「富国強兵ってなに?」
「聞いたことはあるけど具体的にどんな内容?」
「富国強兵をやったことで結局どうなったの?」
このように思われる方も多いのではないでしょうか。富国強兵とは国を富ませて軍事力を増強することですが、一般的には明治政府が国力・軍事力増強を目指すために掲げたスローガンを指します。
江戸幕府から政権を引き継いた明治政府は、不平等条約など負の遺産も引き継ぎました。これらを改善するには文明化・近代化を進める必要があり、そのために富国強兵が必要でした。この記事では冒頭のような疑問に応えながら富国強兵についてわかりやすく解説していきます。
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富国強兵とは?
富国強兵について簡単に解説
富国強兵とは国の経済を発展させその資産で軍事力を増強させる政治思想です。一般的に富国強兵というと明治時代に政府が主導して行ったものを指します。
江戸幕府が諸外国から押しつけられた不平等条約を改正することは、明治政府にとって第一の目標でした。なぜなら関税率を自分で決められなかったり、日本で犯罪を犯した外国人を裁けないなど不平等な条約を押しつけられている状態では、真の独立国とはいえないからです。
しかし、日本は当時欧米諸国から野蛮な国とみなされており、条約が改正できるような状況ではありませんでした。
そうした状況を変えるべく、富国強兵で日本の文明化と近代化を推し進めようとしました。この富国強兵策を推進したことで、日清・日露戦争の勝利や不平等条約の改正といったことが成し遂げられ、日本は名実ともに真の独立国となり、諸外国からも一目置かれる存在となったのです。
富国強兵が必要だった背景
富国強兵が必要だった理由は日本の近代化が急務だったからです。
日本は江戸時代に入ると鎖国を行いました。鎖国は200年以上続き、その間日本と外国とのやりとりは極めて限定的だったため、欧米諸国との国力差がどんどん開いていきました。
江戸時代後期に外国船が来航するようになります。しかし鎖国をしていたため、まともな海軍を持っていなかった日本には抵抗するすべがありませんでした。こうして徳川幕府とアメリカを始めとする諸外国との間で不平等条約が結ばれたのです。
この条約では関税自主権や領事裁判権がないことなどが主な問題となりました。明治維新で政権が徳川幕府から明治政府に変わった後もこの条約は引き続き適用されました。
1841年(明治4年)から欧米に派遣された岩倉使節団はさっそく条約改正を試みますが、当時の日本は野蛮国扱いだったため、そんな国と条約改正なんてとんでもない!という状態でした。
一方で岩倉使節団はこのときの欧米訪問で、産業革命により工業化が進んだ欧米諸国と日本との国力差をまざまざと見せつけられました。彼らと対等に交渉するためには富国強兵が必須であることを実感したのです。
日本以外の富国強兵政策
富国強兵は明治政府だけのものではなく、古今東西さまざまな国で行われています。もともと富国強兵という言葉が生まれたのは春秋・戦国時代の中国です。当時諸子百家から人材を登用したり、騎兵などの新兵器を導入することを富国強兵と呼んだのがこの言葉の始まりです。
日本が富国強兵を行った同じ時期でもいくつかの国が富国強兵を試みています。アヘン戦争に敗れた中国もその一つです。しかしこのときの中国は富国強兵に失敗し、欧米や日本に国土を侵食されてしまいます。
中国の富国強兵がうまくいかなかった理由は、変革が中途半端だったためといわれています。特に政治的な体制を変えられなかったことが大きな要因でした。このことからも富国強兵は簡単に成し遂げられることではないことがわかります。
富国強兵の主な政策
税制
富国強兵を目指すためにはまず税収を増やす必要があります。明治政府はそれまでの税制を大幅に変更して不安定な税収を安定化させました。
田畑永代売買禁止令の廃止
明治時代以前、土地というものは民衆のものではなく、幕府や藩などお上のもので民衆は土地を使用させてもらっているという考え方が基本でした。1643年(寛永20年)には江戸幕府から田畑永代売買禁止令というお触れも出されました。
実際は田畑は売買されていましたが、あくまで藩や幕府の支配を受けているという前提は揺らぎませんでした。しかし1872年(明治5年)に田畑永代売買禁止令が廃止され、地券という土地を所有する証明書が発行されるようになると、土地は自分たちが私有可能なものという認識が高まっていきました。