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享保の改革とは?内容や結果を分かりやすく解説【語呂合わせも紹介】

享保の改革とは、18世紀前半に江戸幕府8代将軍徳川吉宗が行った幕府の政治改革です。この改革によって、財政難に陥っていた江戸幕府は再建され、存続を成し遂げました。

徳川吉宗(1684〜1751)
出典:wikipedia

この記事では、江戸幕府を立て直した享保の改革の内容について解説します。吉宗がどのようなところに着目して財政再建をしようとしたのか、また、貨幣経済の発達で変わりつつあった社会を、江戸幕府としてどのように受け入れようとしたのかを詳しく見ていきます。

更には享保の改革によって生まれた社会の歪みについても解説しています。享保の改革を理解することにより、これ以後の江戸時代の歴史の流れも理解しやすくなるでしょう。

享保の改革とは?

吉宗が改革の際に注視していた享保年間の米価の変動
出典:第40回日本史講座まとめ

享保の改革を簡単に解説すると?

享保の改革でよく知られる、庶民が将軍に直接声を届けることのできる目安箱
出典:教務日記

享保の改革とは、徳川幕府8代将軍である徳川吉宗が、1716(享保1)年から1745(延享2)年にかけて行った幕政改革です。吉宗自身による指揮のもと、倹約や新田開発、年貢増産による財政の立て直し、都市商業資本の支配統制に努めたほか、法制の整備も行いました。江戸時代に行われた幕政改革の中で、成果を挙げた改革として知られています。

【年表付】徳川吉宗とはどんな人?行なった改革やエピソード、妻も紹介

改革が行われた背景は?

現在は産業遺跡として公開されている、近世最大の金銀鉱山・佐渡金山
出典:zekkeijapan

江戸幕府の歳入の基盤は、直轄地である幕府領の400万石からの本年貢(米)でした。しかし天候不順による米の不作や米価変動によって、財政収入は安定しません。そのため、歳入を補填するものとして、江戸時代初期は直轄鉱山から収入を得ていました。佐渡金山や生野銀山は幕府直轄の鉱山です。しかし産出が徐々に減ってきたため、鉱山収入による幕府財政への補填が難しくなりました。

江戸の半分以上が焼け、死者10万人とも言われる明暦の大火
出典:東京新聞 TOKYO Web

そして、1657年に起きた明暦の大火で、江戸は大きな痛手を受けます。江戸の復興費用がかさんだことは、幕府の悪化した財政をさらに追い詰めていきました。

また、吉宗が将軍となった享保年間は、徳川幕府が開かれてから100年以上が過ぎた時期です。平穏な世の中が続き、経済活動が盛んに行われるようになっていました。農村では特産物の生産や流通が活発に行われるようになり、貨幣経済が進んでいました。

江戸時代の金貨成分比の推移
出典:『詳説日本史』

幕府は何度も貨幣改鋳を行い、金の含有量を減らして小判の量を増やすことで幕府の財政を補填していましたが、流通する貨幣量の増加は物価の上昇を招いてしまいます。幕府の財政は年貢米を基盤としていたため、物価の上昇に対応できず、財政状況は悪化の一途をたどっていました。そのため、吉宗が将軍職を継いだ享保年間は、幕府の財政再建が急務となっていたのです。

享保の改革の具体的な4つの内容

1. 幕府の官僚機構の整備

江戸幕府の職制図
出典:日本史オンライン講義録

江戸幕府の職務の分担では、行政と司法の区別がなく、老中と寺社・町・勘定奉行の三奉行が出席する評定所が最高合議機関となっていました。なかでも勘定奉行は、旗本から選ばれた4〜5名で構成され、幕府領の租税徴収に加えて訴訟を担当するという激務でした。

そのため吉宗は、幕府領の民政・幕府財政を担う勝手方と、訴訟を担当する公事方に分けて責任分担をはっきりさせます。これにより勝手方は、幕府財政の再建に専念できるようになりました。

公事方御定書は当初、幕府中枢の人しか閲覧できなかった。
出典:eHills Club

また、訴訟や政務の処理を早めるため、法典の整備も行いました。大岡忠相(ただすけ)に命じて編纂させた「公事方御定書(御定書百箇条)」は、裁判や刑罰の基準となる法律です。1742年に完成しました。これまでに評定所から出された法令に関しては、「御触書寛保集成」としてまとめています。

