呂雉とはどんな人?生涯・年表まとめ【悪女の逸話と死後の評価まで紹介】

呂雉の生涯年表

紀元前241年 – 0歳「呂雉、誕生」

呂雉も住んだであろう、劉邦の出身地・沛県(はいけん)
出典:Wikipedia

呂雉の父親、劉邦を気に入る

単父という土地の有力者だった呂雉の父は、ある日酒宴を開きますが、これが劉邦と呂雉が結婚するきっかけとなります。

酒宴に訪れたのが、当時宿場役人をしていた劉邦でした。劉邦は訪れるときに「進物一万銭」と言ったそうです。

これはお土産は一万銭(とにかくたくさんのお金という意味でしょう)だと言うような意味で、ハッタリには違いありません。しかし、この豪快な気質を呂雉の父がとても気に入って、2人が結婚するきっかけとなったのですから、人生には何が起こるかわかりません。

楚漢戦争

呂雉は人質生活も送りました。

秦の始皇帝が亡くなると、次の権力者を決める争いが起こります。これが紀元前206年から4年にわたって繰り広げられた楚漢戦争です。西楚の覇王・項羽と漢王・劉邦の戦いでした。

この戦いの最中、劉邦が項羽に負けたときに、呂雉が舅とともに楚の人質となってしまいます。このとき呂雉と劉邦の間に生まれた2人の子どもたちは逃れられましたが、劉邦が子どもを捨てる事件が勃発するなど、夫婦にとっては大変な歳月でした。

捕虜になってから2年ほどで、呂雉と舅は開放され、劉邦のもとに戻れました。時を同じくして劉邦が項羽に勝利、漢が建国されることになります。

紀元前202年 – 39歳「呂雉、皇后になる」

呂雉に協力した蕭何
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忠臣の反乱で人が信じられなくなった?

漢を建国したものの、政情は不安定で、呂雉は一人で劉邦の留守を預からなくてはなりませんでした。そんなときに(紀元前196年)、建国前からの忠臣・韓信が反乱を企てているという密告があったのです。

呂雉は重臣・蕭何(しょうか)と相談の上、韓信を処刑する一方、自分の実家である呂一族の登用を進めて守りを固めようとしました。また、後継者争いにも終止符を打つべく、軍師・張良の力を借りて、息子の皇太子としての地位を守り抜きました。

劉邦の死去

紀元前196年にすでに体調が悪かったという劉邦。度重なる反乱鎮圧のために戦い続けた劉邦でしたが、最後に英布(この人は淮南王という称号が与えられていました。諸侯が次々と粛清されるのに恐怖を覚え、反乱を企てたと言います)の反乱で傷を負い、さらに体調は悪化しました。翌年には呂雉に対し、自分の死後の人事策を言い残し、この世を去りました。

死後は蕭何に任せろと言った劉邦でしたが、呂雉は何度もその後は誰に任せるのだと問い続け、最後には劉邦が音を上げてしまったそうです。漢の国を守り抜きたいという呂雉の思いが伝わって来るような話です。

紀元前195年 – 46歳「息子・恵帝の即位」

恵帝が使っていた宮殿・未央宮の跡
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呂雉の尽力のかいもあり、無事に即位した恵帝でしたが、ライバルだった劉如意とその母・戚夫人が残忍な方法で殺害されたことが原因となり、在位期間7年で亡くなってしまいます。

恵帝の死去

恵帝の死後、呂雉は前少帝を即位させますが、後に前少帝は呂雉を恨み、反抗したために殺害されてしまいます。こうして、さらに呂雉の横暴さが目立つようになっていくのです。

呂雉は自分の権力を守るために、自分の娘の子ども(つまり恵帝にとっては姪にあたります)を恵帝の皇后にしました。しかし2人の間には子どもができなかったため、恵帝と側室の子どもを次の皇帝にします。

これが前少帝です。側室の子どもということを隠すために、前少帝の生みの母は呂雉に殺害されました。これを後から知った前少帝は呂雉を深く恨むようになるのです。

呂一族による政治の始まり

呂雉は前少帝を立てるとともに、劉邦のころからの家臣の力を借りて、国の安定を図りますが、この頃から、地方の君主となっていた劉邦の側室の子どもたちを次々と殺害、その後釜に呂一族の者をつけるようになりました。

こうして呂一族による政治が始まり、呂雉に反抗的な態度を取っていた前少帝は殺害され、代わりの帝が即位します。これが後少帝です。

気に入らなければ皇帝まで殺害する呂雉のやり方に古くからの家臣が反発し、不安を感じたのも無理はありません。

紀元前180年 – 61歳「呂雉、死去する」

呂雉が葬られた長陵は兵馬俑が出土したことで有名になった
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死去する前の呂雉

死を意識したとき、日食が起こっても自分のせいだと言うほど、呂雉は弱気になったようです。亡くなる数カ月前には、青い犬に脇の下を引っ張られる幻を見たため、占わせると前少帝の祟りだと言われたそうです。

その後、本当に呂雉は脇の病気になります。自分の甥に劉邦時代からの家臣の動向に気をつけるように念を押し、さらに呂一族を軍の重職につけてから呂雉は亡くなりました。

脇の下にしこりができる病気にはいろいろありますが、呂雉が亡くなった年齢や女性であったことを考えると、乳がんだったとも考えられます。

呂雉の死後

呂雉の死後、劉邦時代からの家臣は劉邦の側室の子どもたちとともに、クーデターを起こしました。呂一族はほとんどが殺害され、新たな皇帝が即位しました。これが文帝で、彼もまた劉邦の側室の子どもでした。

後に文帝の末裔で後漢王朝の初代皇帝となった光武帝は、呂雉から皇后の地位と死後に贈られた高皇后の呼び名を剥奪し、それを直接の先祖である文帝の母に贈り直したということです。

呂雉の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

呂后 塚本青史

1つの国ができるまでは、ドラマティックですが、できた後にも様々な苦労があるのだと実感できる物語です。

夫の劉邦に焦点があたることが多いですが、この作品は妻の呂雉が主役なので、漢の国ができた後のことがよくわかります。呂雉のことを好きにはなれませんが、力強い生き方に惹かれます。

ただ、登場人物の名前が似通っていることもあり、気をつけて読まないと混乱すると思います。

おすすめの映画

項羽と劉邦-その愛と興亡 完全版 DVD

項羽と劉邦の対立はよく知られていますが、これを呂雉の視点から見ているのがとても興味深いと思います。

項羽の愛する虞美人と仲良くなる呂雉は中国三大悪女の一人とは思えない、人間らしい存在です。さらに虞美人を真剣に愛する項羽に惹かれていく呂雉には、いつしかとても共感しているのに気づくでしょう。

呂雉への印象がガラリと変わるに違いありません。

関連外部リンク

呂雉についてのまとめ

悪女という面だけが取り上げられることの多い呂雉ですが、その生き方を振り返ると夫が苦労して作った国を守り、息子に引き継ぎたいと願う良い母親の姿が見えてきます。その上、自分が出世しても実家のことを忘れない義理堅い女性にも思えます。

しかし、どんなに素晴らしい人でも、やり方を間違うと人生が違った方向に進んでしまうのだということを呂雉は教えてくれているようです。

呂雉は人々から非難を受けることもあったでしょうが、歩みを止めずにひたすら全身を続けました。この姿を見ていると、やはり生きる力をもらえたように感じます。今の時代にこそ、呂雉の生き方を振り返ることが必要なのではないでしょうか。

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