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富国強兵とは?意味や政策、殖産興業との違いについてまで簡単に解説

「富国強兵ってなに?」
「聞いたことはあるけど具体的にどんな内容?」
「富国強兵をやったことで結局どうなったの?」

このように思われる方も多いのではないでしょうか。富国強兵とは国を富ませて軍事力を増強することですが、一般的には明治政府が国力・軍事力増強を目指すために掲げたスローガンを指します。

江戸幕府から政権を引き継いた明治政府は、不平等条約など負の遺産も引き継ぎました。これらを改善するには文明化・近代化を進める必要があり、そのために富国強兵が必要でした。この記事では冒頭のような疑問に応えながら富国強兵についてわかりやすく解説していきます。

富国強兵とは?

富国強兵について簡単に解説

安政五カ国条約(不平等条約)
出典:Wikipedia

富国強兵とは国の経済を発展させその資産で軍事力を増強させる政治思想です。一般的に富国強兵というと明治時代に政府が主導して行ったものを指します。

江戸幕府が諸外国から押しつけられた不平等条約を改正することは、明治政府にとって第一の目標でした。なぜなら関税率を自分で決められなかったり、日本で犯罪を犯した外国人を裁けないなど不平等な条約を押しつけられている状態では、真の独立国とはいえないからです。

しかし、日本は当時欧米諸国から野蛮な国とみなされており、条約が改正できるような状況ではありませんでした。

そうした状況を変えるべく、富国強兵で日本の文明化と近代化を推し進めようとしました。この富国強兵策を推進したことで、日清・日露戦争の勝利や不平等条約の改正といったことが成し遂げられ、日本は名実ともに真の独立国となり、諸外国からも一目置かれる存在となったのです。

富国強兵が必要だった背景

日本へ来航した黒船
出典:Wikipedia

富国強兵が必要だった理由は日本の近代化が急務だったからです。

日本は江戸時代に入ると鎖国を行いました。鎖国は200年以上続き、その間日本と外国とのやりとりは極めて限定的だったため、欧米諸国との国力差がどんどん開いていきました。

江戸時代後期に外国船が来航するようになります。しかし鎖国をしていたため、まともな海軍を持っていなかった日本には抵抗するすべがありませんでした。こうして徳川幕府とアメリカを始めとする諸外国との間で不平等条約が結ばれたのです。

この条約では関税自主権や領事裁判権がないことなどが主な問題となりました。明治維新で政権が徳川幕府から明治政府に変わった後もこの条約は引き続き適用されました。

1841年(明治4年)から欧米に派遣された岩倉使節団はさっそく条約改正を試みますが、当時の日本は野蛮国扱いだったため、そんな国と条約改正なんてとんでもない!という状態でした。

一方で岩倉使節団はこのときの欧米訪問で、産業革命により工業化が進んだ欧米諸国と日本との国力差をまざまざと見せつけられました。彼らと対等に交渉するためには富国強兵が必須であることを実感したのです。

日本以外の富国強兵政策

アヘン戦争の様子、この戦争に敗れた清も富国強兵をすすめようとしたが失敗に終わる
出典:Wikipedia

富国強兵は明治政府だけのものではなく、古今東西さまざまな国で行われています。もともと富国強兵という言葉が生まれたのは春秋・戦国時代の中国です。当時諸子百家から人材を登用したり、騎兵などの新兵器を導入することを富国強兵と呼んだのがこの言葉の始まりです。

日本が富国強兵を行った同じ時期でもいくつかの国が富国強兵を試みています。アヘン戦争に敗れた中国もその一つです。しかしこのときの中国は富国強兵に失敗し、欧米や日本に国土を侵食されてしまいます。

中国の富国強兵がうまくいかなかった理由は、変革が中途半端だったためといわれています。特に政治的な体制を変えられなかったことが大きな要因でした。このことからも富国強兵は簡単に成し遂げられることではないことがわかります。

富国強兵の主な政策

税制

地券
出典:Wikipedia

富国強兵を目指すためにはまず税収を増やす必要があります。明治政府はそれまでの税制を大幅に変更して不安定な税収を安定化させました。

田畑永代売買禁止令の廃止

明治時代以前、土地というものは民衆のものではなく、幕府や藩などお上のもので民衆は土地を使用させてもらっているという考え方が基本でした。1643年(寛永20年)には江戸幕府から田畑永代売買禁止令というお触れも出されました。

実際は田畑は売買されていましたが、あくまで藩や幕府の支配を受けているという前提は揺らぎませんでした。しかし1872年(明治5年)に田畑永代売買禁止令が廃止され、地券という土地を所有する証明書が発行されるようになると、土地は自分たちが私有可能なものという認識が高まっていきました。

地租改正

地租改正反対一揆
出典:Wikipedia

江戸時代の税収は土地で生産された米に対して一定割合の税をかけるというものでした。しかしこれでは不作の年には収入が減ります。また土地によって税率はバラバラでそれらを統一する必要もありました。

そのため明治政府は土地に対して税金をかけることにし、1873年(明治6年)に地租改正法を制定、地価の3%を金で納めるように決めました。

地価の3%と聞くと、江戸時代の五公五民(収穫高の50%の米を税として納める)などと比べるとよくなったのでは?と思ってしまうかもしれませんが、土地の価格がかなり高く定められたこともあって、実際は江戸時代よりも負担は増えました。また例え不作になろうと毎年同じ額を納めなければならないのも負担が増す原因になったのです。

そのため全国で地租改正反対一揆が続発しました。政府は当時多発していた士族反乱と連携するのをおそれ、1880年(明治13年)に税率を3%から2.5%に減額しました。これにより江戸時代の8割程度の税負担になったそうです。

このように民衆側からすると悪い面が目立つ地租改正ですが収穫高を増やせば自分の取り分が増えるので労働意欲が増すというよい面もありました。また江戸時代、田畑で育てる作物は藩から指定されたものに限られていましたがこの制限もなくなったため、自分たちの判断でお金になる作物を育てるという選択ができるようにもなりました。

このように明治政府の税制改革は単に税制を変えるというだけではなく、それまでの封建主義的な考え方から資本主義的な考え方へ変化させるための重要な政策でした。

学制

学制によって作られた大学の一つ、東京大学
出典:Wikipedia

富国強兵には優秀な人材が不可欠です。1872年(明治5年)に学制が発せられ、全国を8つの学区にわけて大学校を設置、その中をさらに細かい学区に分けて中学校・小学校が設立されました。6歳以上の子供を小学校へ通わせる義務教育制度の始まりです。

しかし子供は貴重な労働力として考えられていた当時、義務教育に対する反発もありました。また財源の乏しい地域では学制の規定どおりに小学校などを整備することは困難でした。

このため1880年(明治13年)に出された教育令によって学制は廃止され、現状に合わせた改正が行われます。その後も何度かの改正を経て、少しずつ義務教育も国民の間に浸透していくことになりました。

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