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士農工商とはどんな身分制度?意味や歴史、教科書からなくなった理由を解説

「士農工商ってなに?どのような制度?」
「士農工商はいつから始まったの?」
「士農工商という言葉が教科書から削除されたって本当??」

このような疑問を持つ方もいるのではないでしょうか?士農工商とは江戸時代の身分制度のことで、この順番の通り、武士を頂点とした上下関係があったと言われています。

しかし、近年の研究により、士農工商は江戸時代の実際の身分制度と異なっていたことが明らかになりました。それにより、現在では教科書から士農工商という言葉は削除されています。

そこで、今回は士農工商の歴史からその言葉の本当の意味、実際の江戸時代の身分制度はどのようなものであったのか分かりやすく紹介します。

士農工商とはどんな制度か

士農工商は現在、当時の身分制度と異なっているということから、否定されています。しかし、否定されるまで、士農工商は一体どのような身分制度として考えられていたのでしょうか。

江戸時代の身分制度だった?

江戸幕府を開いた徳川家康
出典:Wikipedia

士農工商とは江戸時代の身分制度で、以下の4つの身分に分けられていました。

  • 士ー武士
  • 農ー農民
  • 工ー職人
  • 商ー商人

それぞれの身分の上下関係も、その「士農工商」の順番通りで武士を頂点に、農民、職人、商人と序列があると考えられてきました。

この序列について、学校の先生から以下のような説明を聞いた方もいるのではないでしょうか?

「武士が一番偉く、農民を2番目にしているのは江戸時代の人口で一番多く、年貢として重税を払う農民の人が不満を持たないように2番目に偉くしています」
「商人が一番下の理由は、農民や職人は作物や工芸品など何かを作って物を生み出すが、商人はその作った物を売り買いするだけで、何も生み出さないからです」
「お金持ちで贅沢をしている商人ですが、身分は一番下であると農民の不満をそらすためでした」

このような非常に理に適ったように思える説明も、現在では残念ながら誤っていたということが明らかになっています。

なぜ士農工商が作られたのか

刀狩を行った豊臣秀吉
出典:Wikipedia

士農工商という制度が作られた理由は、江戸時代よりも前の時代において武士と農民の境界が曖昧だったことに起因します。普段は農民として米作りなど農業に勤しんでいますが、いざ戦いが起きれば、武器を持って足軽として戦いに赴くのが一般的でした。

しかし、豊臣秀吉によって天下が統一され、農民が武器を所持することを禁じる刀狩令が発令され、兵農分離が進みます。これにより、武士と農民との線引きが明確となり、その職業が固定されるようになりました。

そして、江戸時代に入り武士による政治を安定させるため、この兵農分離はさらに進み、職業は世襲とされ、武士には様々な特権が与えられ、武士を頂点とした士農工商という身分制度が確立されていきます。

士農工商の本当の意味

すべての民という意味だった

老若男女すべての人々を表していた

士農工商という言葉はもともと江戸時代における身分制度を表す言葉ではありません。本来、士農工商とは「すべての民」を表す言葉でした。

昔、国民の職業は4つに分けられると考えられ、それぞれの職業から一文字ずつとり、連続して表記することで、「職業すべて」=「すべての民」という意味を表しています。身近で同じような言葉として「老若男女」があり、これと同じような意味合いで士農工商という言葉は使われていました。

現在、私たちが思っているような江戸時代の身分制度を表す言葉として、士農工商が認識されるのは近代以降のことで比較的最近のことになります。

士農工商の廃止とその後

士族最後の反乱となった西南戦争
出典:Wikipedia

士農工商が廃止されるのは明治時代のことになります。欧米諸国に対抗し近代的な国家になるためには、それまでの封建的な制度を捨て去ることは必須であると考えられたため、士農工商が廃止され、四民平等が掲げられます。

しかし、完全な平等になったわけではなく、支配者層は天皇とその家族を皇族、公家を華族として、大名などの武士は士族と呼ばれる称号を与えられ、戸籍に明記されていました。その他の農民、職人、商人といった人々は平民としてひとくくりにされています。

ただし、最初は士族にも特権はありましたが、士族の数が多いことから早い段階から特権を徐々に失い、最終的には戸籍上に士族と明記されていること以外、平民と変わらなくなりました。

当然、これに不満をもった士族はいくつかの反乱を起こしますが、西郷隆盛が盟主を務めた西南戦争が最後の反乱となり、これが鎮圧されてからは士族による武装蜂起も起きなくなります。

士農工商の歴史

中国で発祥の言葉

士農工商は中国発祥

士農工商という言葉は中国で生まれました。士農工商は春秋戦国時代における民の分類を表す言葉として生まれ、「士」は元々は族長や貴族などの支配者層を表していましたが、時代が進み、国の統治の仕方も変わるにつれ、知識人や官吏などの役人を表すようになります。

この「士」と呼ばれる職分の人々に農業、工業、商業の各職業を並べて、「士農工商」という言葉が生まれ、民全体を意味することになりました。当時、士農工商の順番は統一されておらず、「荀子」では「農士工商」、「春秋穀梁伝」では「士商農工」と表記されています。

