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鎖国とは?理由や目的、貿易品や開国までの年表も簡単に解説

鎖国とは、江戸幕府が行った対外措置のことです。鎖国により約200年間、日本は他国と極力国交を持たない国となり、その代わり独自の文化を形成していきました。

鎖国に築かれた長崎の出島
出典:Wikipedia

とはいえ、読者の皆さんの中には、

「鎖国の内容がいまいちわからない…」
「どうして日本は鎖国したの?」
「鎖国中に貿易してたの?」

といった疑問や関心を持っている方も多いのではないでしょうか。鎖国時の貿易や鎖国から開国までの年表も確かめたい方もいるはず。

そこで今回は、江戸時代の情勢に詳しい筆者が、鎖国の理由や目的、メリット・デメリット、与えた影響までわかりやすく紹介します。

この記事を読めば、鎖国の詳細を理解できるだけでなく、日本が開国に至った理由も理解できるでしょう。

鎖国とは?

鎖国を形にした江戸幕府3代将軍・徳川家光
出典:Wikipedia

鎖国とは、江戸時代前期に幕府が行った外国との貿易を統制する対外政策です。2代将軍徳川秀忠が実施し、3代将軍徳川家光の時代で本格化させました。

鎖国自体は寛永16年(1639)のポルトガル船の来航禁止から始まっています。しかし、鎖国という言葉を使用したのは、享和元年(1801)の時に成立した翻訳文『鎖国論』からでした。

鎖国論の写本
出典:Wikipedia

『鎖国論』の元となる文は、17世紀末に来日したドイツ人医師のエンゲルト・ケンペル死後に編集された『日本誌』のオランダ語版にあった論文です。

ただ、論題が『日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理』と非常に長かったため、当時の蘭学者・志筑忠雄が『鎖国論』と論題を訳しました。

海外では嘉永3年(1851)に発行された『白鯨』にて「locked Japan(鍵のかけられた日本)」と記載があるように、その頃には鎖国として認知されていました。

注意
鎖国という言葉の意味が海外と一切国交を持たない閉ざされた状態を指しますが、江戸時代は一部の場所で海外と貿易していた背景から、「海禁」の方があっている見方も存在しております。また、鎖国が一般的に普及するのは明治以降だったため、制度としての鎖国はなかったとの見方が近年では主だっています。

最初に来航したのはポルトガル

日本に来日した外国人
出典:Wikipedia

日本が最初に欧米人と国交を持ったのは天文12年(1543)の時で、相手国はポルトガルでした。当時の日本は戦乱の時代でポルトガル人が所有していた火縄銃は今後の戦に大きな影響を与えました。

また、ポルトガルとの貿易にはキリスト教会・イエズス会の布教がセットでついてきました。この時は、キリスト教に興味を持っていた織田信長の存命や貿易による利益を得るために進んでキリスト教徒になるキリシタン大名の増加により、布教に対して寛容でした。

鎖国の目的とは?

バテレン追放令の原文
出典:Wikipedia

鎖国の目的は、キリスト教の禁止と貿易の統制でした。江戸時代の前には豊臣秀吉がキリスト教の布教を禁止するため、バテレン追放令を出します。しかし、ポルトガルやスペインといった南蛮との貿易は継続していたので、隠れて布教できるくらい緩和でした。

そして、江戸時代になって起こった島原の乱を経て、キリスト教の恐さを思い知った江戸幕府は貿易に来航する他国船の窓口を特定の場所に限定した上で鎖国を行いました。

最初の鎖国場所は平戸

平戸に置かれたオランダ商館の復元
出典:Wikipedia

平戸は長崎県北西部に位置する場所です。徳川秀忠によって鎖国が進められる際、まず平戸に中国船以外の来航を許可しました。

平戸にはオランダやイギリスの貿易拠点(商館)があり、限定的な貿易を実施。平戸は寛永18年(1641)にオランダ商館が長崎に築かれた人口島・出島に移るまで、利用されました。

鎖国中も貿易は行われていた

朱印船貿易に使用した朱印船
出典:Wikipedia

日本が鎖国する前は、徳川家康が慶長9年(1604)に朱印状と呼ばれる将軍が出した海外渡航許可状を持った日本船のみ、海外と貿易をした朱印船貿易が盛んでした。そして、寛永8年(1631)には朱印状の他に、老中が出す奉書を所有した日本船の貿易を許可しました。

