「花魁は聞いたことあるけど詳しくは知らない…」
「花魁ってどんな職業?」
花魁とは「吉原遊郭の高級遊女の中でも位の高い女性」をさします。現在の言葉でいうと、「高級娼婦」「高級愛人」といえる人たちでした。花魁は現在もエンターテイメントでも題材にされたり、コスプレで人気があったりするようです。
残っている古写真を見ても、多くのかんざしや鮮やかな着物で美しく着飾った花魁の写真が残っており、当時の人たちが憧れたのが分かるような気がしてきます。そんな華やかなイメージの「花魁」という職業がどういった職業だったのか、この記事では花魁の成り立ちや歴史、人物など幅広く紹介します。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
花魁とは何をする人?
江戸時代の遊郭で、ひと際華やかな存在で当時の遊女の憧れの的だった「花魁」。そもそも花魁とは遊郭の中でどういった存在だったのか紹介します。
そもそも花魁とは?
「花魁」とは官許(※1)の遊郭で、最高位の遊女を呼称したものです。しかし花魁は江戸時代中期頃からの呼称で、江戸初期は、遊郭の高級遊女を「太夫」と呼んでいました。しかし江戸時代中期に浅草吉原で「太夫(たいふ)」のことを「花魁」と呼びはじめ、何時しか吉原で花魁の呼び方が主流となっていったのです。
ちなみに同じように官許だった京都・島原と大阪・新町では「花魁」とは呼ばず「太夫」と呼ばれ続け、現在でも京都では「太夫」が数名存在しています。
※1.官許(かんきょ):政府が特定の人や団体に特定の行為を許すこと。また、その許可。
花魁の起源は?
遊郭で高級遊女の花魁が、いつどのように出来たのか?歴史を振り返ってみます。
花魁の呼び方の起源は?
花魁の起源は、18世紀中ごろに吉原の禿(かむろ)や妹分の新造などが姉女郎を「おいらん」と読んだことから始まったといいます。なぜ「おいらん」と呼び始めたかというと、妹分が「おいらのところの姉さん」と読んだのが、縮まって「花魁」と呼ぶようになったとありますが確証はありません。
そして落語「紺屋高屋」の元になった小説で、登場人物のあだ名「花魁童子」から「おいらん」を「花魁」と当て字したのだろうと考えられています。この「花魁」という呼び方は、やがて元の呼称「太夫」よりも定着していったと考えられます。
花魁は江戸時代初期から始まった
いつ頃から花魁が現れたかというと、江戸時代初期に吉原遊郭が出来た頃です。当初遊女屋は各地に点在していましたが、風紀の乱れを防ぎために幕府が許可して場所を提供した場所が「吉原遊郭」でした。
そして江戸の発展と共に吉原遊郭は、京都の島原遊郭や大阪・新町と並んで栄えるようになります。そして何時しか吉原は日本一の町といわれるようになり、1643年頃には敷地面積2万坪に及び、花魁の前身「太夫」が18名いたと記録されているそうです。
花魁の階級は?
遊女にも階級があり、その中で花魁は遊女の最高位であり憧れの的でもありました。そんな花魁も大きく分けると3つ階級があり、「呼び出し」「昼三」「付廻し」とあったそうです。
その中でも一番の最高位が「呼び出し」で、一般的な遊女のような張り店を行わず、揚屋に仲介してもらわないといけませんでした。花魁を呼び出すための値段の相場は、大体今の価値で400万~600万円くらいかかるといわれており、とても庶民が相手できる女性ではありませんでした。
そして身の回りの世話する見習い遊女を付けて揚屋に向かう花魁道中は、花魁の華やかな姿として当時の人々を魅了したのです。
花魁はどのように避妊していたのか?
遊女である花魁はどういった避妊していたのか?気になるところですが、一般的な方法は吉野紙という和紙を湿られて膣の中に詰め込んでおく方法をとっていました。または避妊薬として販売されていた薬も使用したといわれています。
和紙を詰める方法は「上げ底」と呼ばれ、事が終わると上げ底を取って洗浄したそうです。これは江戸時代最も使用された避妊方法で和紙を取り出した後、膣を洗浄していました。洗浄することは「洗滌(せんでき)と呼ばれ、遊郭には洗浄用の湯が桶に準備されていたといいます。
また高級品ですが、「妊娠を避ける薬」が販売されていたので服用していたりもしたようです。この方法は、下級遊女の稼ぎでは難しく花魁クラスでないとあまり出来なかったのではないかといわれています。しかし薬の避妊効果は実際期待できなかったといいます。
そして今のようなしっかりした避妊方法がない時代であったために、妊娠してしまう遊女が多くいました。そのため中条流という堕胎専門の医師がいたそうです。
江戸時代の花魁(遊女)の避妊方法は?妊娠した場合の処遇も解説
花魁と芸者の違いは何?
