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呂雉とはどんな人?生涯・年表まとめ【悪女の逸話と死後の評価まで紹介】

呂雉とは紀元前2世紀頃に存在した女性です。彼女は漢という国(現在の中国)の最初の皇帝となった劉邦の皇后で、武則天、西太后と並んで中国三大悪女の一人と言われています。

映画で呂雉を演じた俳優のコン・リー
出典:Wikipedia

彼女は自分の息子を皇位につかせるために、ライバルたちに残忍な振る舞いをしました。それだけでなく、自分の実家・呂一族を優遇するために、邪魔者になった人々を次々と殺害したため、周りの人々を恐怖に陥れたのです。これが悪女と言われる理由です。

結局、呂雉の死後クーデターが起き、一族は一掃されてしまいました。なぜ呂雉はこれほど悪女になったのでしょうか。しかし、なぜか彼女の生き方を省みると、同じ人間として呂雉に親しみを感じます。

何かと制約の多い現代社会ですが、呂雉の生き方からは力がもらえるはずです。これから、呂雉の生き方を一緒に振り返ってみましょう。

呂雉とはどんな人物か

名前呂雉
誕生日紀元前241年
没日紀元前180年8月18日
生地単父(ぜんほ)(現在の中国山東省菏沢市(かたくし))?
没地首都・長安(現在の中国陝西省西安市)?
配偶者劉邦
埋葬場所長陵

呂雉の生涯をハイライト

単父(ぜんほ)という地方の有力者の娘だった呂雉。酒宴に訪れた劉邦を気に入った父が気に入ったため、嫁ぐことになりました。

現在の単父の様子
出典:Wikipedia

漢の皇帝となった劉邦の死後は自分の息子を即位させ、皇太后として政治に関わりますが、息子のライバルを無残な方法で殺害したために、肝心の息子が精神を病んでしまったと言われています。

精神を病んだ息子は20代の若さでこの世を去りますが、呂雉はめげずに次の皇帝を即位させます。しかし、その後も呂雉の残忍な行動は止みませんでした。

ついに彼女は周りを自分の実家の呂一族で固め、それ以外は信用しなくなりました。そのため、劉邦時代からの家臣たちはみなそっぽを向いてしまい、彼女の死後、呂一族は国から一掃されてしまうのです。

呂雉を有名にした人豚事件とは

沖縄で実際に使われていた豚便所
出典:Wikipedia

呂雉を中国三大悪女の一人として有名にしたのが、この人豚事件です。この事件で呂雉は我が子・恵帝のライバルであった劉如意(りゅうにょい)とその母親を殺害しました。

母親の戚夫人(せきふじん)は劉邦の側室だったため、劉如意は恵帝の異母弟にあたります。現代なら庶子という扱いになるわけですが、劉如意は子どもの頃から劉邦によく似ており、皇太子の有力候補だったのです。

呂雉は劉如意母子に強い嫉妬を感じていたのでしょう。劉如意を殺害した後、戚夫人の手足を切断した上、目を潰し、耳も聞こえず声も出せない状態にして便所の中に閉じ込めました。

そして、便所に閉じ込められている戚夫人のことを「人豚」と称して、彼女が死ぬのを笑いながら眺めていたそうです。それを見た恵帝は精神に異常をきたし、酒色に逃避してしまいます。そして、わずか23歳でこの世を去ってしまうのです。

当時の中国の便所とは

当時の中国では広く掘った穴の上に便所を作っていました。穴の中では、よく豚が飼われており、豚便所とも言われていました。

豚は穴の中に落ちてくる人間の排泄物を餌にしていたのです。このことから、呂雉は便所に閉じ込めた戚夫人を人豚と称したのでしょう。

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呂雉も頼っていた?軍師・張良との関係

軍師・張良のおかげで
恵帝は無事に即位できた
出典:Wikipedia

呂雉の息子・恵帝が皇太子だった頃に、立場が危うくなったのを助けたのが軍師・張良でした。

劉邦の死が近づいてくると、(人豚事件で殺害された)劉如意の方が皇太子にふさわしいとの声があがり、劉邦もそれに賛同していたようです。

そこで張良は、劉邦が招けなかった有名な学者を恵帝の師として招くよう、呂雉と恵帝に勧めました。自分でも招けなかった学者が恵帝の師となっていることに劉邦は興味を引かれ、学者たちになぜ招きに応じたのか尋ねました。

陛下は礼を欠いており、我らは辱めを避けるため応じませんでした。ですが、皇太子殿下は徳も礼も備えており、人民も慕っているとのこと。なので参内したのです。

学者たちの答えに、劉邦は考えを改め、恵帝の地位はそのままとなりました。このことで呂雉の張良への信頼は厚くなりました。呂雉が張良の体を心配して、食事を摂らせたという話も残っています。

息子を亡くした呂雉の暴走

クーデターの後に即位した文帝は
劉邦の庶子の1人
出典:Wikipedia

人豚事件のショックから恵帝が亡くなった後、呂雉は恵帝の子を皇帝・前少帝にします。そして政治の安定を図りましたが、この頃から暴走としか言えない行為を繰り返します。

地方の要職についていた劉邦の子どもたち(側室の子どもたちです)を次々と殺害、その後に自分の実家である呂一族の者を据え、権力を独占しただけでなく、前少帝が自分に反抗的になると、これも殺害、別の皇帝を立てたのです。

これらの行為に劉邦の頃から仕えていた家臣たちは反発しただけでなく、自分たちもいつ殺害されるかわからない不安から仕事もしなくなりました。呂雉の暴走は、その死後にクーデターが起きる原因となったのです。

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