士農工商とはどんな身分制度?意味や歴史、教科書からなくなった理由を解説

士農工商にまつわる逸話

士農工商という身分制度は存在しなかった

士農工商は存在しなかった?

士農工商と言えば、江戸時代の身分制度として有名ですが、実のところ江戸時代では士農工商という身分制度は存在しませんでした。実際は士農工商ほど厳密に分けられておらず、武士、百姓、町人の3つに分類されます。

武士を頂点とするのは士農工商と変わりませんが、百姓と町人には身分の上下関係はなく、百姓と町人も、村に住んでいれば百姓、町に住んでいれば町人という分類の仕方でした。百姓と町人は「平人」という身分としてまとめられ、功績が認められれば、武士になることも可能でした。

また、これらとは別に「えた」や「ひにん」と呼ばれる身分の人々もいました。えた・ひにんは百姓や町人などの平人からも一線を画す扱いで、身分制度の外に存在する人たちです。

現代の倫理観からすれば考えられないことですが、当時えた・ひにんと呼ばれた人々は、同じ人間ではないと考えられ、社会から疎外され、差別を受けていました。

教科書から削除される

士農工商が教科書から削除

先述の通り、士農工商が実際の江戸時代の身分制度とは異なることが判明するにつれて、士農工商という言葉は社会や歴史などの教科書から削除されます。具体的には、1990年代から近世史の研究が進み、士農工商という身分制度や上下関係がないことが明らかになりました。

これを受けて、2000年代には文部科学省の検定済教科書から士農工商という言葉は削除されます。また、これと同時に「四民平等」という言葉も教科書から削除されました。

四民平等は明治維新の際、日本の近代化を進める上で、士農工商という身分制度が廃止になったことを背景に用いられた言葉です。士農工商という4つの身分がそれぞれ平等になるという意味で四民平等と言われました。

しかし、四民平等の前提となる士農工商が存在しなかったことが明らかになったため、四民平等という言葉も削除されることになります。

江戸時代の実際の身分制度とその割合

江戸時代の身分制度
出典:市報松江3月号

江戸時代の実際の身分制度は以下のように分けられます。

  • 武士
  • 百姓
  • 町人
  • 公家・僧侶・医師
  • えた・ひにん

それぞれどのような身分だったのか、当時の人口の内どのくらいの割合を占めていたのかまとめました。

武士

身分制度の頂点にいた武士
出典:Wikipedia

武士は江戸時代における身分の中で頂点に位置し、百姓や町人などその他の人々を支配する立場にいました。しかし、その数はそれほど多くはなく、人口のうち7%程度でした。

武士には苗字帯刀や駕籠(かご)に乗っての移動など数多くの特権が認められました。苗字帯刀はその名の通り、苗字(名字)を名乗ることや腰に刀を差すことを許される権利です。これには、武士であることを周囲に示す意味合いがありました。

また、無礼討ちと呼ばれる、武士に対して無礼を働いたものを殺しても罪に問われないという殺人特権も認められていました。

ただし、武士と言っても上は大名、下は徒士(かち)と呼ばれる徒歩で戦う下級武士があり、武士の中でも細かく分けられていました。武士の中でも上位の人々は、皆さんが想像する殿様のような贅沢な暮らしを送ることもできます。

その一方で、特に収入が低い下級武士の中には町人と生活水準が変わらず、武士をする傍ら副業もして収入を得ていた人もいたと言われています。

百姓

一番多かった百姓
出典:Wikipedia

百姓は江戸時代で一番多く、人口のうち85%占めていました。今では百姓と言えば、農業に従事している人というイメージが強いかもしれませんが、当時は村に住んでいれば、百姓に分類されていました。

そのため、百姓の仕事は農業に限られたものではなく、林業や漁業、海運業に従事する人や職人などを生業とする百姓もいたと言われています。このような背景から、農業が衰退し、穀物の生産量が減少することを恐れた幕府は1842年天保の改革の最中、百姓に対して「百姓の余技として、町人の商売を始めてはならない」というお触れを出すこともありました。

年貢として多くの税金を払わなければならなかった百姓は、天候不順や自然災害などが原因で凶作に陥るとかなり生活が苦しくなります。これが原因でたびたび一揆を起こし、自分たちの要求を訴えていました。

