉もない俗説だと言われています。彼女がライバルだった麗妃の手足を切断して、瓶の中で飼った話は有名で、全く根拠がないのに、映画の一場面にもなりました。

実際の麗妃は、咸豊帝が亡くなった後も、後宮で穏やかな生活を送ったそうですし、麗妃の娘は咸豊帝の一人娘ということで、東太后、西太后の両方から可愛がられました。

この俗説はエドマンド・トリローニー・バックハウスという人物がその著書の中で紹介、人々の間に深く浸透しました。現在、バックハウスはイギリスの特殊工作員だったことがわかっており、情報を操作することで、清に革命を起こす目的があったと言われています。

逸話3「皇后になれなかった原因、葉赫那拉(えほなら)の呪いとは」

葉赫那拉氏により呪いをかけられたというヌルハチ
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西太后は葉赫那拉(えほなら)氏という氏族の出身でした。葉赫那拉氏には呪いがあり、これが西太后と深い関係があると考えられてきました。

葉赫那拉氏は満州民族の氏族の1つで、16世紀から17世紀にかけて、中国の東北部で首長を務めるほどの名門でしたが、清の初代皇帝・ヌルハチによって統合され、力を失いました。

葉赫那拉の最後の首長はこのように呪いの言葉を残して死んだと言います。

清朝の一族にたとえ女一人でも葉赫那拉の人間が加われば、そのものがおまえ(ヌルハチ)の一族を滅ぼすであろう

清朝では葉赫那拉氏の女性は決して后妃になれませんでしたが、咸豊帝が呪いを破り、結果として西太后が清を滅ぼしてしまいました。しかし、本当に呪いがあったのなら、なぜ西太后が後宮に入れたのか、疑問が残ります。

西太后の他に中国三大悪女と呼ばれた人物たち

呂雉の夫だった劉邦はどんな気持ち?
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中国三大悪女として西太后とともに名高い呂雉と武則天。2人はライバルだった側室たちに残忍に振る舞い、権力を手中に収め、横暴な政治をしました。

呂雉は前漢の初代皇帝・劉邦の皇后となった女性です。最初のうちは家業を手伝う良い妻だったそうですが、皇帝となった劉邦が亡くなった後に人格が豹変します。劉邦の側室だった女性は手足を切断されるなど残酷な仕打ちをされました。それは呂雉の息子・恵帝の精神が異常になるほどだったと言います。

もう一人の悪女、唐の時代の武則天は体の弱かった夫・高宗に代わり、政治に携わるようになりました。彼女は皇后になるだけでは飽き足らず、夫の死後は自ら皇位につきます。

この武則天も数多くいるライバルを蹴落とすために、自らの子どもを殺害した罪をなすりつけたと言います。また、自らが皇后となってからは、前皇后や妃を百叩きの上処刑するなど、残忍な振る舞いをしました。

この2人と並び評されることで、西太后の残忍なイメージが定着したのかもしれません。

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