2. 財政再建
支出を抑える
18世紀に入ると、貨幣経済の発達によって金銭の貸し借りに関係する訴訟が増えて、評定所の処理が滞るようになっていました。ある年には一年に36,000件の訴えを裁いていたと記録にあります。
そのため吉宗は、1719年に相対済し令を出します。これは、幕府では訴訟を受理しないので、問題は全て当事者同士で解決しましょうというものです。これによって行政費用を減らすことができ、支出を抑える方策となりました。
相対済まし令を出した背景には、借金を抱えて困っていた御家人や旗本を助ける意味合いもあったと考えられています。なぜなら、町人が武士にお金を貸しても返してもらえずに、困った時に訴える場所がなくなったからです。身分制社会であった江戸時代では、武士は町人の上にいる身分のため、武士は借金を踏み倒すことができたというわけです。
また、人材登用に伴う経費を削減するために1723年には足高(たしだか)の制を採用しました。これは役職ごとに基準の給与となる禄高を決めておくというもので、少ない分は在職中のみ不足分を支給しました。退任後は元の禄高に戻ることから、幕府の支出が抑えられたのです。この他、デフレ政策を進め、物価の平均価格を抑える工夫もしています。
吉宗本人も、支出を抑えるために質素倹約に努めました。食事は一日二食とし、衣服は絹ではなく木綿のものを着ていました。幕府の財政を苦しめていた大奥の費用も減らすように命じ、人件費削減のため、今後結婚することができそうな若い女性を多く辞めさせ、大奥から下がらせました。
収入の増加
幕府の財政不足を補うため、吉宗は1722年に上げ米を行います。これは大名から1万石につき100石の割合で米を幕府に献上させるというものです。見返りに、大名には参勤交代の際の江戸在府期間を1年から半年に縮小しました。
また、新田開発を大いに進めるよう命じました。特に町人請負新田も積極的に推し進めます。三都の商人に新田開発を請け負わせました。治水工事に多くの元手が必要だったためです。
年貢の徴収方法も変えました。今までは毎年の収穫高や生育状況を調べて年貢高を決める検見(けみ)法をとっていましたが、これでは収入も不安定で手間もかかるため、定免(じょうめん)法といって過去数年間の平均年貢高を調べ、その年貢高を一定期間固定する方法を取るようになりました。
商品作物栽培を推し進めることで、村の年貢負担能力を上げる工夫もしました。木綿や菜種はすでに栽培が進んでいましたが、これに加えて生糸や朝鮮人参、ろうそくの元となる櫨(はぜ)、サトウキビの栽培も奨励します。享保の飢饉が起きると、儒学者の青木昆陽の提案で荒地でも育ちやすい甘藷(サツマイモ)の栽培を進め、凶作に備えました。
米の価格調節
当初は、デフレ政策を進めつつ年貢米の収入を増やす工夫をしたため、市場に米が溢れる状況となり、米の値段だけが他の物価に比べて低くなる問題が起こりました。幕府は年貢米を売ることで換金し、貨幣での収入を得ているため、幕府はどうしてもこの事態を変えていかなければならない状況に追い込まれます。
そこで吉宗は1730年、堂島の米市場を公認し、米の価格の引き上げを試みますが、効果が上がりません。そこでデフレ政策を中止し、貨幣政策を転換します。1736年、品位と量目を引き下げた元文(げんぶん)金銀を発行して貨幣の流通量を増やし、経済活動を活発化させることで物価を引き上げ、米の価格も調整しようとしたのです。
このように、米の価格安定に力を尽くしたことから、吉宗は米将軍(米公方)とも呼ばれています。
3. 江戸の都市政策
経済が発達してきたことで、地方から江戸などの都市へ流れてくる人が増え、人口が増加していました。都市では労働力の需要があるため、こうした人々はその日暮らしの労働者として日々過ごしていました。彼らは物価の変動に生活を左右されるため、都市の秩序が不安定になる一つの要因になっていました。
そこで吉宗は、幕府や藩の力に頼らずに、経済活動を行うことができる状況を作ろうとします。相対済し令の実施や株仲間の公認は、民間社会での経済活動を自律的なものへと変える政策でもあったのです。
また、火災の多い江戸での災害対策として、広小路を設置したり火除け地を定めたほか、旗本が命じられていた定火消(じょうびけし)以外に、町人の消防組織である町火消も設けました。そして、1721年には庶民の声を将軍が直接聞くための目安箱を設けました。その目安箱への投書をきっかけに作られたのが、貧しい病人を収容することのできる小石川養生所です。