現在も馴染みがある「芸者さん」ですが、意外に花魁と芸者の何が違うのか知らない人も多いようです。簡単に違いをいうと、「芸者は芸を売り、花魁は身を売る」という売るものの違いでした。町芸者は遊女のように客を取る人もいましたが、官許の遊郭吉原では芸者と遊女の職務領分は明確にわけられており、隠れて客を取った芸者は追放処分を受けたといいます。
芸者のことを「左褄(ひだりづま)」といいますが、左で長着の裾を持てば合わせ目から男性が手を入れることが出来ないためだそうです。つまり「左褄をとる」という言葉は「色を売らない」という芸者のプライドを表した言葉なのです。これに対して花魁は右褄を取りますが、これは男性が手を入れやすいからという違いがあるそうです。
花魁は男性にとってどのような存在だったのか?
高級遊女である花魁は庶民ではとても手が出せる存在ではなかったといいますが、吉原には花魁が多く在籍し活躍していました。高級であるにもかかわらず人気だった花魁は、男性にとってどのような存在だったのかを見ていきます。
男性にとってステータスだった花魁遊び
花魁と懇意になるためには、「城が傾くほどお金がかかる遊女」といわれていました。そのため馴染みの花魁がいるということは権力を誇示するためのステータスとなっていたといいます。懇意の花魁がいるということは、当時の成功者の証でもあったのです。
花魁と遊ぶ際の決まりやかかる費用は?
花魁と遊ぶには手順が決まっていた
花魁と遊ぶためには、遊ぶためのルールを守る必要がありました。ルールを守らないお客は吉原を追い出されるという厳しい処罰が下されたといいます。まず花魁のなじみになるためには何度も通う人用がありました。
お店には茶屋を通して取り次いでもらわなければならず、この時茶屋で豪勢にお金を使う必要がありました。そうして取り次いでもらった花魁は上座に座り、客が下座に座ったといいます。初回(一回目)遊女は客と離れたところに座って客と口を聞かず、飲食もしませんでした。この際花魁は客を品定めしたといいます。客は沢山の芸者を呼び、豪遊しないといけませんでした。
裏(二回目)には少し近くによるものの初回と同じように口を聞かず、飲食もしませんでした。3回目にようやく馴染みとなり、自分の名前が書かれた膳が並べられるようになります。この時ご祝儀として馴染み金を支払う必要があり、ようやく花魁と床を共にすることができました。
無事に花魁の馴染みになると、もし客が他の店の花魁や遊女の元に通っていることが分かると浮気として吉原大門あたりで捕えて、茶屋に苦情をいったそうです。客は金を払って詫びを入れたそうです。また花魁の指名が重なった場合、代わりとして新造が相手しました。しかし床入れはできず、通常の揚げ代を取られたそうです。
花魁にかかる費用は?
花魁と一夜を共にするためには、多くの資金がかかりました。大体の費用ですが、初回は花魁の揚げ代が一両二分(15万円ぐらい)に、さらに遊女屋への宴会代と花魁の周りの遊女や店主へのご祝儀の支払い、宴会の芸者代なども払い費用は10両から20両(100万~200万)くらいかかったといいます。またそれだけでなく仲介した引手茶屋などでも支払いが必要だったといいます。
2回目も大体同じような費用がかかりますが、花魁とまだ会話ができませんでした。3回目でようやく馴染みになったときに、客は馴染み金として2両2分(約30万円)を支払うのが礼儀でした。また別に「床花」を払い大体5両から10両(50万から100万)くらいが相場だったそうです。
ただし迎える花魁を含めた遊女屋も、それに見合った最高のおもてなしをするのが決まりでした。花魁の馴染みになることは、遊女屋にとっても大きなイベントだったのです。トータルすると花魁と馴染みになるためには、400万~600万程度必要だったといいます。