二番隊組長:永倉新八
永倉新八の人物像と性格
永倉新八は松前藩の浪士で、二番隊組長と撃剣模範を務めた人物です。神道無念流剣術を修めるも剣好きのため脱藩。武者修行中に近藤たちと知り合い共に新撰組に入隊しています。池田屋事件で功績をあげるも、戊辰戦争で敗退後は、藩に帰参。北海道で暮らし近藤や土方のお墓を立てたりもしています。その後北海道で虫歯が原因で死去しました。
性格はがむしゃらで、「がむしゃら」と「しんぱち」を合わせて「がむしん」と綽名されました。そして組長達の中でも屈指の実力があったといわれ、阿部十郎は「一に永倉、二に沖田、三に斉藤」と評価しています。
永倉新八の愛刀
永倉新八の愛刀は「播州住手柄山氏繁」です。池田屋事件時に帽子が折れたと伝わっています。
三番隊組長:斎藤一
斎藤一の人物像と性格
斎藤一は三番隊組長で撃剣師範を務めた人物です。出身は播磨(兵庫県)の足軽で後に御家人株を買ったといわれていますが、はっきりわかっていません。間違って人を殺めてしまい京に隠れている時に、面識があった近藤たちと再会、新撰組に入隊しました。新撰組から分裂した「御陵衛士」に間者として活躍するも再度新撰組に戻り戦いますが、会津藩降伏により囚われの身に。明治には警察官となり胃潰瘍で死去しました。
性格は普段無口ですが、剣を持つと人が変わったように突進していく人だったそうです。また左利きだったという説があります。
斎藤一の愛刀
斎藤一の愛刀は「摂州住池田鬼神丸国重」です。池田屋事件後の記録によると「刃毀レ小サク無数」とあり、折れてはないもののかなり損傷したようです。
四番隊組長:松原忠司
松原忠司の人物像と性格
松原忠司は播磨国(兵庫県)小野藩の藩士の子で、北辰神要流柔術を大阪で道場を開いていた人物です。そして新撰組に入隊。柔術を見込まれ、四番隊組長となりました。坊主頭に白い鉢巻きをし、大薙刀を持っていたために「今弁慶」と呼ばれたそうです。しかし池田屋事件の2か月後に死去。病死と記録されていますが、切腹に失敗した傷が元で亡くなったとも未亡人と心中いたという説もあります。
性格は温厚で壬生住人には「親切者は山南と松原」といわれていたそうです。鎧が無くて怒る山南を、松原が諫めたという話も伝わっています。
松原忠司の愛刀
松原忠司の愛刀は「加州住藤島友重」です。武具作製が盛んだった加賀国(石川県)で作られた刀でした。
五番隊組長:武田観柳斎
武田観柳斎の人物像と性格
武田観柳斎は松江・母里藩の医学生だった人物です。脱藩し江戸に行き甲州流軍学を修め、新撰組に参加しました。軍学者と隊士の文武両道で近藤に重宝され、軍事演習で軍師を務めています。しかし幕府がフランス式兵制を取り入れると時代遅れとなり、居場所を失くしていきました。その後倒幕に傾き隊を除隊。しかし1867年に鴨川銭取橋で暗殺されました。
性格は近藤や土方にはおべっかを使い、部下にはねちねちと絡み就く意地悪だったそうです。また隊の美男・馬越三郎に男色を迫り、困った馬越が土方に相談したというエピソードも残っています。
武田観柳斎の愛刀
松原忠司の愛刀は「越前住常陸守兼植」です。池田屋突入後は小さい刃こぼれが6箇所あったといいます。
六番隊組長:井上源三郎
井上源三郎の人物像と性格
井上源三郎は武蔵国千人同心世話役だった家で、天然理心流の弟子となり土方の姉婿でもあった人物です。そして新撰組に入隊。六番隊組長となり、池田屋事件では8人を束縛したと伝わっています。その後、鳥羽・伏見の戦いで敵に銃弾を受けて戦死しました。
性格は非常に無口で人の良い人だったといいます。しかし頑固な面もあったそうです。井上が稽古中に沖田が「また稽古ですが、熱心ですね」と声をかけると、「わかっているなら稽古をしたらいいのに」と諭したというエピソードが伝わっています。
井上源三郎の愛刀
井上源三郎の愛刀は「奥州白河住兼常」です。池田屋では刀の痛みはなかったといいます。
七番隊組長:谷三十郎
谷三十郎の人物像と性格
