西太后の年表
1835年 – 0歳「西太后、誕生」
西太后、後宮に入る
1835年に生まれた西太后。役人だった父は彼女が18歳のときに病死してしまいます。
父が亡くなった時期と前後して、彼女は后妃を選ぶための試験「選秀女」に合格しました。これは数多くの女性たちの中から、後宮に入る女性を厳しく選ぶために行われますが、西太后は最後に選ばれた10人のうち3番めの「貴人」という位を与えられたと言います。
このとき西太后は、まだたくさんいる側室の一人でしかありませんでした。
西太后、息子を出産
1856年に西太后は男の子を出産します。この子が咸豊帝の唯一長生きした息子だったために、西太后は出世、位が貴妃にまで上がります。貴妃は事実上の側室のトップだったと言うことです。
息子は後に同治帝として即位します。西太后は、身分のために皇后になることはできませんでした。しかし、皇帝の生みの母となることで、皇后と並ぶ権力を手に入れることになりました。出産で彼女の人生は大きく変わっていくのです。
1861年 – 26歳「夫・咸豊帝の死去」
西太后、政権を掌握
咸豊帝の死後、西太后は息子の後見人となった8人の大臣たちと激しく争っていました。そこで西太后は咸豊帝の皇后・東太后と、咸豊帝の弟・奕訢を仲間に引き入れ、クーデターを起こしました。大臣たちは処刑され、西太后は政権を手に入れることに成功したのです。
息子が同治帝として即位してから、紫禁城の東と西の建物にそれぞれ住んだために、東太后と西太后と呼ばれるようになりました。
同治帝の死去
西太后に補佐を受けていた同治帝は、結婚を機に自分で政治をしようとしました。しかし、彼は若くして亡くなってしまいます。死因は天然痘とも梅毒とも言われていますが、彼にはまだ子どもがいなかったために、後継者を誰にするかという問題が起こりました。
手に入れた権力を失いたくなかった西太后は、自分の妹の息子を皇帝にしました。これが光緒帝で、後に西太后とは意見が合わなくなり、廃位されそうになります。
1895年 – 60歳「日清戦争の敗北」
政治から身を引こうとした西太后
西太后の浪費は日清戦争の敗北の一因となったこと、光緒帝が成人して自分で政治をするようになったことから、西太后は表向きは政治から身を引きました。
しかし、光緒帝が行った政治改革「戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)」を許せず、再びクーデターを起こします。西太后は改革の主要メンバーを処刑、光緒帝を幽閉して再び政治の実権を握ったのです。
西太后が政治から身を引いていたのは、わずか3カ月のことでした。
諸外国への不満を募らせた西太后
西太后は光緒帝を幽閉するだけでなく、廃位して、別の皇帝を擁立しようとしました。しかし、諸外国からの反対でそれは実現しませんでした。清国の中では一番の権力者になった西太后でしたが、諸外国には遠慮しなくてはならないことが多く、不満が募ったことがわかります。
この不満が後に、義和団の乱を利用して諸外国に宣戦布告するという暴挙につながったと言われています。
1900年 – 65歳「義和団の乱」
義和団を利用できると考えた?
義和団のスローガンは「扶清滅洋」でした。経済的に困った状況に置かれているのは、諸外国が清に入ってきたからとの考えから、義和団は外国人を襲い、国内の近代的な設備を破壊しました。
清国には義和団を支持する人も多くいたため、義和団の行動はエスカレート、ついにはドイツ公使や日本公使館員が殺害される事態になったのです。
西太后は義和団の趣旨に賛同、諸外国に宣戦布告してしまいます。
連合軍からの逃走、そして…
勇ましく宣戦布告をしたものの、連合軍が迫ってくると西太后は紫禁城から逃げ出します。義和団の乱の後始末をしたのは、咸豊帝のはとこだった奕劻(えききょう)でした。
多額の賠償金と北京での外国軍の駐留を認める代わりに、清では義和団の乱の首謀者を処刑するだけで済ませ、西太后は再び紫禁城に戻り、政治に携わるようになったのです。
1908年 – 72歳「西太后、死去」
北京に戻ってきた西太后
1902年、義和団の乱の戦後処理も終わり、北京に戻ってきた西太后は国内に高まっている政治改革への機運を無視できませんでした。そこで彼女が開始したのが「光緒新政」と呼ばれる政治改革でした。様々な改革の中には、それまでの政治を立憲君主制にすることも含まれていました。
外国嫌いで政治改革も認めなかった西太后でしたが、義和団の乱以降、半植民地のようになっていた清を諸外国に近代国家だと認めさせたいという思いがあったようです。
大臣たちを日本に視察に向かわせたりもしましたが、結局君主である自分の権力が憲法で制限されることが西太后には我慢ができなかったのでしょう。光緒新政は9年後に立憲君主制に移行すると宣言しただけで終わってしまいます。
光緒帝が亡くなる前に用意した跡継ぎ
1908年、光緒帝が亡くなった翌日に西太后は亡くなりました。自分の命が終わろうとしている最中に、西太后は光緒帝の後継ぎとして溥儀を擁立し、その補佐のために溥儀の父を摂政に任命しています。
この手際の良さと、2人が相次いで亡くなっていることから、西太后は最後に光緒帝を殺害して亡くなったのだとも言われています。実際に光緒帝の毛髪からはヒ素が検出されており、殺害されたことは間違いありません。
しかし、殺害の容疑者としてあげられているのは西太后だけではなく、未だに真相は謎に包まれています。
西太后の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
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幼馴染だった春児(チュンル)と文秀(ウェンシウ)の2人を通して、西太后、光緒帝、そして清国を改革しようとする人々の派閥のぶつかり合いを描いています。清国がどうなるのかも心配ですが、心ならずも敵対する立場になってしまった春児たちが気になって、読むのを止められなくなりました。
西太后-大清帝国最後の光芒
この本を読んでいると、西太后が生きた時代の清国の状況がよく分かります。そして同時に、なぜ清国が大変な状況になったのかもわかります。最初にこの本を読んでおくと、西太后の登場する小説やドラマをもっと楽しめるようになると思います。
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浅田次郎原作の小説を日中共同でドラマ化しました。撮影をした中国・浙江省東陽市に原寸大の紫禁城を作ったというスケールの大きさで、心を掴まれます。
居並ぶ中国人俳優の中で、なぜか西太后を日本人俳優の田中裕子さんが演じているのが新鮮です。もちろん多くの人たちを巻き込んで進んでいく、清朝の破滅への道からも目が離せません。
関連外部リンク
西太后についてのまとめ
興味本位で語られることが多かった西太后ですが、その人生を振り返ってみると、末期的だった清国を必死に支えた健気な女性の姿が浮かび上がりました。自らの権力に固執したのも、実は信頼できる側近がいなかったからではないかとも思えてきます。
結果として清朝は滅んでしまいましたが、西太后が実権を握っていなくても遅かれ早かれ、滅亡したのではないでしょうか。
現在も女性が活躍するのには、多くの困難がつきまといます。西太后が見たら、ため息をつかれるかもしれませんね。
ナチスドイツを忘れるな
グーグルはプーチンと同じだ❗守銭奴!