そんな中国では、商業や工業よりも農業を重視する傾向がありました。

それは商人や職人が利益を追求すると支配者層が脅かされると考えられていたからです。また、農民が農業を辞め、商人や職人へと職を変えると、穀物の生産が減少することで飢饉が起き、国が滅びかねないという懸念もあり、農業が重視されていました。

これを理論的にまとめたものが、孔子の儒教であると言われています。孔子についてもっと知りたいという方は以下の記事がおすすめです。

論語を説いた孔子とはどんな人?生涯まとめ【名言から人柄、思想や弟子まで紹介】

日本に取り入れられた経緯

平城京の復元模型
出典:Wikipedia

中国発祥の士農工商という概念が日本に入ってきた時期は明確ではありませんが、遅くとも平城京を都としていた奈良時代には取り入れられました。平安時代に編纂された「続日本紀」と呼ばれる奈良時代の歴史を扱う書物において、士農工商を表す「四民の従、おのおのその業あり」と記されています。

「士」が本来の知識人や役人という意味から武士を意味するようになった詳しい時期も不明ですが、17世紀半ばには武士という意味を持って使われていました。その根拠として、あの剣豪として有名な宮本武蔵の「五輪書」(1645年)に以下の記述があります。

「凡そ人の世を渡る事、士農工商とて四つの道也。~中略~三つには士の道。武士におゐては…」

ここでは、士農工商の「士」という言葉が武士を意味していることが明らかなため、この時期には武士という意味を持っていました。

また、この記載からも士農工商が身分制度としてではなく、あくまでも職業の分類として書かれていることが分かります。

士農工商にまつわる逸話

士農工商という身分制度は存在しなかった

士農工商は存在しなかった?

士農工商と言えば、江戸時代の身分制度として有名ですが、実のところ江戸時代では士農工商という身分制度は存在しませんでした。実際は士農工商ほど厳密に分けられておらず、武士、百姓、町人の3つに分類されます。

武士を頂点とするのは士農工商と変わりませんが、百姓と町人には身分の上下関係はなく、百姓と町人も、村に住んでいれば百姓、町に住んでいれば町人という分類の仕方でした。百姓と町人は「平人」という身分としてまとめられ、功績が認められれば、武士になることも可能でした。

また、これらとは別に「えた」や「ひにん」と呼ばれる身分の人々もいました。えた・ひにんは百姓や町人などの平人からも一線を画す扱いで、身分制度の外に存在する人たちです。

現代の倫理観からすれば考えられないことですが、当時えた・ひにんと呼ばれた人々は、同じ人間ではないと考えられ、社会から疎外され、差別を受けていました。

教科書から削除される

士農工商が教科書から削除

先述の通り、士農工商が実際の江戸時代の身分制度とは異なることが判明するにつれて、士農工商という言葉は社会や歴史などの教科書から削除されます。具体的には、1990年代から近世史の研究が進み、士農工商という身分制度や上下関係がないことが明らかになりました。

これを受けて、2000年代には文部科学省の検定済教科書から士農工商という言葉は削除されます。また、これと同時に「四民平等」という言葉も教科書から削除されました。

四民平等は明治維新の際、日本の近代化を進める上で、士農工商という身分制度が廃止になったことを背景に用いられた言葉です。士農工商という4つの身分がそれぞれ平等になるという意味で四民平等と言われました。

しかし、四民平等の前提となる士農工商が存在しなかったことが明らかになったため、四民平等という言葉も削除されることになります。

江戸時代の実際の身分制度とその割合

江戸時代の身分制度
出典:市報松江3月号

江戸時代の実際の身分制度は以下のように分けられます。

  • 武士
  • 百姓
  • 町人
  • 公家・僧侶・医師
  • えた・ひにん

それぞれどのような身分だったのか、当時の人口の内どのくらいの割合を占めていたのかまとめました。

武士

身分制度の頂点にいた武士
出典:Wikipedia

武士は江戸時代における身分の中で頂点に位置し、百姓や町人などその他の人々を支配する立場にいました。しかし、その数はそれほど多くはなく、人口のうち7%程度でした。

武士には苗字帯刀や駕籠(かご)に乗っての移動など数多くの特権が認められました。苗字帯刀はその名の通り、苗字(名字)を名乗ることや腰に刀を差すことを許される権利です。これには、武士であることを周囲に示す意味合いがありました。

また、無礼討ちと呼ばれる、武士に対して無礼を働いたものを殺しても罪に問われないという殺人特権も認められていました。

ただし、武士と言っても上は大名、下は徒士(かち)と呼ばれる徒歩で戦う下級武士があり、武士の中でも細かく分けられていました。武士の中でも上位の人々は、皆さんが想像する殿様のような贅沢な暮らしを送ることもできます。

