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御成敗式目とは?内容や目的、誰が作ったのかもわかりやすく簡単に解説

御成敗式目とは、鎌倉時代に定められた日本で初めての武家法です。小学生で習う日本史の重要用語ですが、制定した3代執権北条泰時は偉大な政治家であるにもかかわらず影が薄く、御成敗式目のユニークな内容も残念ながらあまり知られていません。

室町時代に書写された御成敗式目
出典: 日本大学図書館法学部分館

しかしながら実は、御成敗式目が定められたからこそ、鎌倉時代はその後も続くことになりました。さらに、鎌倉幕府以後も続く武家政権は、御成敗式目の内容を基礎として国を治めようとしました。つまり御成敗式目は、その後の日本の歴史の根底を支えた法律なのです。

この記事では、御成敗式目に関する基本的な知識だけでなく、その内容や定められた歴史的な事情も解説しています。御成敗式目についてよく知ることで、約800年前の鎌倉時代の武士の生活の様子も垣間見ることができるはずです。

御成敗式目とは

北条泰時(1183〜1242)
出典:wikipedia

御成敗式目とは、1232(貞永1)年8月に3代執権北条泰時が定めた鎌倉幕府の基本法です。全部で51ケ条からなり、初代将軍源頼朝以来の慣習や武家社会の道徳をまとめた内容で、武家にのみ適用されました。多くの御家人に理解してもらえるように、平易な表現を用いて書かれています。この法典によって、北条氏の執権政治はより確かなものになっていくのです。

御成敗式目の名前の由来

「成敗」とは道理にあっているかどうかを裁決すること、「式」とは式条、「目」とは目録や条目の意味です。式目の内容が裁判の規範を示すものであったことから、この名前となりました。

鎌倉時代に作られた聖徳太子
出典:静岡市美術館

貞永元年に制定されたので貞永式目とも呼ばれますが、この名称は後世につけられたもので、正式名称は「御成敗式目」です。51ケ条という数は、聖徳太子が定めた憲法十七条で取り上げられた条文の数である17の倍数に由来しています。

誰が定めたのか?

源氏と北条氏の関係図
出典:鎌倉かもめ行政書士事務所

制定したのは3代執権北条泰時(やすとき)です。泰時は初代将軍源頼朝の義弟である北条義時の息子です。当時、朝廷の監視と西国の御家人統括のため、六波羅探題として弟の重時が京都にいました。泰時がその重時に宛てて、御成敗式目制定の趣旨を書いた1232年9月11日付の書簡が有名です。

御成敗式目は執権・連署(執権の補佐)・評定衆(重要な政務や裁判の評議・裁定を合議するための役職)の連名により発布されました。

藤原頼経(1218〜1256)
出典:wikipedia

当時の鎌倉幕府将軍は4代目の藤原頼経でした。頼経は源氏将軍が絶えた後、藤原家から迎えられた摂家将軍でした。頼経は遠縁ではあるものの源氏将軍と血縁関係にあり、妻は竹御所という源頼家の娘でしたが、頼経自身には政治権力はなく、実権は執権の北条泰時が握っていました。

鎌倉幕府の仕組み
出典:中学受験ナビ

北条泰時は「名執権」「北条氏中興の祖」として知られていますが、それは御成敗式目の制定や評定衆・連署の設置といった、鎌倉幕府の基本的な仕組みを整えたことが理由です。泰時の時代から執権政治も軌道に乗り始めました。

制定された背景

安定してきた鎌倉幕府政治

1219年に第3代将軍源実朝は、鶴岡八幡宮で兄頼家の息子である公暁に暗殺された。
出典:鶴岡八幡宮

御成敗式目が定められることになった背景の一つは、鎌倉幕府の政治が安定してきたことです。初代将軍源頼朝の死後、源氏将軍たちによる身内での血みどろの騙し合い、御家人同士の争い、そして後鳥羽上皇による討幕の反乱である承久の乱と、混乱を極めていた鎌倉幕府政権でしたが、3代執権北条泰時の代になり、ようやく落ち着きを見せ始めてきました。

承久の乱を描いた「承久記絵巻」
出典:sankei.com

政治体制が整ってくると、規律をはっきりさせることが求められてきます。承久の乱後は東国の御家人が西国で地頭に任じられるケースも増えました。慣習というものは地域によって差があるため、そこに整合性が持てずに争いになったり、矛盾が生じるために困惑する事態が多く発生するようになったのです。

