地租改正
江戸時代の税収は土地で生産された米に対して一定割合の税をかけるというものでした。しかしこれでは不作の年には収入が減ります。また土地によって税率はバラバラでそれらを統一する必要もありました。
そのため明治政府は土地に対して税金をかけることにし、1873年(明治6年)に地租改正法を制定、地価の3%を金で納めるように決めました。
地価の3%と聞くと、江戸時代の五公五民(収穫高の50%の米を税として納める)などと比べるとよくなったのでは?と思ってしまうかもしれませんが、土地の価格がかなり高く定められたこともあって、実際は江戸時代よりも負担は増えました。また例え不作になろうと毎年同じ額を納めなければならないのも負担が増す原因になったのです。
そのため全国で地租改正反対一揆が続発しました。政府は当時多発していた士族反乱と連携するのをおそれ、1880年(明治13年)に税率を3%から2.5%に減額しました。これにより江戸時代の8割程度の税負担になったそうです。
このように民衆側からすると悪い面が目立つ地租改正ですが収穫高を増やせば自分の取り分が増えるので労働意欲が増すというよい面もありました。また江戸時代、田畑で育てる作物は藩から指定されたものに限られていましたがこの制限もなくなったため、自分たちの判断でお金になる作物を育てるという選択ができるようにもなりました。
このように明治政府の税制改革は単に税制を変えるというだけではなく、それまでの封建主義的な考え方から資本主義的な考え方へ変化させるための重要な政策でした。
学制
富国強兵には優秀な人材が不可欠です。1872年(明治5年)に学制が発せられ、全国を8つの学区にわけて大学校を設置、その中をさらに細かい学区に分けて中学校・小学校が設立されました。6歳以上の子供を小学校へ通わせる義務教育制度の始まりです。
しかし子供は貴重な労働力として考えられていた当時、義務教育に対する反発もありました。また財源の乏しい地域では学制の規定どおりに小学校などを整備することは困難でした。
このため1880年(明治13年)に出された教育令によって学制は廃止され、現状に合わせた改正が行われます。その後も何度かの改正を経て、少しずつ義務教育も国民の間に浸透していくことになりました。
兵制
江戸時代までは軍事は武士が独占していました。しかし戊辰戦争では農民出身者も多くいた新政府軍に幕府軍が敗れました。このことからもわかるように、個人の戦闘技術よりも最新兵器とそれを扱える兵士を数多くそろえることが重要になっていました。
そのため武士という階級は廃止され、1873年(明治6年)に徴兵令が発布されました。これは20歳以上の健康な男子は兵士になるというものです。この徴兵令は士族反乱の原因の一つにもなっています。また武士以外からも血税一揆が起きるなど反対運動が多く起こりました。
しかし軍人勅諭や教育勅語による国防思想の普及や、軍隊の生活レベルが比較的高かったこと、日清・日露戦争の勝利などから次第に徴兵逃れは減っていき、逆に徴兵されないことが不名誉とされるようになっていきました。
殖産興業
殖産興業とは機械制工業や資本主義の育成、鉄道網など社会基盤の整備により国の近代化を進めた諸政策をいいます。
殖産興業の元祖は島津斉彬が主導した集成館事業です。この当時佐賀藩など「強兵」の部分を強化した藩はいくつかありましたが、「富国」にも力を入れたのは薩摩藩だけです。製鉄・造船・紡績などの工業化に幅広く力を入れました。
また岩倉使節団などで海外を視察した明治政府の指導者たちは産業革命で工業化された欧米の有様を目の当たりにし、日本も同じような工業化が必要であると痛感していました。
官製工場の建設
1871年(明治4年)には殖産興業やインフラ整備を担当する工部省が発足しました。佐渡金山や高島炭鉱などといった鉱山の官営化や富岡製糸場の建設など多くの官製事業が行われました。集成館事業で建てられた工場もこれらに組み入れられています。
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官製工場の建設や運営のために当初は「お雇い外国人」と呼ばれる多くの外国人を雇用しました。彼らの中には給料が政府の指導者よりも高い人もいましたが、工業力が未熟であった日本にとって彼らの存在は欠かせませんでした。
一方で海外へ積極的に留学生を派遣し西洋の技術を学ばせました。こうした努力の結果お雇い外国人も少しずつ数を減らし日本の工業力は着実に向上していきました。
一方で政府は西南戦争等で財政難が深刻化していました。1880年官製工場払下概則が施行され、これらの官製工場は民間へ払い下げられました。これらを多く買い取り事業を大きくしたのが三菱や三井といった政商たちです。