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戊辰戦争とは?原因や流れ、主要人物をわかりやすく解説【年表付き】


「戊辰戦争ってどんな戦争だったの?」
「戦いが多すぎてよくわからないな…」
「どうしてこの戦争は起きてしまったの?」

戊辰戦争とは、明治新政府を樹立しようとする薩摩藩・長州藩・土佐藩を中心とした新政府軍と旧幕府軍による内戦です。1868年1月にはじまり1869年6月に終結しました。内戦のはじまった年(慶應4年=明治元年)の干支が「戊辰」であったため戊辰戦争と名づけられています。

今回は戊辰戦争について、戦争に至った原因と背景、有名な戦いを明らかにし、さらに歴史に埋もれた悲劇や戊辰戦争を扱った作品について解説したいと思います。※なお、記事中の日付は旧歴に従っています。

戊辰戦争とはどんな戦争だったのか?

戊辰戦争をもっとも象徴する会津若松城の戦い
戊辰戦争
戦争鳥羽伏見の戦い、上野戦争、
北越戦争、会津戦争、函館戦争
年月1868年1月4日~1869年5月18日
交戦戦力新政府軍旧幕府軍
薩摩藩、
長州藩、
土佐藩、
佐賀藩、
その他新政府方
諸藩
奥羽越列藩同盟、
蝦夷共和国、
幕府陸軍、
幕府海軍、
その他幕府方
諸藩
死者数約8420人
(新政府側3550人、
旧幕府側4690人)
結果新政府軍の勝利、
旧幕府勢力は完全に解体

戊辰戦争の流れを簡単に解説すると

薩長同盟の約定書、これより両藩が新政府軍の中核となってゆく

はじめは劣勢だった新政府軍

圧倒的勝利をおさめた新政府軍ですが、鳥羽伏見の戦いにおいては戦力5000しかなく、旧幕府軍の1万5000に対してあきらかに劣勢でした。それもそのはずで、新政府軍といえど当初は薩摩藩、長州藩に土佐藩を加えた三藩の連合軍に過ぎなかったのです。

味方から援軍を求められた西郷隆盛は援軍などないことを伝えた上で「皆、死せ。おいも死す」と応えたと伝わっています。しかし、新政府軍が「錦の御旗」を掲げると戦況が一変。賊軍になることをおそれた藩が新政府軍に味方をするようになり、逆転勝利をおさめます。

江戸城開城と会津の戦い

徳川幕府最後の将軍となった徳川慶喜

戊辰戦争最大の山場は江戸城開城と会津戦争です。新政府軍の西郷隆盛と幕臣の勝海舟が会談して無血開城にみちびいた話は有名ですね。おかげで江戸の町は火の海にならずにすみました。本当は徳川慶喜を討ち時代の変化を示したかった新政府軍。しかし、絶対恭順をつらぬく慶喜をそれだけの罪に問う理由がありませんでした。

その身代わりとなったのが会津藩です。会津藩主の松平容保は京都守護職をつとめ、新選組を配下に置き、長州や土佐の浪士を取締りました。新政府軍の恨みを一身に背負ってしまった会津藩は、恭順を願い出ますが却下されてしまいます。追い込まれた会津藩は東北諸藩と「奥羽越列藩同盟」を結成して抗戦、最後はろう城の末に敗れ去りました。

最終決戦の地は函館

奥羽越列藩同盟が敗退し、のこる幕府方勢力はさらに北の蝦夷地へと逃れます。拠り所となったのが、函館に築かれた日本初の西洋式城郭であった五稜郭。戊辰戦争最後の激戦に、新選組など幕府方も抵抗を見せますが、最後は総裁の榎本武揚が降伏して幕を閉じました。

戊辰戦争が起きるまでの背景

長州征討により失墜する幕府権力

第二次長州征討

幕末、幕府がその権力を失墜させるきっかけとなったのが長州征討です。池田屋事件、禁門の変、下関戦争と大きなダメージを受けた長州藩に対し、幕府はさらに追い討ちをかけようと1864年と1866年の二度にわたり長州征討に乗り出します。しかし、第二次長州征討では幕府軍は大敗。幕府の権力は失墜してしまいました。

