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衆道(男色)とは?関係性や作法、やり方を解説【有名人物や作品も紹介】

「衆道って何だろう?」
「衆道があるのは知っているけど、詳しくはわからない…」

衆道は日本における男色文化で、主に武士同士の男色をいいます。日本では男性同士による同性愛の歴史は古く、記録では古代からあったそうです。そして世界から見ても独特な「男色」文化を築いていた国でもありました。衆道を知るにはまず、日本の独特な男色文化を知らねばなりません。

江戸時代の衆道の様子
出典:Wikipedia

近年では性的マイノリティーが問題になりますが、実は開国前の日本は普通に行われてきたのです。そのためこの記事では衆道の考え方や作法を始め、古代からの男色の歴史や文化まで広域な視野で日本独特の文化である「衆道」というものを紹介していきます。

衆道(男色)とは?

日本では平安時代頃から男色が盛んだったらしい

衆道とは武士の間で行われた男色(同性愛)行為です。大きな特徴として男色行為に、武士同士の忠義や主従関係など独特の「道義」を説いていました。ただし広義として、歴史における「日本の同性愛及び少年愛」の名称と形態を表す言葉となってもいるようです。

男色の歴史は古く神話の時代に記述があり、仏教が盛んになるに従い奈良・平安時代には盛んになっていきました。そして僧侶が中心だった男色が公家にも広まっていき、室町時代には武家でも衆道が盛んに行わています。

江戸時代の陰間茶屋の浮世絵
出典:Japaaan magazine

武家の間で確立した「衆道」は江戸時代には庶民にも広まっていき、陰間茶屋として男娼文化が生まれました。その後西洋の価値観が入ってきた明治時代に、あまり目立たなくなっていったといいます。

衆道とはどんな関係?

元々は戒律の厳しい寺院で流行した

衆道とは同性間で性的な関係を結ぶことです。そして日本の貴族階級を中心に広がっていき、周りに性交対象の女性がいないために、代替え的考えで男色が広まっていったといわれています。種類は大きく2つにわけられ、一つは公家や女人禁制の寺院での衆道です。公家や僧侶の間の衆道は、平安時代頃から盛んになり発展していきました。

もう一つは武家の間の衆道で、女性を連れていけない戦地や寝所の護衛などで行われています。武士の衆道は、平安時代末期には記録が残っており室町時代末期から戦国時代にかけて盛んになりました。そして江戸時代になってからは主従関係の意味合いが薄れ、趣向的面が強く出るようになっていったようです。

衆道の目的は?

衆道は武士の間でも盛んだったらしい

公家・僧侶・武家など色々な身分が行っていたという衆道ですが、衆道の目的は大きく二つありました。

主従関係が絡む性欲処理だった

女性が伴えない戦場で盛んに行われたという

やはり大きな目的は性欲処理ですが、日本の男色でユニークな点は主従関係や君臣関係の絆を確認するための行為として発展していました。元々は女人禁制の場で、女性を連れていけないためにそのために部下や人身売買で得た児童を女性と見立てて性処理を行ったものでした。ただし公家は妻がいても、男色にふけっており、次第に主従関係の確認行為のようなニュアンスが強くなっていきます。

そして武家の間でも女性がいない戦場で広まるのですが、次第に男色に精神的な結びつきや主従関係が伴う「衆道」という道へと発展していくこととなったのです。精神的な結びつきを強くすることにより、男色は主君に対する絶対服従の絆を確かめる行為となりました。

出世の手段として用いられた

前田利家は織田信長の小姓出身の武将だ
出典:Wikipedia

男色を好む上司・主君に取り入り、出世の手段として利用するようになったといわれています。実際故意かはっきり分かってはいませんが、小姓出身で出世した人物は多くいます。有名なところで、織田信長に仕えた前田利家や武田信玄に仕えた高坂昌信などです。

出世の手段として男色が利用され始めたのは平安時代の公家にもみられ、男色を駆使していた者は、

「夜の関白」

などと陰口をいわれていたそうです。また戦国時代には、「桂男の術」と呼ばれるスパイ活動として美男子を色仕掛けで送り込み、作戦を調べさせたり暗殺させたりもしていたともいいます。

衆道の契りとは?

男性同士の関係にも多くの決まりがあった

一般的に衆道は男性役を元服した男性が、そして女性役を元服前の美少年がなっていました。女性役を「若衆」、男性役を「念者」といい兄弟分の契りを行う必要がありました。今から契りの方法や内容を見ていきます。

交際の誓約書があった!?

