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中国三大悪女の正体とは?有力候補4名の素顔に迫る【死因や墓所も紹介】

「中国三大悪女って誰のこと?」
「どんな悪事をはたらいたの?」
「悪女の死因や墓所がわからない…」

中国三大女性とは中国一国を危機に陥れた3名の女性を指します。

歴史に名を刻むほどの悪事を働いていたとはいえ、「語り継がれるほどの惨殺さだったの?」と少々疑問に感じますよね。また「三大女性」と言われていても、中国で悪女と呼ばれた3人の女性をピックアップしているため、誰なのかがあいまいな方もいるはず。

そこで今回は、中国三大悪女の素顔に迫ります。諸説ある三大悪女の中でも、今回は4人の有力候補をピックアップ。中国の歴史に名を刻み、現代にまで語り継がれる悪女4人が働いた悪事の内容を死因や墓所も交えて解説します。

この記事を読めば、中国三大悪女の詳細を網羅的に理解できるでしょう。謎に包まれた悪女の正体に迫ります。

中国三大悪女とは

悪女のイメージ画像

中国三大悪女とは、中国を危機に陥れたとされる三人の女性です。三大悪女については所説ありますが、現在有力な候補とされるのは下記の4人です。

  • 妲己(だっき)
  • 呂雉(りょち)
  • 武則天(ぶそくてん)
  • 西太后(せいたいこう)

4人の悪女が働いた悪事の内容はもちろん、死因や墓所を下記にてそれぞれ詳しく解説していきます。

中国三大悪女の有力候補①:妲己(だっき)

妲己とは?

紂王と妲己(画面右側の二人)
出典:妲己 – Wikipedia

妲己は殷(いん)の紂王(ちゅうおう)の妃です。紂王は非常に有能な君主でした。容姿が美しく、頭の回転が速く、力も強いという文武両道を兼ね備えた王です。しかし、彼はあまりの聡明だったため周りが”バカ”に見えて仕方ありません。やがて、紂王は自分勝手な政治を行うようになりました。

妲己が紂王の妃となったきっかけは、紂王が妲己がいた有蘇氏をせめたことでした。紂王に恐れをなした有蘇氏は絶世の美女である妲己を紂王に献上します。そのあまりの美貌に紂王は惚れ込んでしまいました。妲己は他の女性と異なり、紂王にこびへつらいません。むしろ、彼に様々なことを要求し自らの欲望を満たしました。

紂王からすれば、自分を恐れず、気ままにふるまう妲己が魅力的だったのかもしれません。妲己がしたいことを実現することが、紂王にとっても喜びだったのではないでしょうか。

注意

・殷(いん):古代中国の王朝で商ともいいます。紀元前17世紀あるいは紀元前16世紀から紀元前11世紀まで、黄河下流を支配しました。宗教儀式を重視する神権国家で、司馬遷の『史記』や出土した甲骨文字の文章などによって研究が進められています。

・紂王(ちゅうおう):殷の30代目国王にして最後の国王。紀元前11世紀に30年間ほど王位についていました。妲己とともに悪政を繰り広げ、周の武王に滅ぼされます。

妲己の悪事

酒のイメージ画像

紂王は妲己を寵愛し、彼女が望むことを何でもかなえました。たとえば、池に酒を注ぎ、木に肉をぶら下げ、そこに裸の男女を入れ、彼らとともに快楽におぼれます。このことから「酒池肉林」の四字熟語が生まれました。

また、彼女が好んで見た刑罰に「焙烙の法」というものがあります。これは油を塗った銅製の棒でつくった橋を熱し、これの上を歩かせる刑罰。罪人が橋を渡り切れば、無罪となりました。しかし、渡りきることができなければ、橋の下の猛火に転落し焼かれてしまいます。

そんな灼熱の橋を渡り切れるものなどいるわけがなく、罪人たちは次々に転落していきました。紂王と妲己はその様子を見て抱き合って歓喜したといわれます。

心臓のイメージ画像

また、比干という臣下が紂王を諫めると、妲己は「聖人の心臓には七つの穴があるといいます。ぜひ、見てみたいですね」とそそのかし、紂王に比干を殺させ、その心臓を取り出させて鑑賞したとのこと。こうした振る舞いは人々の恐怖と反感を買ったことでしょう。