一応、法典としては朝廷が定めた律令格式も存在はしていましたが、朝廷でさえ律令に即した政治を行なっていない状況でした。内容も難しく、律令を知る人が限られていたため、規範にはなり得なかったのです。そのため、その土地の道理に従うといった漠然とした話ではなく、判断基準を明文化する必要に迫られたのです。

飢饉により争いが増えた

大洪水も起きた天候不順により寛喜の飢饉となった。
出典:「歴史の回想」

1230年代始めに、天候不順から全国的に大凶作となり、寛喜の飢饉が起きます。「天下の人種三分の一失す」と記録にあるほどの大飢饉で、鎌倉時代最大規模と言われています。

これによって農業は大きな打撃を受けました。御家人は年貢の取り立てを厳しく行うようになるだけではなく、土地の所有権をめぐる紛争も度々起きるようになり、地頭と荘園・公領の領主や御家人同士の対立も増えました。

鎌倉幕府の訴訟・裁判機関であった問注所の旧蹟碑
出典:wikipedia

北条泰時は、こうした土地をめぐる争いが増えて社会が混乱すると、土地を中心に封建制度を築いている鎌倉幕府は土台から崩れ、危うくなるかもしれないと懸念を抱きます。そこで幕府のはっきりした判断基準を早急に明確化しようと、御成敗式目を制定するに至るのです。

御成敗式目の目的

御成敗式目は、御家人同士や御家人と荘園領主との間に起きた紛争を、公平に裁くために定められました。そして社会の混乱を落ち着かせることで、武家政権を安定させようとしました。

御成敗式目の基準

源頼朝(1147〜1199)
出典:wikipedia

御成敗式目の内容は、源頼朝以来の先例、つまり頼朝生前の政治や裁判に倣うことを基準としていました。そして武家社会の道理、慣習や道徳を文章で明記しました。

誰に適用されたのか?

中世の武士の館
出典:ADEAC

御成敗式目は守護を通じて諸国の御家人に伝えられた、幕府政治の規範となる武家法です。つまり、幕府の勢力範囲内においてのみ適用されるものであり、朝廷の支配下では律令の系統を引く公家法(荘園整理令など朝廷が定めた新制)が、荘園領主の支配下では本所法(国司の支配から独立している荘園が独自に定めている荘園領主の法律)が効力を持っていました。

中世の荘園遺跡「田染荘」
出典:kyodonews

このように、朝廷や荘園領主の規範を否定はしていませんでしたが、幕府の勢力が大きくなるに伴い、御成敗式目の適用範囲も全国的なものに拡大していきます。

御成敗式目の主な6つの内容

1.守護・地頭の職務

鎌倉幕府の守護配置図
出典:鎌倉ぶらぶら

源頼朝の生前より、守護の基本的な権限は大犯(だいぼん)三カ条と呼ばれています。守護が御家人に対して、天皇や院の御所を警備する京都大番役を勤めるよう指示する大番(おおばん)催促、謀反人の逮捕、殺害人の逮捕です。また、守護が勝手に罪人から所領を取り上げることも禁じています。

地頭の横暴を領主に訴えた阿氐河荘民の訴状
出典:和歌山県立博物館

地頭については、集めた年貢を本所(荘園の持ち主)に返さない場合は解任するという内容が書かれています。明記はされていませんが、地頭は御家人が任命され、年貢を集めて荘園領主や国衙に納入することや、土地の管理、警察権を行使して治安を維持することが仕事でした。

2.所領争論の基準

北条政子(1157〜1225)
出典:NHK

源氏三代の将軍や源頼朝の妻である北条政子(二位殿)から御家人に与えられた所領については、領地の権限を奪われることはないと明記されました。

3.知行年紀法

御家人が20年間支配した土地については、貴族や寺社など元の領主へ返す必要はありませんでした。逆に、実際に支配しないまま20年経てば、権利を示す証文は無効となりました。これを知行年紀法といいます。

