鎖国とは?理由や目的、貿易品や開国までの年表も簡単に解説

鎖国へ踏み切った3つの理由

理由1:布教力の高いキリスト教への脅威

キリスト教はシンプルな教えだったので、多くの信者をつくった

ポルトガルやスペインとの貿易によって利益を得ていたものの、懸念すべき点はキリスト教の布教でした。キリスト教は神道や仏教の多神教と違い、イエスのみを崇拝する一神教です。

さらに、キリスト教はイエスの教えに従えば救われるシンプルな教えだったため、多くの日本人をキリスト教徒にします。江戸幕府はイエスを絶対とするキリスト教徒が団結したら、将軍や権力者を物ともしない姿勢に脅威を覚え始めました。

理由2:禁教令の発布

禁教令により多くのキリシタンが処罰された

慶長17年(1612)にはキリシタン大名の有馬晴信と幕臣でキリシタンの岡本大八が起こした賄賂事件・岡本大八事件を契機にキリスト教の棄教を迫る禁教令を発布。棄教に従わないキリシタン大名やキリスト教徒は厳しい処罰が下されました。

この頃のキリシタン大名の中には宣教師と手を組み寺社の破壊活動をする大名もおり、徳川家康死後には貿易による利益よりもキリスト教徒が起こす破壊活動が問題視され始めます。岡本大八事件が起こったこと自体、江戸幕府がキリスト教に寛容だったからと考えた幕府は、キリスト教弾圧に活発になりました。

理由3:江戸幕府による貿易統制

貿易統制することで幕府の利益向上にも繋がった

江戸幕府が鎖国を踏み切った理由の1つに貿易統制をしたかったことがあげられます。貿易できる場所を制限することで、貿易の管理がしやすくなり、資源の枯渇を防げました。

実際、日本は貨幣としても使用する金属を輸出していた国であったため、数々の貿易で金属が減少する事態に陥りました。そのため、貨幣改鋳で貨幣における金属の含有量の削減、正徳5年(1715)に出した海舶互市新例で金属の貿易量を減らしました。

鎖国が日本に与えた3つの影響

元禄文化が形成された

元禄文化を代表する作品出典:Wikipedia

鎖国により、日本独自の文化である元禄文化が花開きました。鎖国の影響で外国船の来航が制限されたことにより、海外が持っている文化や価値観が入らなくなりました。

そのため、浮世絵や文学作品など優れた作品が多数生み出されます。このような作品は、開国後には諸外国から評価される対象となりました。

元禄文化とは?特徴から代表する人物・作品、化政文化との違いまで解説

教育水準の向上

寺子屋の様子
出典:Wikipedia

鎖国により、キリスト教が弾圧され社会が安定し、儒教も発展したことで学問を重視する文化が生まれます。そのため、医学や天文学などが大きく進歩を遂げました。

また、江戸時代中期には寺子屋が増加し、一般町民たちにも学問が普及します。そのおかげもあり、江戸時代における日本都市部の識字率は世界的にも高い水準でした。

長期的な平和の実現

江戸時代は平和な時代だった

鎖国により、幕府が藩を統治する幕藩体制が確立されたこと、外国の干渉を排除したことで約200年に及ぶ世界的に類を見ない長期的な平和を築きました。

日本の歴史の中で江戸時代のように長期的な平和を築いたのは、平安時代のみです。平安時代も遣唐使を中断し、江戸時代のような鎖国状態だったことが背景にあげられます。

鎖国貿易の相手国と貿易品

貿易相手国①:中国

中国とオランダが唯一貿易をできた出島
出典:Wikipedia

中国との貿易は、寛永11年(1634)までは場所を限定せず、自由な入港を許可していました。しかし、寛永12年(1635)以降には長崎の出島に入港を限定されました。

中国とは、生糸や絹織物・書籍などの輸入品を受け取り、日本側は銅や銀・俵物を輸出。俵物はいりこや干しアワビを俵に詰めたもので、中国料理の食材として需要が高く、田沼意次の時代には積極的に輸出されました。

  • 日本が中国から輸入した品:生糸・絹織物・書籍
  • 日本が中国に輸出した品:銅・銀・俵物

貿易相手国②:オランダ

江戸へ向かうオランダ人
出典:Wikipedia

オランダとの貿易は、慶長14年(1609)にヤックス・スペックスが平戸にオランダ商館を設立したことで始まります。寛永18年(1641)にはオランダ商館を長崎の人口島・出島に移し、中国と同様、入港場所を長崎に限定して貿易が行われました。

