「士農工商ってなに?どのような制度?」
「士農工商はいつから始まったの?」
「士農工商という言葉が教科書から削除されたって本当??」
このような疑問を持つ方もいるのではないでしょうか?士農工商とは江戸時代の身分制度のことで、この順番の通り、武士を頂点とした上下関係があったと言われています。
しかし、近年の研究により、士農工商は江戸時代の実際の身分制度と異なっていたことが明らかになりました。それにより、現在では教科書から士農工商という言葉は削除されています。
そこで、今回は士農工商の歴史からその言葉の本当の意味、実際の江戸時代の身分制度はどのようなものであったのか分かりやすく紹介します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
士農工商とはどんな制度か
士農工商は現在、当時の身分制度と異なっているということから、否定されています。しかし、否定されるまで、士農工商は一体どのような身分制度として考えられていたのでしょうか。
江戸時代の身分制度だった?
士農工商とは江戸時代の身分制度で、以下の4つの身分に分けられていました。
- 士ー武士
- 農ー農民
- 工ー職人
- 商ー商人
それぞれの身分の上下関係も、その「士農工商」の順番通りで武士を頂点に、農民、職人、商人と序列があると考えられてきました。
この序列について、学校の先生から以下のような説明を聞いた方もいるのではないでしょうか?
「武士が一番偉く、農民を2番目にしているのは江戸時代の人口で一番多く、年貢として重税を払う農民の人が不満を持たないように2番目に偉くしています」
「商人が一番下の理由は、農民や職人は作物や工芸品など何かを作って物を生み出すが、商人はその作った物を売り買いするだけで、何も生み出さないからです」
「お金持ちで贅沢をしている商人ですが、身分は一番下であると農民の不満をそらすためでした」
このような非常に理に適ったように思える説明も、現在では残念ながら誤っていたということが明らかになっています。
なぜ士農工商が作られたのか
士農工商という制度が作られた理由は、江戸時代よりも前の時代において武士と農民の境界が曖昧だったことに起因します。普段は農民として米作りなど農業に勤しんでいますが、いざ戦いが起きれば、武器を持って足軽として戦いに赴くのが一般的でした。
しかし、豊臣秀吉によって天下が統一され、農民が武器を所持することを禁じる刀狩令が発令され、兵農分離が進みます。これにより、武士と農民との線引きが明確となり、その職業が固定されるようになりました。
そして、江戸時代に入り武士による政治を安定させるため、この兵農分離はさらに進み、職業は世襲とされ、武士には様々な特権が与えられ、武士を頂点とした士農工商という身分制度が確立されていきます。
士農工商の本当の意味
すべての民という意味だった
士農工商という言葉はもともと江戸時代における身分制度を表す言葉ではありません。本来、士農工商とは「すべての民」を表す言葉でした。
昔、国民の職業は4つに分けられると考えられ、それぞれの職業から一文字ずつとり、連続して表記することで、「職業すべて」=「すべての民」という意味を表しています。身近で同じような言葉として「老若男女」があり、これと同じような意味合いで士農工商という言葉は使われていました。
現在、私たちが思っているような江戸時代の身分制度を表す言葉として、士農工商が認識されるのは近代以降のことで比較的最近のことになります。
士農工商の廃止とその後
士農工商が廃止されるのは明治時代のことになります。欧米諸国に対抗し近代的な国家になるためには、それまでの封建的な制度を捨て去ることは必須であると考えられたため、士農工商が廃止され、四民平等が掲げられます。
しかし、完全な平等になったわけではなく、支配者層は天皇とその家族を皇族、公家を華族として、大名などの武士は士族と呼ばれる称号を与えられ、戸籍に明記されていました。その他の農民、職人、商人といった人々は平民としてひとくくりにされています。
ただし、最初は士族にも特権はありましたが、士族の数が多いことから早い段階から特権を徐々に失い、最終的には戸籍上に士族と明記されていること以外、平民と変わらなくなりました。
当然、これに不満をもった士族はいくつかの反乱を起こしますが、西郷隆盛が盟主を務めた西南戦争が最後の反乱となり、これが鎮圧されてからは士族による武装蜂起も起きなくなります。
士農工商の歴史
中国で発祥の言葉
士農工商という言葉は中国で生まれました。士農工商は春秋戦国時代における民の分類を表す言葉として生まれ、「士」は元々は族長や貴族などの支配者層を表していましたが、時代が進み、国の統治の仕方も変わるにつれ、知識人や官吏などの役人を表すようになります。
この「士」と呼ばれる職分の人々に農業、工業、商業の各職業を並べて、「士農工商」という言葉が生まれ、民全体を意味することになりました。当時、士農工商の順番は統一されておらず、「荀子」では「農士工商」、「春秋穀梁伝」では「士商農工」と表記されています。
そんな中国では、商業や工業よりも農業を重視する傾向がありました。
それは商人や職人が利益を追求すると支配者層が脅かされると考えられていたからです。また、農民が農業を辞め、商人や職人へと職を変えると、穀物の生産が減少することで飢饉が起き、国が滅びかねないという懸念もあり、農業が重視されていました。
これを理論的にまとめたものが、孔子の儒教であると言われています。孔子についてもっと知りたいという方は以下の記事がおすすめです。
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日本に取り入れられた経緯
中国発祥の士農工商という概念が日本に入ってきた時期は明確ではありませんが、遅くとも平城京を都としていた奈良時代には取り入れられました。平安時代に編纂された「続日本紀」と呼ばれる奈良時代の歴史を扱う書物において、士農工商を表す「四民の従、おのおのその業あり」と記されています。
「士」が本来の知識人や役人という意味から武士を意味するようになった詳しい時期も不明ですが、17世紀半ばには武士という意味を持って使われていました。その根拠として、あの剣豪として有名な宮本武蔵の「五輪書」(1645年)に以下の記述があります。
「凡そ人の世を渡る事、士農工商とて四つの道也。~中略~三つには士の道。武士におゐては…」
ここでは、士農工商の「士」という言葉が武士を意味していることが明らかなため、この時期には武士という意味を持っていました。
また、この記載からも士農工商が身分制度としてではなく、あくまでも職業の分類として書かれていることが分かります。