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江戸幕府15代将軍を一覧で紹介!覚え方や各将軍がやったことも解説

1603年に創設された江戸幕府は、1867年に滅ぶまでの265年間で、15人が将軍職を担ってきました。誰もが個性豊かな将軍たちですが、全員の名前を順番に挙げられる人は少ないかもしれません。

歴代の江戸幕府将軍が政務をとった江戸城は、明治に入り取り壊された(1871〜1873年ごろ撮影)。
出典: Yahoo!ニュース

この記事では、江戸幕府の将軍15人を、その血筋やエピソードとともに紹介していきます。在位中にどんな歴史的事件があったのかも解説しているので、その将軍は果たした役割も見えてくるでしょう。最後には覚え方も紹介するのでぜひ参考にして下さい。

江戸幕府の将軍15人を紹介

江戸幕府の将軍15人の系図
出典:wikipedia

初代:徳川家康

徳川家康(1542〜1616)の肖像画として尾張徳川家に伝わる、通称「顰(しかみ)像」
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徳川家康は、三河国岡崎城主であった松平広忠の嫡男として生まれ、19歳まで織田信秀や今川義元のもとで人質生活を送りました。その後は織田信長の同盟者として、豊臣政権では五大老の筆頭として着実に地盤を固めていきます。1600年関ヶ原の戦いで石田三成を破って天下統一を成し、1603年に征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開きました。

豊臣秀頼と淀殿が大坂城で自刃したことで豊臣氏が滅亡した大坂夏の陣
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1605年に息子の秀忠に将軍職を譲るも、大御所として政治を行います。1615年に豊臣氏を滅ぼし、以後250年以上の長きにわたり平和な時代をもたらす江戸幕府を創設したことが、家康の最大の功績です。

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二代:徳川秀忠

徳川秀忠(1579〜1632)
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徳川秀忠は初代将軍徳川家康とその側室である宝台院との間に生まれた、家康の三男です。家康の嫡男であった松平信康は自刃、二男結城秀康は豊臣秀吉の養子になったことにより、秀忠が徳川家の後継ぎとなりました。関ヶ原の戦いでは、真田昌幸・信繁親子に足止めさせられたことで戦に遅れをとり、兵を無駄に急がせたと家康に叱られたエピソードは有名です。

秀忠が発布した、江戸幕府の大名に対する法典である武家諸法度
出典:asahi.com

1605年に二代目将軍となります。父家康の大御所政治は続いていましたが、豊臣家滅亡後には武家諸法度や禁中並公家諸法度を発布し、幕藩体制の確立に務めて二代目として重要な仕事を成し遂げました。織田家、浅井家の血を引く継室お江との間に生まれた和子(まさこ)は第108代後水尾天皇に入内し、生まれた皇女はのちに第109代明正天皇として即位しました。

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三代:徳川家光

徳川家光(1604〜1651)
出典:wikipedia

徳川家光は二代目徳川秀忠の次男として、継室の崇源院が出産しました。長男は早世したため、秀忠の後継ぎとして乳母の春日局に育てられます。1623年に三代目将軍となりました。1637年に島原の乱が起き、ポルトガル船の来航を禁止して鎖国制を敷いたのは家光の時代です。

徳川家康を祀る日光東照宮は、家光が増築して荘厳化を図った。
出典:文化遺産オンライン

また、軍役を課したり参勤交代を制度化することで大名の統制を図り、職制の整備といった幕藩体制の具体的な基礎固めのほか、祖父徳川家康を東照大権現として祀り、将軍の権威を高めたことにより、江戸幕府の体制安定へと繋がりました。家光の功績なくしては、江戸幕府は長く続かなかったでしょう。

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四代:徳川家綱

徳川家綱(1641〜1680)
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徳川家綱は三代目徳川家光の長男で、母は側室の宝樹院です。1651年に四代目将軍となると、由比正雪ら牢人が幕府転覆を計画した慶安の変が起きます。しかし叔父の会津藩主である保科正之や酒井忠勝・松平信綱など家光を支えていた遺老が補佐することで、政情不安は取り除かれました。末期養子の禁緩和や殉死の禁止などが定められ、主従関係は世代を超えて継承するものとなります。

江戸の火事としては歴史的にも最大規模だった明暦の大火では、江戸城も天守閣など多くが焼け落ちた。
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家綱の時代に武断政治から文治政治へと体制を転換できたことが、江戸幕府が長期政権となるきっかけとなりました。しかし、1657年に江戸で起きた明暦の大火は、10万人を超える死者を出しただけではなく、復興にも莫大な金額がかかり、過去3代の将軍が残した遺産を多く費やした時代でもありました。

五代:徳川綱吉

徳川綱吉(1646〜1709)
出典:wikipedia

徳川綱吉は三代目徳川家光の四男で、母は側室の桂昌院です。上野国館林藩主でしたが、兄の家綱に後継ぎがいなかったことから養子となり、1680年に将軍職を継ぎました。大老堀田正俊の補佐のもと、治世の前半は天和(てんな)の治と呼ばれる文治政治を推し進めます。父家光の教えで儒学を好んだ綱吉は、忠孝と礼儀を重んじました。

生類憐みの令に伴って設けられた犬の保護施設「お囲い御用屋敷」跡(東京都中野区中野)
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堀田の死後は側用人を重用するようになり、柳沢吉保が権勢を握るようになると、のちに悪政と呼ばれる政治が行われました。父母親族が他界した際の忌引き日数などを決めた服忌令や生類憐みの令を出すことで、現代の私たちが抱く、人の死や血を穢れとみなす意識が広まるようになります。幕府の財政状況が悪化し始めるのは綱吉の時代です。

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六代:徳川家宣

徳川家宣(1662〜1712)
出典:wikipedia

徳川家宣は、三代目徳川家光の三男であった甲斐甲府藩主徳川綱重の長男で、側室の長昌院が出産しました。叔父の五代将軍綱吉の養子となり1709年に六代目将軍となります。柳沢吉保ら綱吉時代の遺臣を退け、新井白石や間部詮房を登用して文治政治を行いました。

朝鮮通信使は朝鮮国王が徳川将軍の代替わりの時などに派遣した使節団
出典:文化遺産オンライン

治世は3年ほどと短いものでしたが、悪法と言われた生類憐みの令の廃止、皇統の確保のため閑院宮家を創設、朝鮮通信使の待遇を改善、財政改革など、家宣は「正徳の治」と呼ばれる善政を敷いた将軍として知られています。

七代:徳川家継

徳川家継(1709〜1716)
出典:wikipedia

徳川家継は六代目徳川家宣の四男として側室の月光院が出産しました。兄たちが早世したために、1713年に5歳で七代将軍となります。新井白石や間部詮房に支えられ、父家宣の正徳の治を引き継ぎます。正徳金銀の鋳造や海舶互市新例の制定により財政再建にも積極的に取り組みましたが、家継は8歳という幼さで他界してしまいました。

正徳と享保に発行された金銀の品位を上げることで、貨幣流通量を押さえてインフレを解消しようとした。
出典:日本銀行金融研究所貨幣博物館

家継の死去により、秀忠から続いていた男系の血筋は途絶えました。そのため、御三家である尾張家の徳川継友と紀州家の徳川吉宗が後継者として挙がりましたが、大奥は吉宗を後継者に推挙しました。

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