享保の改革とは?内容や結果を分かりやすく解説【語呂合わせも紹介】

4. 文教政策

5代将軍徳川綱吉によって建てられ、聖堂学問所となった。
出典:湯島聖堂のご紹介

吉宗は、幕府政治の基礎として儒学を多くの人に学んでもらおうと、江戸幕府の官立学校である聖堂学問所の講義を庶民にも受けられるようにしました。そして、吉宗が信任していた朱子学者の室鳩巣(むろきゅうそう)に命じ、「六諭衍義大意(りくゆえんぎたいい)」という儒学の徳目をわかりやすく説いた書を作らせ、寺子屋に配りました。

懐徳堂のジオラマ
出典:wikipedia

このほかにも吉宗は、大坂に開かれた、有力な町人が共同で出資して設立した学問塾である懐徳堂に保護を与えています。庶民教育を目的とした塾でした。

野呂元丈(1693〜1761)
出典:wikipedia

実学の奨励も積極的に行いました。1720年、キリスト教を除いた漢訳洋書の輸入制限を和らげ、青木昆陽や本草学者の野呂元丈に蘭語を学ばせます。これが宝暦・天保期に洋学として花開き、時代を大きく変えるうねりとなっていきます。

享保の改革の結果や影響は?

享保の改革の結果

年貢収入高の推移
出典:『詳説日本史』

大きな目的の一つであった幕府の財政再建に関しては、年貢が増えたことで約50万石、全体で12%の増加となり、一定の成果が上がりました。幕領の年貢収入高も1744年には180万石となり、これは江戸時代最高の収納高となっています。これにより、享保の改革は成功したと評されます。

享保の改革は、財政再建だけでなく、司法制度が整備され、法典の編集や文書による行政処理が行われるようになり、合理化が進んだことも特色の一つです。

歌川豊春「浮絵駿河町呉服屋図」
出典:太田記念美術館

また、都市の経済活動が自立化したことで、問屋商人の商業・金融網が全国展開するようになりました。問屋商人が原料や器具を家で生産する者たちにに前もって貸し出し、その生産物を買い上げる問屋制家内工業も現れるようになります。

享保の改革の影響

享保の飢饉を記した「凶荒図録」
出典:西尾市岩瀬文庫

一方で、財政再建のための年貢増徴政策は、村の百姓たちの負担を増やすものでもありました。それに加え、1732年に続いた長雨と、イナゴやウンカなどの害虫の大量発生による享保の飢饉が起きたことで、疲れきった百姓たちは一揆を起こすようになりました。

打ちこわしは幕末まで毎年のように行われた。
出典:日本史

享保の飢饉で物価が跳ね上がったことは、民衆にも大きな打撃となりました。米を買い占めて米価を釣り上げようとした米問屋を打ちこわす、といったことも度々起きるようになります。

また、百姓の身分格差が生まれ、階層分化も起きました。一部の有力な村役人たちは、地主手作(てづくり)といって年季奉公人を使って2〜3町の田畑の耕作を行うようになります。彼らは困窮した百姓に田畑を抵当に貸付をするなどして田畑を集め、その田畑を小作人に貸す地主に成長し、豪農と呼ばれるようになります。

時代を追うごとに成長し、明治には千町歩地主となった豪農・伊藤家は、現在は博物館となっている。
出典:北方文化博物館

つまり、それまで本百姓を中心に自給自足で成立していた村は、豪農と小作人という二つの百姓層のに分かれたのです。これに対処するため、吉宗は1721年に、質入れされていた田畑の質流れを禁止する流地(ながれち)禁止令(質流し禁令)を出しますが、質地を無償で取り戻そうと農民が騒動を起こしたため、撤回しています。

豪農と小作人はその立場の違いから対立するようになります。これがのちに、富農層の不正を追求する村方騒動へと発展していくことになるのです。

田沼政治との違い

田沼意次(1719〜1788)
出典:wikipedia

享保の改革の後、幕府政治を取り仕切ったのは、10代将軍徳川家治のもとで側用人となり、のちに老中に就任した田沼意次です。田沼政治というと、賄賂がはびこるなど悪い印象を持たれがちですが、実際には享保の改革の延長線上で行われた政治です。享保の改革の政策を、現実に即した、合理的なものに変える工夫を行っていました。

株仲間の一員であることを示す仲間鑑札
出典:2次資料リスト

享保の改革で行われていた殖産興業政策は引き継ぎつつ、民間の経済活動を活発化させる工夫や、年貢増徴以外に幕府財政を潤わせる仕組みを作り上げます。しかし幅広い業種に株仲間を積極的に公認したことで事業が独占的に請け負われることとなり、結果的に幕府役人と業者が癒着して賄賂が横行してしまったのです。

享保の改革を含めた江戸の三代改革とその覚え方

江戸時代の三代幕政改革といえば、享保の改革、寛政の改革、そして天保の改革です。この改革の順番を覚えるには「今日(享保の改革)、寒(寛政の改革)天(天保の改革)!」と覚えると良いですね。

享保の改革の語呂合わせ

出身地和歌山にある徳川吉宗像
出典:名右衛門

享保の改革は、8代将軍徳川吉宗によって行われました。吉宗といえば、時代劇「暴れん坊将軍」の主人公です。そこで享保の改革が行われた1716年を記憶するための年号の語呂合わせとして、「17(美男の)16(ヒーロー)」と覚えてみてはどうでしょうか?

寛政の改革の語呂合わせ

松平定信(1759〜1829)
出典:wikipedia

寛政の改革は、1787〜1793年に老中首座の松平定信が行ったもので、農村の復興や自分で自前の田畑を持って年貢を納める本百姓を中心にした体制の維持といった農村政策を推し進めるなど、社会政策に重点を置いた幕政改革です。しかし成果は十分に上がりませんでした。

寛政の改革は、厳しい統制ゆえに大きな批判もありました。そのため、寛政の改革の年号の覚え方として、「17(非難)87(止まない)」とするのがおすすめです。

天保の改革の語呂合わせ

水野忠邦(1794〜1851)
出典:wikipedia

天保の改革は、1841〜1843年に老中の水野忠邦によって行われました。財政の緊縮や政治家の態度の乱れを正すように厳しく取り締まり、幕府権力の強化を目指しましたが、改革は失敗に終わります。

天保の改革は上手くいきませんでしたが、これは国内の問題だけではなく、列強の接近という外部に対する心配事にも対応しなければいけない難しさがあったことも、失敗の理由だと考えられます。そこで年号は「18(いや)41(良い)よ」と覚えて、水野忠邦の健闘を称えるのも良いでしょう。

享保の改革に関するまとめ

江戸幕府は250年以上も続いた長期政権です。初代将軍の徳川家康がイメージした幕府のあり方も、時代とともに変えていく必要があったのは当然のことです。もちろん、徳川吉宗以前の将軍や政権担当者も、さまざまな工夫をして幕政の安定に努めてきました。しかし吉宗ほど抜本的な改革を行えた将軍は初めてであり、そのリーダーシップは高く評価すべきでしょう。

一方、吉宗の年貢増徴政策により増え始めた百姓一揆は、時代とともに形を変えつつ、幕末には世直し一揆へと発展していきます。享保の改革で一時的に蘇った江戸幕府ですが、貨幣経済の発達により封建制度が崩壊してしまうという、ヨーロッパでも起きた、世界共通の歴史の流れが日本でも起きることになるのです。

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