名奉行として知られる大岡忠相(1677〜1751)
出典:wikipedia

有能な人材の登用も積極的に実施しました。はじめは江戸町奉行を、のちに寺社奉行を務めた大岡忠相や、川の治水など民政に大きな業績をあげ、「民間省要」という意見書を書いた田中丘隅(きゅうぐ)を抜擢したのは吉宗です。

5代将軍徳川綱吉以来、側近政治が続いていましたが、幕府から排除された譜代大名はそのことに不満を強めていました。そのため吉宗は、譜代大名からなる老中や若年寄を重視するとともに、側近としては御側御用取次(おそばごようとりつぎ)を設けて、側用人の機能を引き継がせました。

2. 財政再建

支出を抑える

辰ノ口評定所跡(東京都千代田区丸の内1-4-1、丸の内永楽ビルディング)
出典:wikipedia

18世紀に入ると、貨幣経済の発達によって金銭の貸し借りに関係する訴訟が増えて、評定所の処理が滞るようになっていました。ある年には一年に36,000件の訴えを裁いていたと記録にあります。

そのため吉宗は、1719年に相対済し令を出します。これは、幕府では訴訟を受理しないので、問題は全て当事者同士で解決しましょうというものです。これによって行政費用を減らすことができ、支出を抑える方策となりました。

江戸時代の士農工商という身分制度は、武士だけが特権階級であった。
出典:シリーズ-人権を考える

相対済まし令を出した背景には、借金を抱えて困っていた御家人や旗本を助ける意味合いもあったと考えられています。なぜなら、町人が武士にお金を貸しても返してもらえずに、困った時に訴える場所がなくなったからです。身分制社会であった江戸時代では、武士は町人の上にいる身分のため、武士は借金を踏み倒すことができたというわけです。

足高の制によって優秀な人材が多く登用されるようになった。
出典:第40回日本史講座まとめ①

また、人材登用に伴う経費を削減するために1723年には足高(たしだか)の制を採用しました。これは役職ごとに基準の給与となる禄高を決めておくというもので、少ない分は在職中のみ不足分を支給しました。退任後は元の禄高に戻ることから、幕府の支出が抑えられたのです。この他、デフレ政策を進め、物価の平均価格を抑える工夫もしています。

出費が嵩んでいた大奥の様子
出典:wikipedia

吉宗本人も、支出を抑えるために質素倹約に努めました。食事は一日二食とし、衣服は絹ではなく木綿のものを着ていました。幕府の財政を苦しめていた大奥の費用も減らすように命じ、人件費削減のため、今後結婚することができそうな若い女性を多く辞めさせ、大奥から下がらせました。

収入の増加

大名の経費負担が大きかった参勤交代
出典:江戸散策

幕府の財政不足を補うため、吉宗は1722年に上げ米を行います。これは大名から1万石につき100石の割合で米を幕府に献上させるというものです。見返りに、大名には参勤交代の際の江戸在府期間を1年から半年に縮小しました。

享保年間の町人請負新田として有名な越後国紫雲寺潟新田は、紫雲寺潟を干拓して作られた。
出典:塩津潟(紫雲寺潟)干拓

また、新田開発を大いに進めるよう命じました。特に町人請負新田も積極的に推し進めます。三都の商人に新田開発を請け負わせました。治水工事に多くの元手が必要だったためです。

年貢の徴収方法も変えました。今までは毎年の収穫高や生育状況を調べて年貢高を決める検見(けみ)法をとっていましたが、これでは収入も不安定で手間もかかるため、定免(じょうめん)法といって過去数年間の平均年貢高を調べ、その年貢高を一定期間固定する方法を取るようになりました。

甘藷試作地跡
出典:小石川植物園

商品作物栽培を推し進めることで、村の年貢負担能力を上げる工夫もしました。木綿や菜種はすでに栽培が進んでいましたが、これに加えて生糸や朝鮮人参、ろうそくの元となる櫨(はぜ)、サトウキビの栽培も奨励します。享保の飢饉が起きると、儒学者の青木昆陽の提案で荒地でも育ちやすい甘藷(サツマイモ)の栽培を進め、凶作に備えました。

米の価格調節

全国の米価を左右する中央市場であった堂島米市場
出典:堂島米市場

当初は、デフレ政策を進めつつ年貢米の収入を増やす工夫をしたため、市場に米が溢れる状況となり、米の値段だけが他の物価に比べて低くなる問題が起こりました。幕府は年貢米を売ることで換金し、貨幣での収入を得ているため、幕府はどうしてもこの事態を変えていかなければならない状況に追い込まれます。

