中国三大悪女の正体とは?有力候補4名の素顔に迫る【死因や墓所も紹介】

呂雉の悪事

呂雉の悪事としてひときわ有名なのが”人豚事件”です。この事件は、どのようなものだったのでしょうか。”人豚”にされたのは劉邦の側室の一人である戚夫人という女性です。

劉邦が皇帝に即位すると、呂雉の子である劉盈(りゅうえい)が皇太子にたてられました。しかし、劉盈は温和な性格で、劉邦から見れば物足りない人物だったようです。そのせいで、劉邦は皇太子を側室である戚夫人が産んだ子の劉如意に替えようとしました。

皇太子の変更に反対した張良
出典:張良- Wikipedia

しかし、張良(ちょうりょう)をはじめとする重臣たちは皇太子を変えることが皇位継承争いにつながるとして反対。劉邦は皇太子交代を断念しました。この一件で呂雉は戚夫人と如意を激しく憎みます。

劉邦の死後、如意は殺害され、母である戚夫人は捕らえられました。そして、両手両足を切断され、目をつぶされて厠に投げ込みます。そして、その状態の戚夫人を”人豚”とよんで貶めました。この”人豚事件”は中国史上屈指の残虐な事件として後世に語り継がれます。

呂雉の死因・墓

呂雉の死因は病死です。『史記』によれば脇の病にかかって亡くなったとのことでした。脇の病が何の病か不明ですが、病死であることは間違いなさそうです。

劉邦と呂雉が葬られた長陵
出典:漢長陵 – Wikipedia

呂雉が亡くなると遺体は劉邦が眠る長陵に葬られました。劉邦が亡くなったのは紀元前195年で、呂雉が亡くなったの紀元前180年ですから、15年ぶりの「再会」ということになります。もし、二人が話し合ったとしたらどのような会話が成されたのでしょうか。生涯彼女に頭が上がらなかった劉邦は、彼女の悪事を知っても何も攻められなかったかもしれませんね。

中国三大悪女の有力候補③:武則天(ぶそくてん)

武則天とは?

武則天
出典:武則天 – Wikipedia

武則天は中国史上唯一の女帝で則天武后(そくてんぶこう)とも呼ばれます。武則天はの建国に貢献した有力者の一族に生まれました。本名を武照といいます。父から高度な教育を施された武照は才色兼備の美女となりました。

637年、武照はの2代皇帝である太宗李世民(りせいみん)の後宮に入ります。このとき、彼女は媚という名を与えられました。ただ、李世民は宮廷に流布した「李に代わり武が栄える」という予言を気にしてか、彼女をあまり近づけません。

武照に転機をもたらしたのは太宗の子で皇太子の李治との出会いです。李治は武照を激しく愛し、彼女に溺れます。そして、李世民が死去すると、即位した李治(以後、高宗)武照を自分の後宮に迎え入れました。武照はライバルとなる女性を陰謀で陥れ、高宗の皇后になります。

高宗が683年に亡くなっても、武則天は息子たちの後見として権力を握り続けました。そして、690年に周の建国を宣言し、中国初の女帝となります。

武則天の悪事

武則天の夫であるの2代皇帝高宗
出典:高宗 (唐) – Wikipedia

武則天は自らの出世のために我が子を犠牲にしました。武則天は高宗の後宮に入り、彼の寵愛を受けます。しかし、高宗の宮廷には彼女よりも地位が高い王皇后がいました。武則天は王皇后を排除するため、陰謀をめぐらします。その道具として、武則天は高宗と自分の間に生まれた女子を使いました。

あるとき、王皇后が武則天の部屋を訪れます。王皇后が部屋を訪れた時、なぜか武則天は不在で赤子だけが部屋にいました。王皇后は赤子をあやしつつ武則天の戻りを待ちますが現れません。待ちきれなくなった王皇后は部屋を出ました。

それからしばらくして、武則天が部屋に戻るとまもなく高宗がやってきました。二人で赤子の様子を見てみると、なんと息をしていないではありませんか。武則天は慟哭し、高宗が周囲に尋ねると、少し前に皇后が部屋を訪れたことがわかります。