大政奉還で逃げ切りをねらった徳川慶喜

大政奉還が歴史の流れを一気に変える

徳川慶喜が将軍として最後に行った政治工作が大政奉還です。いったん政治を朝廷に返し、その上で朝廷の権威にもとづく新政権を主導すれば、攘夷派の追撃から逃げきれる--。そう考えた幕府は土佐藩の進言を受けて大政奉還を行います。一方、薩摩藩・長州藩は慶喜に押さえつけられた四侯会議の失敗からも、徳川勢力を完全に除くため武力倒幕を計画しつつありました。

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戊辰戦争の原因は?

戊辰戦争の原因は、大政奉還のあと権力を奪われた旧幕府軍が新政府に対して反発を強めたことです。具体的には王政復古での徳川家処分とこれにつづく薩摩藩邸焼き討ち事件が原因となり、新政府を担う薩摩・長州と幕府の緊張はピークに達しました。

王政復古と徳川家処分

明治天皇(奥)の御前で激論を交わす岩倉具視と山内容堂

1867年10月14日、徳川慶喜が朝廷に対し大政奉還を上奏します。これに対し朝廷は徳川慶喜の処遇を決めるため会議(小御所会議)を召集し、12月9日には王政復古の大号令を発します。徳川慶喜に対しては、役職を辞任することや領土を返上することを命じました。ただ、新政府内でも山内容堂、松平春嶽は慶喜を擁護します。討幕派はこの情勢に危機感をもちました。

薩摩藩邸焼き討ち事件

焼き討ちされた薩摩藩邸

1867年12月25日には、江戸の薩摩藩邸が幕府方によって襲撃されるという事件が発生します。武力倒幕のきっかけがほしい薩摩藩は幕府方を挑発しようと放火や強盗をくり返し、江戸市中の警護にあたっていた庄内藩の屯所を襲撃。これに対し老中・稲葉正邦が薩摩藩邸の襲撃を命じています。この事件は戊辰戦争の大きな火ダネとなりました。

戊辰戦争で起こった有名な戦いと主な出来事

有名な戦いと主な出来事について解説します。

  • 鳥羽伏見の戦い
  • 徳川慶喜の大坂城脱出
  • 西郷・勝会談と江戸開城
  • 上野戦争・彰義隊の戦い
  • 奥羽越列藩同盟の結成と東北政権の樹立
  • 北越戦争
  • 会津戦争
  • 榎本政権の誕生
  • 函館戦争

鳥羽伏見の戦い

戊辰戦争は、鳥羽伏見の戦いからはじまった

1868年1月3日、京都をめざし北上する旧幕府軍と新政府軍が鳥羽、伏見の二方面にて激突します。鳥羽では見廻隊と桑名藩兵が、伏見では新選組と会津藩兵が中心となる旧幕府軍が奮戦しますが、いずれも支えきれずに退却します。

この段階では薩長軍・長州軍と徳川軍の私闘でした。ところが1月4日、朝廷は仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任じ、錦の御旗と節刀をあたえます。これによりはじめて「新政府軍」対「旧幕府軍」という公的な戦いへと変化しました。

旧幕府軍の戦力は幕兵に会津藩兵・桑名藩兵合わせて1万5000。対する新政府軍は薩摩藩・長州藩の5000。数では圧倒的に旧幕府軍が優位だったものの、装備や士気の点で劣った上、1月6日には味方であった淀藩や津藩の寝返りが決定打となり敗れ去りました。

徳川慶喜の大坂城脱出

大坂城を脱出する徳川慶喜

鳥羽伏見の戦いの後、旧幕府方の軍勢は大坂城に集結します。軍議では軍を立て直して薩長と決戦をしようとする意見が多く、徳川慶喜も一度は出馬を宣言します。しかしその夜、慶喜はひそかに松平容保ら数名の側近をつれて大坂城を脱出、海路を江戸へと戻ってしまいました。