吉宗が大岡忠相などの提案を受け入れて作らせた元文小判
出典:wikipedia

そこで吉宗は1730年、堂島の米市場を公認し、米の価格の引き上げを試みますが、効果が上がりません。そこでデフレ政策を中止し、貨幣政策を転換します。1736年、品位と量目を引き下げた元文(げんぶん)金銀を発行して貨幣の流通量を増やし、経済活動を活発化させることで物価を引き上げ、米の価格も調整しようとしたのです。

このように、米の価格安定に力を尽くしたことから、吉宗は米将軍(米公方)とも呼ばれています。

3. 江戸の都市政策

日本の人口推移
出典:ソロモンの時代

経済が発達してきたことで、地方から江戸などの都市へ流れてくる人が増え、人口が増加していました。都市では労働力の需要があるため、こうした人々はその日暮らしの労働者として日々過ごしていました。彼らは物価の変動に生活を左右されるため、都市の秩序が不安定になる一つの要因になっていました。

そこで吉宗は、幕府や藩の力に頼らずに、経済活動を行うことができる状況を作ろうとします。相対済し令の実施や株仲間の公認は、民間社会での経済活動を自律的なものへと変える政策でもあったのです。

町火消の頭は江戸っ子のヒーローであった。
出典:japaaan

また、火災の多い江戸での災害対策として、広小路を設置したり火除け地を定めたほか、旗本が命じられていた定火消(じょうびけし)以外に、町人の消防組織である町火消も設けました。そして、1721年には庶民の声を将軍が直接聞くための目安箱を設けました。その目安箱への投書をきっかけに作られたのが、貧しい病人を収容することのできる小石川養生所です。

4. 文教政策

5代将軍徳川綱吉によって建てられ、聖堂学問所となった。
出典:湯島聖堂のご紹介

吉宗は、幕府政治の基礎として儒学を多くの人に学んでもらおうと、江戸幕府の官立学校である聖堂学問所の講義を庶民にも受けられるようにしました。そして、吉宗が信任していた朱子学者の室鳩巣(むろきゅうそう)に命じ、「六諭衍義大意(りくゆえんぎたいい)」という儒学の徳目をわかりやすく説いた書を作らせ、寺子屋に配りました。

懐徳堂のジオラマ
出典:wikipedia

このほかにも吉宗は、大坂に開かれた、有力な町人が共同で出資して設立した学問塾である懐徳堂に保護を与えています。庶民教育を目的とした塾でした。

野呂元丈(1693〜1761)
出典:wikipedia

実学の奨励も積極的に行いました。1720年、キリスト教を除いた漢訳洋書の輸入制限を和らげ、青木昆陽や本草学者の野呂元丈に蘭語を学ばせます。これが宝暦・天保期に洋学として花開き、時代を大きく変えるうねりとなっていきます。

享保の改革の結果や影響は?

享保の改革の結果

年貢収入高の推移
出典:『詳説日本史』

大きな目的の一つであった幕府の財政再建に関しては、年貢が増えたことで約50万石、全体で12%の増加となり、一定の成果が上がりました。幕領の年貢収入高も1744年には180万石となり、これは江戸時代最高の収納高となっています。これにより、享保の改革は成功したと評されます。

享保の改革は、財政再建だけでなく、司法制度が整備され、法典の編集や文書による行政処理が行われるようになり、合理化が進んだことも特色の一つです。

歌川豊春「浮絵駿河町呉服屋図」
出典:太田記念美術館

また、都市の経済活動が自立化したことで、問屋商人の商業・金融網が全国展開するようになりました。問屋商人が原料や器具を家で生産する者たちにに前もって貸し出し、その生産物を買い上げる問屋制家内工業も現れるようになります。

享保の改革の影響

享保の飢饉を記した「凶荒図録」
出典:西尾市岩瀬文庫

一方で、財政再建のための年貢増徴政策は、村の百姓たちの負担を増やすものでもありました。それに加え、1732年に続いた長雨と、イナゴやウンカなどの害虫の大量発生による享保の飢饉が起きたことで、疲れきった百姓たちは一揆を起こすようになりました。

打ちこわしは幕末まで毎年のように行われた。
出典:日本史

享保の飢饉で物価が跳ね上がったことは、民衆にも大きな打撃となりました。米を買い占めて米価を釣り上げようとした米問屋を打ちこわす、といったことも度々起きるようになります。