4.犯罪に対する刑罰

鎌倉時代の武士の生活がわかる「男衾三郎絵巻」
出典:文化遺産オンライン

言い争いや酔った勢いで喧嘩となった時でも、相手を殺害してしまった場合は、死刑もしくは流罪となり、財産は没収されました。犯罪者の親や子供は、犯行に関わっていなければ無罪でしたが、仇討ちの場合は先祖の仇という目的が一致するため、親や子供も罪人になりました。

一遍上人絵伝
出典:ちとにとせ

他人に暴力を振るった場合、その恨みを買うことになるという理由から罪は重いと考えられるので、御家人は領地を没収されました。領地がない場合は流罪になり、御家人以外は牢に入れられました。

強盗や放火は、犯罪をなくすためにも罪人の首を刎ねることとしました。しかし謀反人については、式目には対応を定めにくいので、先例などを調べて裁判を行うようにと書かれています。

5.親の悔返し

元寇で活躍した御家人河野通有の遺領は悔返で弟に与えられた(「蒙古襲来絵詞」より)。
出典:九州大学附属図書館

御成敗式目では、一度子供に譲った所領は、親が取り戻すことを認めていました。これはつまり、子供がその所領を幕府に安堵されていたとしても、親が子供に所領を譲る気持ちを変えたいと思ったなら、幕府の安堵状を無効にし、自分の領地として取り戻すことができるというわけです。この権利は「悔返(くいかえし)」という中世の法律用語として知られています。

6.女性の相続

武家社会ではもともと、女子が親の所領を相続したり、子供が小さい場合、成人するまでの期間のみ母親が所領を相続するという慣習が一般的でした。また、女性が御家人となることも認めていました。そのため御成敗式目では、子供のいない女性が養子を迎えて所領を譲ることも規定されました。

織田信長の叔母であったおつやの方が城主を務めた岩村城
出典:ぎふの旅ガイド

戦国時代には、井伊谷城主の井伊直虎や岩村城主のおつやの方など、女性の城主も存在していましたが、これは御成敗式目に則った相続でした。御成敗式目が後の世にも法律として有効であったことを示しています。

御成敗式目が制定された後の土地支配

溜池など灌漑施設の開発のために荘内の状況を描いた和泉国日根荘絵図
出典:宮内庁

御成敗式目は制定されたものの、荘園領主と地頭の争いは激しくなっていきました。鎌倉幕府の勢力が増すにつれ、地頭たちはその権力を背景に年貢を横領したり、所領内の百姓を勝手に使ったりと、荘園領主の支配権を侵食しようとしたからです。

そこで幕府は、地頭と荘園・公領の領主との関係調整のために「下地中分(したじちゅうぶん)」と「地頭請(じとううけ)」という政策をとるようになります。

下地中分とは

伯耆国東郷荘の下地中分絵図
出典:東郷荘絵図

下地中分とは、領主と地頭とで荘園の支配権と年貢収納権を折半するというものです。「下地」とは土地そのものの意味で、土地からの収益のことは上分(じょうぶん)と呼びます。

中分には、当事者同士の示談によって成り立ち、幕府に承認をお願いする「和与(わよ)中分」と、幕府が命じて行う強制的な中分がありました。

地頭請とは

鎌倉時代の有力武士の屋敷
出典:石川県立歴史博物館

地頭請とは、領主が地頭に荘園の支配を委ねて毎年一定の年貢納入を請け負わせるものです。地頭の横暴を一定程度に食い止めようと、領主側から提案された方法でした。しかし、これによって荘園領主が荘園の状況を自ら知る努力をしないようになり、地頭の荘園支配はますます強大になっていきます。

御成敗式目による影響

派生した数多くの法律が生まれた

江戸時代に刊行された御成敗式目
出典:野田市立図書館

御成敗式目は武士の基本法として規定されたため、その後は「式目追加」という形で多くの条項を追加法として定めています。これは鎌倉時代に限ったことではなく、室町時代以降も続きました。そのため、御成敗式目の内容は鎌倉時代以降も語り継がれてきたのです。

戦国大名である朝倉家の分国法「朝倉孝景条々」
出典:福井県文書館

戦国大名は家臣団の統制や領国の支配のために分国法を定めていますが、御成敗式目を参考に、その追加する法令として出されています。そして御成敗式目は、江戸時代はもとより、現代における民法にまで影響を与えているとも言われています。