江戸城に入った慶喜は、主戦派の小栗上野介や大鳥圭介らを遠ざけつつ、陸軍総裁に勝海舟を登用し後を託します。さらに2月12日には江戸城を出て上野・寛永寺にて自ら謹慎。新政府に対し謝罪・恭順の意を示すためでした。

西郷・勝会談と江戸開城

会談の地には石碑が立てられている

一方、新政府軍では徳川慶喜追討を決し、有栖川宮熾仁親王を東征大総督として進軍を開始しました。主君・慶喜と江戸の町を守りたい勝海舟は、江戸城の無血開城と引き換えに慶喜の助命を願い出ます。3月13日・14日、薩摩藩邸にて勝・西郷会談が実現。江戸城総攻撃は中止となりました。4月11日に江戸城が開城されると、徳川慶喜の身柄は水戸・弘道館、ついで駿河・宝台院へと移されました。

上野戦争・彰義隊の戦い

上野戦争を描いた絵画(本能寺の変に模して描かれている)

当時、江戸では抗戦派の幕臣も多く、そのために結成されたのが幕臣・渋沢誠一郎を頭取とする彰義隊です。恭順派は江戸での戦争を避けようと彰義隊に江戸市内の警護を命じています。彰義隊は輪王寺宮を奉じて上野・寛永寺を拠点としつつ、新政府軍へのテロ行為を繰り返しました。

上野戦争は、5月15日に開始します。この時の新政府軍の戦力は1万、彰義隊は開戦時で1000でした。新政府側の指揮官・大村益次郎は本郷台に佐賀藩のアームストロング砲など各藩の砲隊を配備します。午前中は彰義隊が奮戦し一進一退の攻防となりますが、正午に砲撃がはじめると一気に新政府軍優勢となり、その日のうちに彰義隊は壊滅しました。

奥羽越列藩同盟の結成と東北政権の樹立

奥羽越列藩同盟に参加した藩を表した地図

1868年6月、東北地方の諸藩により軍事同盟が成立、「奥羽越列藩同盟」と呼ばれます。はじめ奥羽の諸藩は新政府に従いつつ、会津藩・庄内藩への寛容な措置を求めていました。しかし新政府軍が高圧的な態度で両藩への侵攻を命じたため、これに反発。開戦を決意します。

同盟軍は輪王寺宮を盟主とし、政策を合議するための公議所を白石城に設置しました。このため、奥羽越列藩同盟を「東北政権」とする説があります(異説あり)。結局は庄内、長岡、仙台、会津といった各藩が新政府軍に敗れ、同盟軍は壊滅。輪王寺宮は9月18日に降伏しました。

北越戦争

北越戦争を描いた絵画(川中島合戦に模して描かれている)

1868年5月2日。長岡藩の家老・河井継之助は小千谷において新政府軍の軍監・岩村高俊と談判を行いますが決裂。長岡藩は奥羽同盟への参加と新政府軍との戦いを決断しました。なお新政府軍の戦力2万に対し長岡藩・同盟軍は8千と言われています。

5月10日、同盟軍は新政府軍に制圧されていた榎峠を奪還します。新政府軍は13日に反撃するも、奇兵隊参謀・時山直八が戦死。5月19日、山県有朋の指揮のもと信濃川をわたった新政府軍が手薄になっていた長岡城をめざし殺到しました。

指揮官の河井継之助は自ら救援にむかい、ガトリング砲を操射して応戦。長岡藩は当時日本に3門しかなかったガトリング砲のうち、2門を所有していました。しかし激戦の末、河井は敵銃弾を受け退却、長岡城は落城します。このとき、城は長岡藩士の手によって爆破されました。

八丁沖に建てられた石碑

その後、河井は底なし沼と呼ばれる八丁沖を渡河して長岡城を奪還する夜襲作戦を考えます。この作戦が成功し、7月25日早朝に長岡城の奪還に成功しました。一方、敗走した新政府軍もすぐに反撃に出ます。迎え撃とうとした河井は膝に弾丸を受け戦線を離脱。7月29日長岡城はふたたび新政府軍の手に陥落しました。重傷を負った河井継之助は、8月16日に会津塩沢にて死去しています。

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