妲己の死因・墓

妲己は紂王と共に反乱軍の手によって処刑されました。死後、彼女の遺体がどうなったかという記録は残されていません。そのため、彼女の墓はどこにあるか不明のままです。

紂王や妲己を滅ぼした周の武王
出典:武王 (周)-Wikipedia

反乱を起こしたのは西部にあった周という国の支配者姫発(周の武王)でした。姫発は紂王の政治を暴政だと非難し、各地の支配者である諸侯とともに挙兵します。これに対し、紂王は70万もの大軍を繰り出して周の軍と牧野で戦いましたが敗北しました。

牧野で大敗した紂王は殷の都に逃げ帰ります。そして、焼身自殺しました。一方、妲己は姫発に捕らえられ首を斬られました。歴史書は彼女を「殷を亡ぼすものはこの女」と彼女の行動が殷滅亡の原因となったと指摘します。

中国三大悪女の有力候補②:呂雉(りょち)

呂雉とは?

漢を建国した劉邦
出典:劉邦 – Wikipedia

呂雉は漢(前漢)を建国した高祖劉邦(りょち)の妻で、皇后となった女性です。彼女と劉邦の出会いは、劉邦がまだ一介の無頼漢(ぶらいかん)だったころにさかのぼります。あるとき、劉邦は地元の有力者である呂公(呂雉の父)が主催する宴会に参加しました。

宴会参加者は進物を差し出すのが通例でしたが、劉邦は「進物一万銭(しんもついちまんせん)」という途方もない金額を書いた紙を呂公に差し出しました。無頼漢の劉邦にそんな金はないのですが、そのはったりに感心した呂公は娘の呂雉と劉邦を結婚させてしまいます。

結婚した呂雉は劉邦の父を助け農業と子育てにいそしみます。やがて、劉邦が楚の項羽と激戦を繰り広げるようになると、呂雉や劉邦の父は項羽の配下によって捕らえられました。そして、劉邦が勝利すると皇后となります(以後、呂后)。劉邦は苦労を共にした呂雉に頭が上がりませんでした。

劉邦が死ぬと、皇太后となった彼女は2代皇帝となった息子(恵帝)を後見し、政治に大きな影響力を行使します。そして、一族を次々と王にして権力基盤を固めました。紀元前180年、呂雉は権力を手にしたままこの世を去ります。しかし、呂雉が死ぬと呂一族は力を失い滅ぼされました

呂雉の悪事

呂雉の悪事としてひときわ有名なのが”人豚事件”です。この事件は、どのようなものだったのでしょうか。”人豚”にされたのは劉邦の側室の一人である戚夫人という女性です。

劉邦が皇帝に即位すると、呂雉の子である劉盈(りゅうえい)が皇太子にたてられました。しかし、劉盈は温和な性格で、劉邦から見れば物足りない人物だったようです。そのせいで、劉邦は皇太子を側室である戚夫人が産んだ子の劉如意に替えようとしました。

皇太子の変更に反対した張良
出典:張良- Wikipedia

しかし、張良(ちょうりょう)をはじめとする重臣たちは皇太子を変えることが皇位継承争いにつながるとして反対。劉邦は皇太子交代を断念しました。この一件で呂雉は戚夫人と如意を激しく憎みます。

劉邦の死後、如意は殺害され、母である戚夫人は捕らえられました。そして、両手両足を切断され、目をつぶされて厠に投げ込みます。そして、その状態の戚夫人を”人豚”とよんで貶めました。この”人豚事件”は中国史上屈指の残虐な事件として後世に語り継がれます。

呂雉の死因・墓

呂雉の死因は病死です。『史記』によれば脇の病にかかって亡くなったとのことでした。脇の病が何の病か不明ですが、病死であることは間違いなさそうです。

劉邦と呂雉が葬られた長陵
出典:漢長陵 – Wikipedia

呂雉が亡くなると遺体は劉邦が眠る長陵に葬られました。劉邦が亡くなったのは紀元前195年で、呂雉が亡くなったの紀元前180年ですから、15年ぶりの「再会」ということになります。もし、二人が話し合ったとしたらどのような会話が成されたのでしょうか。生涯彼女に頭が上がらなかった劉邦は、彼女の悪事を知っても何も攻められなかったかもしれませんね。

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