誓約書の内容はかなり厳しいものだった

弟分の男性が兄役の「念者」を定めると、衆道の契りを行いました。契りは紙に書いて誓うという本格的なものだったといいます。誓約書の内容は非常に禁欲的で、

  • 他の男性と関係を持ってはいけない
  • 他の男性と手を握ってはいけない
  • 他の男性と一緒に行動してはいけない
  • 許可なく男性とお酒を飲んではいけない

など厳しい規範がもうけられていました。同時に男性役である念者も、

  • 女性と浮気をしない
  • 女性の肌に触れてはいけない

など同時に課せられており、誓いを立てるために小指を断ち切って証明した人もいたといいますので、衆道というのはただ関係を持つだけでなく、清廉した関係を求められたといわれています。

衆道の作法は厳しかった

浮気は衆道でも御法度だった

衆道の作法は上記の決まり以外に精神的な結びつきにも美学がありました。内容は、

  • 互いに想う相手は一生にただ一人だけ
  • 相手を何度も取り替えるのは言語道断
  • 5年は付き合って相手の人間性を見極めるべき

など男女の恋愛も顔負けの心得が説かれていたようです。ちなみに「付き合う価値が無ければ別れても良い、もし怒鳴ってもつきまとうようっだったら斬り捨てても良い」という命がけの関係でした。

日本人は男色に寛容だった

ザビエルは日本人が男色を恥ずかしいと思っていないことに非常に驚いたという
出典:Wikipedia

日本人は上記のような男色行為が流行っていたことから、一般的に「男色に寛容だった」といわれています。ただし現在の同性愛とは考え方が違っていたので、その点は憂慮したうえではあります。

1549年に日本に来日した宣教師・フランシスコザビエルは日本人のことを賞賛しながらも、許されることの出来ない罪状として男色を挙げています。ヨーロッパで同性愛は、罪とされていました。そのため男色が駄目だと宣教の時に説くと、

「僧侶がすることだからよいだろう」

といった感覚だったそうです。そしてザビエルは男色に対して、

「彼らはそれを重要なことと考えていないから、若衆たちも関係している相手もこれを誇りとし、公然と口にし、隠そうとしない」

と本国に手紙を送っています。結局日本で衆道が廃れるのは、西洋文化が本格に入ってきた明治時代でした。西洋の同性愛をソドミーとして罪悪としたキリスト教的な考えや、同性愛を異常性愛と分類した西洋の精神分析学が入ったためです。

文明開化時に西洋の価値観が日本に入ってきた
出典:Wikipedia

そして1872年(明治5年)に「鶏姦条例法」が発令され、同性愛行為が禁止となりました。禁止されたために衆道は一度廃れてしまうものの、大正期になると再度秘密クラブなどで男色が復活し今に至っています。

衆道で有名な人物

源平を翻弄した後白河天皇も男色を嗜んでいる人物だった
出典:Wikipedia

日本史の中で、男色を行っていた歴史上の人物は沢山います。後白河天皇や、足利義満・足利義政なども男色を嗜んだ人物です。ここではそんな多くいる男色を嗜んだ人物の中でも、特に有名な3名を紹介します。

藤原頼長

藤原頼長、政治実績よりも男色の方が有名なある意味凄い人だ
出典:Wikipedia

平安時代末期の貴族で、左大臣にまで上りました。最後は保元の乱で敗死しています。頼長は男色を駆使して政治利用し、赤裸々な男色の日々を日記に記した「台記」が有名です。日記を見るに、男性の愛人の数は7人で父の藤原忠実と共有している人物もいたそうです。

その他にも妻の実弟と関係を持ったり、平家を京から追い出した木曽義仲の父・源義賢とも関係を持ったことも分かっています。このあたりに興味がある方は、「台記」の現代語訳を読んでみるのも面白いかもしれません。

織田信長

織田信長も衆道を嗜んでいた
出典:Wikipedia

衆道で有名な人物に織田信長がいます。室町時代末期の戦国大名で、天下統一の足がかりを作った人物でもありました。その織田信長が寵愛したというのが、小姓の森蘭丸と後に大名になった前田利家です。

小姓の森蘭丸は非常に美少年である上に、実務能力も優れていたために信長に非常に重用された人物でした。ただし信長が自慢できるものとして名前を挙げていたということや、美少年だったという記録も実は江戸時代に入ってからのものであり実は信憑性が疑われているそうですが、側小姓として仕えていたために男色関係があっただろうと考えられています。

前田利家、若い頃信長の小姓を務めていた
出典:Wikipedia

また信長が若い頃に小姓を務めていたのが前田利家でした。前田利家とは関係があったといわれており、加賀藩の資料「亜相公御夜話」に書かれているそうです。

松尾芭蕉

俳聖といわれた松尾芭蕉も男性と恋をしていた
出典:Wikipedia

江戸時代の俳諧歌人である松尾芭蕉も男色を嗜んだ人物だったといわれています。芭蕉は生涯独身でしたが、13歳年下の男性・坪井杜国(つぼいとこく)という人物と恋愛関係にあったといいます。芭蕉は杜国と歌会で知りあったといいますが、別れ際に杜国にこんな歌を贈っています。

「しらげしに 羽もぐ蝶の 形見かな」

しらげしを杜国に、蝶を芭蕉になぞらえた恋の歌でした。その後芭蕉は杜国と一緒に旅に出ています。およそ100日間の旅だったそうですが、二人で仲良くしながら楽しい旅をしたそうです。

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