オランダはベンガル生糸や綿織物・砂糖などを日本へ輸出した一方、日本は銀や銅、漆器・陶磁器などをオランダへ輸出しました。陶磁器は、明朝期の中国が内乱の影響で中国からの輸出が減少すると、日本は500万個以上の伊万里焼をオランダへ輸出。漆器に関しては、マリー・アントワネットの机やナポレオン三世の棚に飾られるくらい、海外から価値を認められました。

また、入港時にオランダから、海外の情報をまとめたオランダ風説書を江戸幕府は受けとります。これにより幕府は鎖国でありながらも、ヨーロッパ諸国の情勢を把握できました。もちろん、オランダ風説書でペリーが来航することも幕府は知っていました。

  • 日本がオランダから輸入した品:ベンガル生糸・綿織物・砂糖・(オランダ風説書)
  • 日本がオランダに輸出した品:銅・銀・漆器・陶磁器

日本がオランダのみと貿易した理由

日本がキリスト教を信仰しているのに関わらず、オランダとだけ貿易をしていた理由は、オランダがプロテスタントの国ということです。プロテスタントはキリスト教の宗派の1つで、ポルトガルやスペインが信仰していたカトリックと違い、布教を伴わない貿易が可能でした。そのため、鎖国時も貿易を行えた唯一のヨーロッパ国となりました。

貿易相手国③:朝鮮

朝鮮通信使は朝貢使節だった
出典:Wikipedia

豊臣秀吉が晩年に行った文禄・慶長の役によって、朝鮮との国交は断絶状態でした。しかし、慶長14年(1609)に己酉約定を結んだことで国交が再開。朝鮮は宗氏が治める対馬藩を仲介とし貿易を行いました。

また、日本と正式な国交を結んだ唯一の国でもあったので、江戸幕府の将軍が代わるごとにお祝いに来る朝鮮通信使が来日しました。釜山には500人ほどの日本人が住んだ倭館が建設。貿易は釜山を中心に行われました。

朝鮮との貿易で日本は銀を輸出したのに対し、中国産生糸や高麗人参を輸入。高麗人参は、薬用としての価値が高く徳川家康も好んで使用していました。

  • 日本が朝鮮から輸入した品:中国産生糸・高麗人参
  • 日本が朝鮮に輸出した品:銅・銀

貿易相手国④:琉球(りゅうきゅう)王国

薩摩藩初代藩主・島津忠恒
出典:Wikipedia

琉球王国は朝貢貿易で中国との国交を保っていたことを背景に、文禄・慶長の役で関係が悪化した中国との仲立ちを要求しました。しかし、国王の尚寧王(しょうねいおう)はこの要求を拒否。

慶長14年(1609)に江戸幕府は島津忠恒に琉球王国の侵攻を命じます。この侵攻によって島津氏が治める薩摩藩の支配下になった琉球王国は、中国との朝貢貿易を継続しつつ、日本とも貿易を行いました。

また、国王の代替わり時に謝恩使、江戸幕府将軍の代替わり時に慶賀使といった感謝と祝いの使者を送る義務が課されていたので、立場が低かったことがうかがえます。琉球王国との貿易で日本は、砂糖やウコンなどを輸入し、銀や茶・俵物などを輸出しました。

  • 日本が琉球王国から輸入した品:砂糖・ウコン
  • 日本が琉球王国に輸出した品:銀・茶・俵物

貿易相手国⑤:蝦夷(えぞ)

シャクシャインの戦いにおいてアイヌ人を指揮したシャクシャイン
出典:Wikipedia

蝦夷地は北海道の昔の呼び名のことで、この地にはアイヌ人が住んでいました。アイヌ人との貿易は戦国時代より蠣崎氏が独占していました。

江戸時代になると、蠣崎氏は松前氏に改姓した上で江戸幕府の許可を得て貿易を行います。松前氏が治めていた松前藩は米を収穫できる場所が少ないこともあり、家臣たちに商場と呼ばれるアイヌ人と貿易する場所を与えて、それを財源とする商場知行制を採用しました。

その後、寛文9年(1669)に起きたアイヌ人の武装蜂起シャクシャインの戦いに勝利すると、今後のアイヌ人との貿易で主導権を握ります。この貿易では、いりこやアワビなど長崎貿易で使用する海産物が輸入され、アイヌ人には米や酒・鉄製品を輸出しました。

  • 日本が蝦夷から輸入した品:いりこ・アワビ
  • 日本が蝦夷に輸出した品:米・酒・鉄製品
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