しかし、寛永12年(1635)に日本船の海外渡航及び帰国を全面禁止とされると、奉書船の渡航はなくなりました。日本はこの年から他国に出向くことがなくなり、中国・朝鮮・オランダ・琉球・蝦夷の5ヶ国とのみ貿易を行います。

鎖国のメリット・デメリット

鎖国により近代化が遅れる要因となった

鎖国を実施で海外の文化や価値観が入ってこないことで、支配階層の人たちは自分たちの住む世界が当たり前だと認識します。それにより、将軍直下の支配体制が確立されるメリットが生じました。また、日本独自の文化・元禄文化も形成されました。

反対にデメリットは、近代化が遅れたということです。日本が開国した時にはイギリスでは産業革命が起きた後のことです。開国を迫ったアメリカも蒸気船で来航したことから、鎖国により、技術力で欧米諸国に後れを取る結果となりました。

また、長い間同じ体制で歩んできたこともあり、新しいことや想定の事態に対応できる幕臣があまりいませんでした。そのため、政治における決断も鈍り、政治力の後退が大きく目立ちました。これもデメリットの1つです。

鎖国へ踏み切った3つの理由

理由1:布教力の高いキリスト教への脅威

キリスト教はシンプルな教えだったので、多くの信者をつくった

ポルトガルやスペインとの貿易によって利益を得ていたものの、懸念すべき点はキリスト教の布教でした。キリスト教は神道や仏教の多神教と違い、イエスのみを崇拝する一神教です。

さらに、キリスト教はイエスの教えに従えば救われるシンプルな教えだったため、多くの日本人をキリスト教徒にします。江戸幕府はイエスを絶対とするキリスト教徒が団結したら、将軍や権力者を物ともしない姿勢に脅威を覚え始めました。

理由2:禁教令の発布

禁教令により多くのキリシタンが処罰された

慶長17年(1612)にはキリシタン大名の有馬晴信と幕臣でキリシタンの岡本大八が起こした賄賂事件・岡本大八事件を契機にキリスト教の棄教を迫る禁教令を発布。棄教に従わないキリシタン大名やキリスト教徒は厳しい処罰が下されました。

この頃のキリシタン大名の中には宣教師と手を組み寺社の破壊活動をする大名もおり、徳川家康死後には貿易による利益よりもキリスト教徒が起こす破壊活動が問題視され始めます。岡本大八事件が起こったこと自体、江戸幕府がキリスト教に寛容だったからと考えた幕府は、キリスト教弾圧に活発になりました。

理由3:江戸幕府による貿易統制

貿易統制することで幕府の利益向上にも繋がった

江戸幕府が鎖国を踏み切った理由の1つに貿易統制をしたかったことがあげられます。貿易できる場所を制限することで、貿易の管理がしやすくなり、資源の枯渇を防げました。

実際、日本は貨幣としても使用する金属を輸出していた国であったため、数々の貿易で金属が減少する事態に陥りました。そのため、貨幣改鋳で貨幣における金属の含有量の削減、正徳5年(1715)に出した海舶互市新例で金属の貿易量を減らしました。

鎖国が日本に与えた3つの影響

元禄文化が形成された

元禄文化を代表する作品出典:Wikipedia

鎖国により、日本独自の文化である元禄文化が花開きました。鎖国の影響で外国船の来航が制限されたことにより、海外が持っている文化や価値観が入らなくなりました。

そのため、浮世絵や文学作品など優れた作品が多数生み出されます。このような作品は、開国後には諸外国から評価される対象となりました。

元禄文化とは?特徴から代表する人物・作品、化政文化との違いまで解説

教育水準の向上

寺子屋の様子
出典:Wikipedia

鎖国により、キリスト教が弾圧され社会が安定し、儒教も発展したことで学問を重視する文化が生まれます。そのため、医学や天文学などが大きく進歩を遂げました。

また、江戸時代中期には寺子屋が増加し、一般町民たちにも学問が普及します。そのおかげもあり、江戸時代における日本都市部の識字率は世界的にも高い水準でした。

長期的な平和の実現

江戸時代は平和な時代だった

鎖国により、幕府が藩を統治する幕藩体制が確立されたこと、外国の干渉を排除したことで約200年に及ぶ世界的に類を見ない長期的な平和を築きました。

日本の歴史の中で江戸時代のように長期的な平和を築いたのは、平安時代のみです。平安時代も遣使を中断し、江戸時代のような鎖国状態だったことが背景にあげられます。

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