例えば民法162条には「20年間所有の意思をもって、平穏に、かつ公然と他人の物を所有した者は、その所有権を取得する。」とあります。これは御成敗式目に書かれていた知行年紀法につながるものとも考えられているのです。

武家政権である鎌倉幕府が続くことになった

初代将軍源頼朝が突然他界してのち、源氏一族の内乱や御家人同士の勢力争い、承久の乱での勝利による幕府の支配地域の拡大で、訴訟や揉め事が増えて不穏な社会情勢となっていました。鎌倉幕府というのは源頼朝というカリスマ的なリーダーがいたからこそ成立していたものであり、御家人たちは頼朝という個人との御恩と奉公という関係性の上に仕えていたのが実情だったからです。

鎌倉の守りを固めるために北条泰時が作らせた朝比奈切通し
出典:東京湾観光情報局

そんな危機的状況を北条泰時は理解した上で、北条氏が執権として支えながら鎌倉幕府を存続させるために、御成敗式目は制定されました。結果として御成敗式目により幕府としての規律が明確化したため、社会は落ち着きを取り戻し始めます。

1333年に鎌倉幕府は滅亡した(鎌倉幕府最後の合戦が行われた東勝寺跡)。
出典:文化遺産オンライン

さらに、御成敗式目はあくまでも幕府の考え方のベースであって、完璧を目指さなかったことも良かったといえます。細かな内容は式目追加として別途出すことで、その時の社会情勢に応じた対応をすることができました。北条泰時の思惑通り、御成敗式目が定められたおかげで、鎌倉幕府は武家政権として以後も政治の中心となったわけです。

似ている法律である「武家諸法度」と「公事方御定書」の違い

江戸時代に作られた「武家諸法度」と「公事方御定書」は、御成敗式目と内容に似ている部分が多いことから、混乱しがちです。しかしこの2つの法律は、定められた時代はもちろん、目的や対象も御成敗式目とは違います。

武家諸法度は、江戸幕府の大名に対する根本法典です。1615(元和1)年に2代将軍徳川秀忠が出した元和(げんな)令が最初で、将軍の代替わりごとに発せられました。3代将軍徳川家光の出した、1635(寛永12)年の寛永令と呼ばれる武家諸法度で参勤交代が定められたことからもわかるように、武家諸法度は大名統制が主な目的です。

一方、公事方御定書(くじかたおさだめがき)は、8代将軍徳川吉宗の時代である1742(寛保2)年に定められた、江戸幕府の庶民向けの成文法です。

公事方御定書
出典:eHills Club

「名裁判官」とされた大岡忠相(ただすけ)らが編纂に関わり、裁判や刑の基準を定めています。上巻は重要法令を納めた法令集、下巻は判例や取り決めなどが収められています。

武家諸法度とは?目的や内容、影響についてわかりやすく解説

御成敗式目の覚え方

御成敗式目が発布された当時、鎌倉幕府があった宇都宮辻子
出典:鎌倉トリップ

御成敗式目が定められたのは1232年です。御成敗式目は、今までの慣習を明文化した点が大きな特徴であるため、「一つの文章にした」、つまり「ひと(1)ふ(2)み(3)に(2)した御成敗式目」と覚えると良いですね。

御成敗式目に関するまとめ

御成敗式目は800年ほど前に定められた法典ですが、今読んでも、当時の鎌倉幕府が御家人のどんな所業に手を焼いていたのかが伝わってきて、とても面白いです。

悪口を言うことは争いの元となるから禁じ、ひどい悪口を言ったら流罪にするという規定があるのですが、裁判中に悪口を言ったらその場で敗訴が確定するとも書かれています。また、事件が起きたときに、事件を調べに行くことは構わないけれども、加勢してはならないという規定もあります。きっと血の気の多い御家人は、暴力沙汰を見たらつい自分もその騒ぎに加わってしまったのでしょう。

また、女性に対する規定が多いことにも驚きます。不倫や女性の拉致を禁じ、罪を犯した場合の罰則も定められています。鎌倉時代の裁判では、御家人だからといって忖度される判決は出ませんでしたが、性別についても公平性を大切にしていることが伺えます。御成敗式目を通して、意外と知らない鎌倉時代の魅力を感じてもらえたら嬉しいです。

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