また、百姓の身分格差が生まれ、階層分化も起きました。一部の有力な村役人たちは、地主手作(てづくり)といって年季奉公人を使って2〜3町の田畑の耕作を行うようになります。彼らは困窮した百姓に田畑を抵当に貸付をするなどして田畑を集め、その田畑を小作人に貸す地主に成長し、豪農と呼ばれるようになります。

時代を追うごとに成長し、明治には千町歩地主となった豪農・伊藤家は、現在は博物館となっている。
出典:北方文化博物館

つまり、それまで本百姓を中心に自給自足で成立していた村は、豪農と小作人という二つの百姓層のに分かれたのです。これに対処するため、吉宗は1721年に、質入れされていた田畑の質流れを禁止する流地(ながれち)禁止令(質流し禁令)を出しますが、質地を無償で取り戻そうと農民が騒動を起こしたため、撤回しています。

豪農と小作人はその立場の違いから対立するようになります。これがのちに、富農層の不正を追求する村方騒動へと発展していくことになるのです。

田沼政治との違い

田沼意次(1719〜1788)
出典:wikipedia

享保の改革の後、幕府政治を取り仕切ったのは、10代将軍徳川家治のもとで側用人となり、のちに老中に就任した田沼意次です。田沼政治というと、賄賂がはびこるなど悪い印象を持たれがちですが、実際には享保の改革の延長線上で行われた政治です。享保の改革の政策を、現実に即した、合理的なものに変える工夫を行っていました。

株仲間の一員であることを示す仲間鑑札
出典:2次資料リスト

享保の改革で行われていた殖産興業政策は引き継ぎつつ、民間の経済活動を活発化させる工夫や、年貢増徴以外に幕府財政を潤わせる仕組みを作り上げます。しかし幅広い業種に株仲間を積極的に公認したことで事業が独占的に請け負われることとなり、結果的に幕府役人と業者が癒着して賄賂が横行してしまったのです。

享保の改革を含めた江戸の三代改革とその覚え方

江戸時代の三代幕政改革といえば、享保の改革、寛政の改革、そして天保の改革です。この改革の順番を覚えるには「今日(享保の改革)、寒(寛政の改革)天(天保の改革)!」と覚えると良いですね。

享保の改革の語呂合わせ

出身地和歌山にある徳川吉宗像
出典:名右衛門

享保の改革は、8代将軍徳川吉宗によって行われました。吉宗といえば、時代劇「暴れん坊将軍」の主人公です。そこで享保の改革が行われた1716年を記憶するための年号の語呂合わせとして、「17(美男の)16(ヒーロー)」と覚えてみてはどうでしょうか?

寛政の改革の語呂合わせ

松平定信(1759〜1829)
出典:wikipedia

寛政の改革は、1787〜1793年に老中首座の松平定信が行ったもので、農村の復興や自分で自前の田畑を持って年貢を納める本百姓を中心にした体制の維持といった農村政策を推し進めるなど、社会政策に重点を置いた幕政改革です。しかし成果は十分に上がりませんでした。

寛政の改革は、厳しい統制ゆえに大きな批判もありました。そのため、寛政の改革の年号の覚え方として、「17(非難)87(止まない)」とするのがおすすめです。

天保の改革の語呂合わせ

水野忠邦(1794〜1851)
出典:wikipedia

天保の改革は、1841〜1843年に老中の水野忠邦によって行われました。財政の緊縮や政治家の態度の乱れを正すように厳しく取り締まり、幕府権力の強化を目指しましたが、改革は失敗に終わります。

天保の改革は上手くいきませんでしたが、これは国内の問題だけではなく、列強の接近という外部に対する心配事にも対応しなければいけない難しさがあったことも、失敗の理由だと考えられます。そこで年号は「18(いや)41(良い)よ」と覚えて、水野忠邦の健闘を称えるのも良いでしょう。

享保の改革に関するまとめ

江戸幕府は250年以上も続いた長期政権です。初代将軍の徳川家康がイメージした幕府のあり方も、時代とともに変えていく必要があったのは当然のことです。もちろん、徳川吉宗以前の将軍や政権担当者も、さまざまな工夫をして幕政の安定に努めてきました。しかし吉宗ほど抜本的な改革を行えた将軍は初めてであり、そのリーダーシップは高く評価すべきでしょう。

一方、吉宗の年貢増徴政策により増え始めた百姓一揆は、時代とともに形を変えつつ、幕末には世直し一揆へと発展していきます。享保の改革で一時的に蘇った江戸幕府ですが、貨幣経済の発達により封建制度が崩壊してしまうという、ヨーロッパでも起きた、世界共通の歴史の流れが日本でも起きることになるのです。

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