谷三十郎は備中藩士の家に生まれますが不祥事により家は断絶した為に、弟の万太郎と共に大阪で道場を開いていた人物です。参加時期は不明ですが1865年に七番隊組長と槍術師範となります。そして弟の周平は近藤の養子となっています。しかし1866年京都東山の祇園社にて死去。石段下で倒れており、死因は暗殺説や脳卒中説があります。
性格は近藤の養子に送り込んだことを鼻にかけており、隊では嫌われていたといいます。
谷三十郎の愛刀
谷三十郎の愛刀は、不明となっています。
八番隊組長:藤堂平助
藤堂平助の人物像と性格
藤堂平助は武蔵国の士族で北辰一刀流の門下生となり、後に天然理心流にも入門した人物です。新撰組では生え抜きといわれ、最年少ながら組長となっています。後に伊東と尊王のため除隊し、御陵衛士となりました。油小路事件で暗殺された伊東の遺体を奪還するために現場に戻り、死闘の末死去しました。遺体は数日間おびき寄せるために放置されたそうです。
性格は文武両道に秀でており、経済感覚も優れていたといわれています。また品行で近藤によく叱られていたともいいます。また薩摩藩の報告書に残る程の美男子だったそうです。
藤堂平助の愛刀
藤堂平助の愛刀は「上総介兼重」です。藤堂家のお抱え鍛冶師の作品で、池田屋事件では修復不可能なほど破損しました。
九番隊組長:鈴木山樹三郎
鈴木三樹三郎の人物像と性格
鈴木三樹三郎は伊東甲子太郎の弟で、新撰組の九番隊組長だった人物です。後に兄と離脱し、御陵衛士となります。油小路事件でも生還し、薩摩藩に所属し新撰組と戦っています。その後新政府軍として赤報隊に所属。戊辰戦争を戦いますが、「偽官軍」の容疑で投獄。しかし薩摩藩預かりとなり、明治は警察官となり91歳で死去しました。性格は口が達者で学問も優れていたものの、丁寧な性格が災いして降格されたと伝わっています。
鈴木三樹三郎の愛刀
鈴木三樹三郎の愛刀は「鬼神丸国重」と「備前長船」といわれています。備前長船は「長船物」として人気があり高く評価されていました。
十番隊組長:原田左之助
原田左之助の人物像と性格
原田左之助は伊予松山藩士で、谷万太郎から槍を習い槍の名手だった人物です。そして新撰組に入隊し十番隊組長となりました。多くの事件で活躍し、坂本龍馬殺害の犯人にも疑われました。戊辰戦争で近藤と意見が衝突し、隊を離れました。上野戦争に受けた傷が元で死去したといわれますが、実は生きていて大陸で馬賊の棟梁になったという都市伝説もあります。
性格は非常に短気で上司に馬鹿にされむきになって切腹し、傷が浅かったから助かったもののその傷から「死損ね左之助」と綽名されたといいます。愛妻家でもあり、子供の自慢していたそうです。
原田左之助の愛刀
原田左之助の愛刀は「江府住興友」です。池田屋事件後の刀改めの記録では、刃こぼれ7箇所、刀まくれ4箇所と記録されています。
役職はないが有名な人物
二刀流の使い手:服部武雄
服部武雄は新撰組で役職は無いものの、二刀流の使い手で組で1,2を争う剣術・柔術・槍術の使いてだった人物です。後に暗殺されますが、両手に刀を持ち亡くなる見事な死にざまだったといいます。
最後まで忠義を尽くした志士:島田魁
島田魁は新撰組で最後まで土方と共に戦い抜いた人物です。維新後は生き証人として数多くの新撰組の書を執筆。現在伝わる新撰組の話も島田の功績が大きいです。明治は西本願寺の守衛となり、最後まで新政府に出仕することはありませんでした。
新撰組のメンバーに関するまとめ
いかがでしたでしょうか?新撰組のメンバーも多種多様で個性あふれる面々が揃っていましたね。色々な個性を持つ隊員達の活躍が、志を持って立ち向かい、華やかに散っていくのが今も私たちの心をうつのかもしれません。
今も名前が語り継がれ、歴史に名を刻んだことは凄いことだと感じています。この記事を読んで、新撰組の人たちに思いを馳せてくれる人がいたならば非常に光栄です。最後まで読んでいただきありがとうございました。
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ありがと
凄く勉強になりました。
どんどん新しい情報や噂が出る新撰組、これからも色々知りたいと思います。
凄く勉強になりました。
ありがとうございました。