足利義栄にまつわる逸話
逸話1「京都に入れなかった唯一の室町幕府将軍」
意外なことに足利義栄は、生まれてから一度も京都に足を踏み入れることなく生涯を終えた唯一の将軍でした。当時の京都は三好三人衆と松永久秀の対立が激化しており、治安の悪さから京都に入れなかったことが要因としてあります。
また、頼みとしていた父・足利義維は病気を患っているため、大きな動きができず、義栄の母の実家である大内氏も滅亡していたので、後ろ盾がない状態でした。そうこうしているうちに、足利義昭が先に京都に入ってしまいます。
逸話2「暗殺疑惑もあった」
足利義栄は30歳前後で亡くなったため、暗殺や毒殺説がささやかれていました。松永久秀は義栄を暗殺するために、従妹の松永喜内を派遣。しかし、失敗に終わったので、毒を盛って毒殺を命じました。
毒殺に関しては『阿州将裔記』に嘘だろうと記されているため、そのようなことはなかったと考えられます。しかし、このようなことが記録として残っていることから、義栄は常に暗殺される危険が周囲にあったことがうかがえます。
足利義栄の生涯年表
天文7年(1538)年 – 1歳「阿波国で誕生」
天文7年(1538)、足利義栄は足利義維の長男として阿波国那賀郡平島にあった平島館で生まれます。義栄は将軍に就任する前は義親または義勝と名乗っていました。
永禄8年(1565)年 – 28歳「将軍候補になる」
永禄8年(1565)、足利義栄の従兄弟で室町幕府13代将軍・足利義輝が三好三人衆によって殺害される永禄の変が起こります。三好三人衆は義栄の父・足利義維を次期将軍に据えますが、病気のため断念。
従五位下・左馬頭に任命
代わりに義栄が三好三人衆の支援を受け、次期将軍として阿波国から摂津国へ移動します。永禄9年(1567)12月には征夷大将軍になるために必要な官職と位、従五位下・左馬頭に任命されます。
将軍になることを争っていた足利義昭に対して、半年遅れの任命となりました。この時に義栄と名を変えています。
永禄11年(1568)年 – 31歳「室町幕府14代将軍に」
永禄11年(1568)2月、足利義栄は朝廷から将軍宣下を受け、室町幕府14代将軍となりました。当初は、征夷大将軍に任命されるための金銭が用意できなかったことから、朝廷に将軍宣下を通して貰えませんでした。
手紙で将軍になった義栄
その後、伊勢氏の再興や旧幕臣たちへの説得工作の末、上記の結果となりました。しかし、三好三人衆と松永久秀の対立や義栄自身の病気が相まって京都に入れず、手紙で知る形となります。
永禄11年(1568)年 – 31歳「持病の悪化で病死」
永禄11年(1568)9月、足利義昭を支援して京都に上ってきた織田信長に、三好三人衆が敗れたことで、足利義栄は阿波国へ逃げました。その直後、昔から患っていた腫物の悪化に伴い、31歳で病死しました。
亡くなった場所に関して、阿波国の他に淡路国(現在の淡路島)や摂津国など複数の説があります。また、亡くなった月日も9月13日や10月20日など様々な説があります。
足利義栄の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
ヘッポコ征夷大将軍
鎌倉幕府から江戸幕府まで39人の征夷大将軍について1人1人まとめた一冊。足利義栄についても書かれており、非常に丁寧に紹介されています。
特に見どころの部分が1人1人に著者が独断でつけた5項目のパラメーター。文章だけでなく、パラメーターという数字で義栄の人となりを知りたい方におすすめです。
図説 室町幕府
室町幕府を図と一緒に紹介した一冊。室町幕府の何たるかを知れるので、入門書と言える本です。
もちろん、足利義栄についても記述されており、本書を通して義栄の生きた時代に関して理解が一層深まります。
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[麒麟がくる]足利家分裂!!次の将軍『足利義栄』とは?【一ノ瀬颯】
足利義栄についての解説だけではなく、永禄の変の目的やなぜ将軍家が分裂して足利義栄と足利義昭が将軍を巡って争ったのか背景も詳しく解説されています。話し手も分かりやすく解説してくれるので、隙間時間に見ていても頭にスッと入ってきます。
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足利義栄についてのまとめ
今回は、足利義栄の生涯を解説しました。
義栄は室町幕府歴代将軍の中で、一番影が薄いと言っても過言ではありません。しかし、混迷を極めた室町時代後期に、室町幕府将軍になるために奮闘した姿を見ると、もっと脚光を浴びてもいいのではと感じております。
義栄は31歳という短い生涯でしたが、その中で室町幕府14代将軍になり、伊勢氏の再興や朝廷と意見を交えるなど政治力の高い人物だと認識しました。この記事を通して、足利義栄について興味や関心を持っていただけたら幸いです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。