享保の改革とは、18世紀前半に江戸幕府8代将軍徳川吉宗が行った幕府の政治改革です。この改革によって、財政難に陥っていた江戸幕府は再建され、存続を成し遂げました。
この記事では、江戸幕府を立て直した享保の改革の内容について解説します。吉宗がどのようなところに着目して財政再建をしようとしたのか、また、貨幣経済の発達で変わりつつあった社会を、江戸幕府としてどのように受け入れようとしたのかを詳しく見ていきます。
更には享保の改革によって生まれた社会の歪みについても解説しています。享保の改革を理解することにより、これ以後の江戸時代の歴史の流れも理解しやすくなるでしょう。
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享保の改革とは?
享保の改革を簡単に解説すると?
享保の改革とは、徳川幕府8代将軍である徳川吉宗が、1716(享保1)年から1745(延享2)年にかけて行った幕政改革です。吉宗自身による指揮のもと、倹約や新田開発、年貢増産による財政の立て直し、都市商業資本の支配統制に努めたほか、法制の整備も行いました。江戸時代に行われた幕政改革の中で、成果を挙げた改革として知られています。
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改革が行われた背景は?
江戸幕府の歳入の基盤は、直轄地である幕府領の400万石からの本年貢(米)でした。しかし天候不順による米の不作や米価変動によって、財政収入は安定しません。そのため、歳入を補填するものとして、江戸時代初期は直轄鉱山から収入を得ていました。佐渡金山や生野銀山は幕府直轄の鉱山です。しかし産出が徐々に減ってきたため、鉱山収入による幕府財政への補填が難しくなりました。
そして、1657年に起きた明暦の大火で、江戸は大きな痛手を受けます。江戸の復興費用がかさんだことは、幕府の悪化した財政をさらに追い詰めていきました。
また、吉宗が将軍となった享保年間は、徳川幕府が開かれてから100年以上が過ぎた時期です。平穏な世の中が続き、経済活動が盛んに行われるようになっていました。農村では特産物の生産や流通が活発に行われるようになり、貨幣経済が進んでいました。
幕府は何度も貨幣改鋳を行い、金の含有量を減らして小判の量を増やすことで幕府の財政を補填していましたが、流通する貨幣量の増加は物価の上昇を招いてしまいます。幕府の財政は年貢米を基盤としていたため、物価の上昇に対応できず、財政状況は悪化の一途をたどっていました。そのため、吉宗が将軍職を継いだ享保年間は、幕府の財政再建が急務となっていたのです。
享保の改革の具体的な4つの内容
1. 幕府の官僚機構の整備
江戸幕府の職務の分担では、行政と司法の区別がなく、老中と寺社・町・勘定奉行の三奉行が出席する評定所が最高合議機関となっていました。なかでも勘定奉行は、旗本から選ばれた4〜5名で構成され、幕府領の租税徴収に加えて訴訟を担当するという激務でした。
そのため吉宗は、幕府領の民政・幕府財政を担う勝手方と、訴訟を担当する公事方に分けて責任分担をはっきりさせます。これにより勝手方は、幕府財政の再建に専念できるようになりました。
また、訴訟や政務の処理を早めるため、法典の整備も行いました。大岡忠相(ただすけ)に命じて編纂させた「公事方御定書(御定書百箇条)」は、裁判や刑罰の基準となる法律です。1742年に完成しました。これまでに評定所から出された法令に関しては、「御触書寛保集成」としてまとめています。
有能な人材の登用も積極的に実施しました。はじめは江戸町奉行を、のちに寺社奉行を務めた大岡忠相や、川の治水など民政に大きな業績をあげ、「民間省要」という意見書を書いた田中丘隅(きゅうぐ)を抜擢したのは吉宗です。
5代将軍徳川綱吉以来、側近政治が続いていましたが、幕府から排除された譜代大名はそのことに不満を強めていました。そのため吉宗は、譜代大名からなる老中や若年寄を重視するとともに、側近としては御側御用取次(おそばごようとりつぎ)を設けて、側用人の機能を引き継がせました。