江戸時代前期の一揆は武装しておらず、万単位の百姓が集まっても暴力や略奪、家屋の破壊や放火なども起きず、統制のとれた極めて平和的なものでした。そのため、武士側も武力を行使できず、一揆が起きれば領主の統治が悪いと、領主が処罰を受けることもあったと言われています。

町人

元禄文化で有名な尾形光琳の燕子花図屏風
出典:Wikipedia

村に住んでいれば百姓と呼ばれたのと同様に、町に住んでいれば町人と呼ばれていました。町人の大半は商人や職人で、当時村に対して圧倒的に町が少ないため、町人の割合は想像以上に少なく5%しかいませんでした。

町人と百姓との間には、士農工商で当時考えられていたような上下関係はなく、対等でした。町人は非常に高い技術力と潤沢な資金面でときおり武士を圧倒するほどで、独自の町人文化を築きました。後世では元禄文化や化政文化と呼ばれるようになります。

これらの文化についてもっと詳しく知りたいという方は以下の記事がおすすめです。

元禄文化とは?特徴から代表する人物・作品、化政文化との違いまで解説

町人の中でも貧富の格差は存在し、家持層と呼ばれる表通りに店を構える町人もいれば、裏通りに店を構える裏店層と呼ばれた下層町人もいました。有力な町人は町の政治や公事に参加することもでき、中には武士にお金を貸し付けることもあったようです。

そして江戸時代中期になると、貨幣が普及し、産業も発展したため、武士が町人に経済的に依存することもありました。それに起因して、町人でありながら、武士と同様の待遇を受ける人も出てきました。

公家・僧侶・医師

上級武士にしか許されなかった駕籠
出典:Wikipedia

公家、僧侶、医者の人々はその職業の重要性から、上級武士しか使ってはならない駕籠(かご)による移動も許可されるなど百姓や町人にはない特権がありました。しかし、その数は非常に少なく人口のうち、わずか1.5%しかいませんでした。

この3つの身分の中でもっとも身分が高いのは公家で、僧侶、医師と続きます。中でも医師は百姓や町人の子供であっても、医師の元で医学を学び、領主の許可を得れば開業することができました。

医師として能力が高いと評価されれば、幕府や藩お抱えの医師に任命され、下級武士並みの待遇を受けることもできたようです。

えた・ひにん

差別を受けていたえた・ひにん
出典:Wikipedia

えた・ひにんと呼ばれた人々は今まで紹介した身分制度の枠組みの外に分類され、同じ人間ではないと考えられ差別されていました。えた・ひにんの人々は人口のうち1.5%程度いたと言われています。

百姓や町人が武士になることはめったにありませんでしたが、同様にえた・ひにんになることもめったにありません。それほどまでに、自分たちとは別の存在という扱いでした。

えた・ひにんはそれぞれ「穢多」「非人」と漢字で表記され、穢れが多い、人に非ずという今では考えられないほど酷い呼び方をされていました。これらの人々は死体処理や革製品の製造など、当時穢れが多いと考えられていた仕事に従事していました。

中には、これらの商売がうまくいき経済的に豊かになる人もいましたが、えた・ひにんであることが知れると取引を避けられたり、周囲から商売活動を抑圧されるといった差別を受けていました。

士農工商に関するまとめ

今回は士農工商についてまとめました。

士農工商と言えば江戸時代の身分制度という認識でいたため、それが本当はなかったことに驚きを隠せません。私自身、士農工商を学校で教えられ、その序列についても教師の説明を聞き、納得していたため、実際の身分制度がもっとシンプルで百姓と町人の間に上下関係もなかったと知って驚きました。

歴史の分野において、教科書に載っていた今まで正しいと思っていたことが、誤りであったとは思ってもいませんでした。しかし、もしかしたら、これからも研究が進み、私たちが知っている歴史上の出来事が間違っていて、新しい事実が明らかになるかもしれないと思うと、歴史にロマンを感じてしまいませんか?

最後になりますが、この記事を読み、江戸時代に生きる人々がどのような世界、制度の中で暮らしていたのか知り、彼らの生活に興味を持っていただけたなら幸いです。

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