その一方で、特に収入が低い下級武士の中には町人と生活水準が変わらず、武士をする傍ら副業もして収入を得ていた人もいたと言われています。

百姓

一番多かった百姓
出典:Wikipedia

百姓は江戸時代で一番多く、人口のうち85%占めていました。今では百姓と言えば、農業に従事している人というイメージが強いかもしれませんが、当時は村に住んでいれば、百姓に分類されていました。

そのため、百姓の仕事は農業に限られたものではなく、林業や漁業、海運業に従事する人や職人などを生業とする百姓もいたと言われています。このような背景から、農業が衰退し、穀物の生産量が減少することを恐れた幕府は1842年天保の改革の最中、百姓に対して「百姓の余技として、町人の商売を始めてはならない」というお触れを出すこともありました。

年貢として多くの税金を払わなければならなかった百姓は、天候不順や自然災害などが原因で凶作に陥るとかなり生活が苦しくなります。これが原因でたびたび一揆を起こし、自分たちの要求を訴えていました。

江戸時代前期の一揆は武装しておらず、万単位の百姓が集まっても暴力や略奪、家屋の破壊や放火なども起きず、統制のとれた極めて平和的なものでした。そのため、武士側も武力を行使できず、一揆が起きれば領主の統治が悪いと、領主が処罰を受けることもあったと言われています。

町人

元禄文化で有名な尾形光琳の燕子花図屏風
出典:Wikipedia

村に住んでいれば百姓と呼ばれたのと同様に、町に住んでいれば町人と呼ばれていました。町人の大半は商人や職人で、当時村に対して圧倒的に町が少ないため、町人の割合は想像以上に少なく5%しかいませんでした。

町人と百姓との間には、士農工商で当時考えられていたような上下関係はなく、対等でした。町人は非常に高い技術力と潤沢な資金面でときおり武士を圧倒するほどで、独自の町人文化を築きました。後世では元禄文化や化政文化と呼ばれるようになります。

これらの文化についてもっと詳しく知りたいという方は以下の記事がおすすめです。

元禄文化とは?特徴から代表する人物・作品、化政文化との違いまで解説

町人の中でも貧富の格差は存在し、家持層と呼ばれる表通りに店を構える町人もいれば、裏通りに店を構える裏店層と呼ばれた下層町人もいました。有力な町人は町の政治や公事に参加することもでき、中には武士にお金を貸し付けることもあったようです。

そして江戸時代中期になると、貨幣が普及し、産業も発展したため、武士が町人に経済的に依存することもありました。それに起因して、町人でありながら、武士と同様の待遇を受ける人も出てきました。

公家・僧侶・医師

上級武士にしか許されなかった駕籠
出典:Wikipedia

公家、僧侶、医者の人々はその職業の重要性から、上級武士しか使ってはならない駕籠(かご)による移動も許可されるなど百姓や町人にはない特権がありました。しかし、その数は非常に少なく人口のうち、わずか1.5%しかいませんでした。

この3つの身分の中でもっとも身分が高いのは公家で、僧侶、医師と続きます。中でも医師は百姓や町人の子供であっても、医師の元で医学を学び、領主の許可を得れば開業することができました。

医師として能力が高いと評価されれば、幕府や藩お抱えの医師に任命され、下級武士並みの待遇を受けることもできたようです。

えた・ひにん

差別を受けていたえた・ひにん
出典:Wikipedia

えた・ひにんと呼ばれた人々は今まで紹介した身分制度の枠組みの外に分類され、同じ人間ではないと考えられ差別されていました。えた・ひにんの人々は人口のうち1.5%程度いたと言われています。

百姓や町人が武士になることはめったにありませんでしたが、同様にえた・ひにんになることもめったにありません。それほどまでに、自分たちとは別の存在という扱いでした。

えた・ひにんはそれぞれ「穢多」「非人」と漢字で表記され、穢れが多い、人に非ずという今では考えられないほど酷い呼び方をされていました。これらの人々は死体処理や革製品の製造など、当時穢れが多いと考えられていた仕事に従事していました。

中には、これらの商売がうまくいき経済的に豊かになる人もいましたが、えた・ひにんであることが知れると取引を避けられたり、周囲から商売活動を抑圧されるといった差別を受けていました。

士農工商に関するまとめ

今回は士農工商についてまとめました。

士農工商と言えば江戸時代の身分制度という認識でいたため、それが本当はなかったことに驚きを隠せません。私自身、士農工商を学校で教えられ、その序列についても教師の説明を聞き、納得していたため、実際の身分制度がもっとシンプルで百姓と町人の間に上下関係もなかったと知って驚きました。

歴史の分野において、教科書に載っていた今まで正しいと思っていたことが、誤りであったとは思ってもいませんでした。しかし、もしかしたら、これからも研究が進み、私たちが知っている歴史上の出来事が間違っていて、新しい事実が明らかになるかもしれないと思うと、歴史にロマンを感じてしまいませんか?

最後になりますが、この記事を読み、江戸時代に生きる人々がどのような世界、制度の中で暮らしていたのか知り、彼らの生活に興味を持っていただけたなら幸いです。

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