足利義栄はどんな人?生涯・年表まとめ【死因や家系図、子孫も紹介】

足利義栄の功績

功績1「頼れる人物がいない中、幕府を整えた」

足利義栄の祖父にあたる足利義稙
出典:Wikipedia

足利義栄が将軍になった当初、室町幕府を支える幕臣は父の義維や義栄の祖父にあたる足利義稙に仕えた家臣たちで構成されていました。しかし、幕臣の数は非常に少ないこともあり、盤石ではありません。

また、頼みとする義維も病気を患い隠居していたため、発言力はなく危機的状況に陥っていました。そこで義栄は先代将軍・足利義輝に仕えていた幕臣たちの取り込みを図ります。幸いなことに、幕臣たちの領地は三好三人衆の勢力下に位置していたので、領地の安堵を条件に義栄の幕臣とすることを実行。

これには、武家の習わしや作法に知識のある大舘氏や小笠原氏が従いました。

功績2「伊勢氏を再興する」

政所のトップは執事と呼ばれている

室町幕府における財政と領地に関わる訴訟を担った役職・政所のトップは、伊勢氏が代々受け継いでいましたが、永禄5年(1562)を契機に摂津晴門が掌握している状態でした。

義栄は本来の政所に戻すべく、永禄5年(1562)に失脚した伊勢貞孝の孫・伊勢貞為を政所のトップとします。義栄の手腕により、伊勢氏宗家が再興されました。

功績3「傀儡としてではなく、将軍としての責任を果たした 」

三好三人衆と松永久秀の対立が功を奏した

足利義栄は三好三人衆の支援もあり、将軍となったことで傀儡のような扱いを受けていました。しかし、朝廷と意見を交えたり、問題を解決したりと将軍としての責任を果たしていました。

永禄10年(1567)に大徳寺と京都住民が対立した際は、義栄は派遣した幕臣と朝廷から派遣された公卿とで仲裁を行っています。また、石清水八幡宮の人事に介入して朝廷と対立もしていました。

義栄がこのようなことができた背景には、三好三人衆が対立中の松永久秀に集中して義栄に目がいかなかったことで、自由に発言できる要因となりました。

足利義栄の家系図・人物相関図

足利義栄の家系図
出典:この世は夢のごとくに候

足利義栄の父「足利義維」

義栄の父・足利義維
出典:fumi1202のブログ

足利義栄の父・足利義維は父に11代将軍・足利義澄を持ち、養父に10代将軍・足利義稙を持つ人物です。兄で12代将軍の足利義晴と対立していた義維は、大永7年(1527)の桂川の戦いで義晴を追放し、堺にいながら京都を支配しました。

義維は天文元年(1532)までの5年間京都を支配し、朝廷から次期将軍になることを約束されていたため、堺公方と呼ばれていました。

しかし、義維の後見人だった三好元長が細川晴元によって自害に追い込まれると事態は一変。阿波国へ移ります。

そして、義栄が将軍になった後は足利義昭と戦うべく摂津国にて準備しますが、義栄の死により、再び阿波国へ帰国。その後、天正元年(1573)に病死しました。

足利義栄の弟「足利義助」

義助の支援により、四国統一を果たした元親
出典:Wikipedia

足利義栄の弟・足利義助は天文10年(1541)に生まれました。義栄が上洛した際、義栄について行かずに阿波国平島に留まりました。

義助は義栄死後に上洛を試みますが、阿波国の武将・小笠原成助から妨害を受けたことで失敗に終わります。また、足利義昭京都追放後に再び上洛を試みますが、義栄を支援していた三好氏の勢力は弱まっており、上洛は出来ませんでした。

やがて、長曾我部元親が四国統一に乗り出すと、義助は元親を支援したことにより領地安堵を受けます。天正13年(1585)に蜂須賀家政が阿波国へ入ると、これまでの領地が減少し、冷遇されました。

足利義栄と関わりの深い人物

三好三人衆の筆頭格にあたる「三好長逸」

野田城・福島城の戦いで長逸と協力して戦った本願寺顕如
出典:Wikipedia

三好長逸(みよし-ながやす)は三好氏の長老的立場にあり、三好三人衆の筆頭格とされる人物です。また、三好政権では松永久秀と並んで双璧と称されていました。

長逸は永禄11年(1568)に義栄が将軍に就任した後は、将軍に最も近しい名誉職・御供衆に任命されました。それほど、長逸は義栄から信頼されていたことがうかがえます。しかし、義栄が病死したことで、三好氏から裏切り者が多く出たことで長逸は阿波国へ撤退を余儀なくされました。

その後、長逸は四国にいる三好勢をまとめ上げ、元亀元年(1570)に摂津国で織田軍と戦闘。この戦いは野田城・福島城の戦いと呼ばれており、三好三人衆や石山本願寺の勝利で終わります。長逸はこの戦いで討ち死にしたと伝わっています。

足利義栄を幾内へ導いた三好家臣「篠原長房」

篠原長房が仕えていた実休
出典:Wikipedia

篠原長房は三好長慶の弟・三好実休に仕えた篠原氏の筆頭格である人物です。永禄9年(1566)に三好三人衆と松永久秀の対立が起こると、長房は阿波国にいた足利義栄を擁立して幾内地方に進出します。

三好三人衆と手を組んだ長房は、協力して久秀と対峙しました。永禄11年(1568)には義栄の将軍就任の祝賀会に参加しました。

この時期の長房は三好三人衆以上の勢力を持っていたと評価されています。また、長房は長慶死後、衰退に向かう三好氏を支えるキーマンの役割を担っていました。

その後、足利義昭を擁立した織田信長が上洛してくると三好勢は壊滅、長房は義栄を伴って阿波国へ逃げました。義栄死後は、長房は信長に反撃するため、準備を整えた後の織田軍と戦いますが敗北。

再度阿波国へ撤退した後は、主君の母から疎まれるようになり、それが原因で元亀4年(1573)に自身の居城・上桜城を攻撃され、自害しました。

足利義栄が再興した伊勢氏の当主「伊勢貞為」

伊勢貞為の弟・伊勢貞興
出典:Wikipedia

伊勢貞為は武将でありながら、武家の行事や儀式などの武家礼法を確立した一族、伊勢氏の人物です。貞為は永禄2年(1559)に生まれますが、4歳のころに足利義輝によって祖父・伊勢貞孝と父・伊勢貞良が討ち取られます。

ところが、永禄8年(1565)の永禄の変で義輝が殺害されると、貞為は新たに将軍となった足利義栄のもとで伊勢氏再興を認められました。義栄死後は、義栄に味方したことから家督を弟の伊勢貞興に譲りました。その後は足利義昭の御供衆として仕えた後に織田信長の家臣となりました。

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