高宗は激怒し、王皇后が犯人だ決めつけました。無実を証明できなかった王皇后は皇后の地位を奪われ、武則天が皇后となります。北宋の歴史書『新唐書』や『資治通鑑』は武則天が我が子を殺し、罪を王皇后に擦り付けたとしました。

武則天の死因・墓

武則天の死因は病死です。詳しい病名や症状についてわかっていませんが、81歳という年齢から考えると、老衰の可能性が高そうですね。彼女は死後、夫の高宗が眠る乾陵に葬られました。

乾陵は陝西省乾県の北およそ6キロメートルの地点にある梁山にあり、現在は中国政府によって第一級重要文化物にしていされ、厳重な保護下にあります。乾陵周辺にある120体ほどの彫刻は古代でも最高ランクと評価されていますよ。

武則天とはどんな人?生涯・年表まとめ【女帝の功績や逸話も紹介】

中国三大悪女の有力候補④:西太后(せいたいこう)

西太后とは?

西太后
出典:西太后 – Wikipedia

西太后は清の咸豊帝(かんぽうてい)の后です。西太后は咸豊帝の死後、子の同治帝(どうちてい)やその跡を継いだ甥の光緒帝(こうしょてい)の背後で政治の実権を握り続けた女性ですね。西太后の名の由来は、咸豊帝の後宮でナンバー2だった西皇后だったこと。咸豊帝の死後は、皇后から太后となったので、西太后とよばれます。ちなみに、後宮ナンバー1は「東太后」とよばれました。

1861年に夫の咸豊帝が死去すると、子が同治帝として即位。東太后と西太后が同治帝の後見役となりました。しかし、東太后は政治に関心がなかったので、実際は西太后のみが政治の実権を握っていたといってよいでしょう。

同治帝が1874年に18歳の若さで亡くなると、西太后は権力を維持するため、自分の甥を光緒帝として即位させます。そして、光緒帝が死去するまで権力を保持し続けました。その間、西太后は並ぶもの無き権力者として清王朝に君臨します

西太后の悪事

西太后の悪事は権力に対する強い執着です。まず、咸豊帝の死の直後、彼女は政権を掌握するため咸豊帝が後事を託した重臣たちを粛清しました。そして、一度手に入れた権力を生涯手放しません。

光緒帝の即位の時も西太后は権力に対する強い執着を見せます。

西太后が擁立した光緒帝
出典:光緒帝 – Wikipedia

当時、清王朝の慣例では亡くなった皇帝の同世代の人は即位できませんでした。その慣例を破り、同治帝と同世代人の光緒帝を即位させます。また、官僚たちが欧米に対抗しようと近代化政策を実行すると、自身の権力が脅かされることを恐れ、保守派官僚と共に改革派を粛清しました。

このようにして手に入れた権力を彼女はどう行使ししたのでしょうか?結論から言えば、私利私欲に用いることが多かったといえるでしょう。艦隊を整備する資金を自身の宮殿建造費に宛てたり、飢餓が発生しても何等の対策も取らないといった政治的な怠慢もありました。

こうしたことから、彼女は権力を私物化した悪女と評価されます。自分に逆らった光緒帝の后の一人を井戸に投げ込んで殺させた事件なども彼女の悪女としての評価を高めたでしょう。ただし、ライバルを虐殺したとか、光緒帝を毒殺したというのは証拠がなく、風聞の可能性が高いですね。

西太后の死因・墓

清東陵
出典:清東陵 – Wikipedia

西太后は1908年に72歳で亡くなりました。年齢から考えると病死、あるいは老衰で亡くなったようです。西太后が亡くなると、東陵に葬られました。東陵は順治帝や乾隆帝をはじめとする歴代皇帝が葬られている陵墓です。

1928年、東陵は国民党の軍閥の一人である孫殿英の略奪を受けました。このとき、西太后の陵墓も破壊や略奪を受けます。これを聞いた清朝最後の皇帝の溥儀が国民政府に抗議しました。しかし、国民政府は孫殿英から賄賂を受け取っていたため、不問に処します。

国民政府の処置に怒りを感じた溥儀は、日本との距離を急速に縮めていきました。あるいみ、この一件が満州事変の原因の一つだったのかもしれません。

西太后とはどんな人?生涯・年表まとめ【遺体や死因、悪女の逸話も紹介】

1 2 3

コメントを残す