御成敗式目が制定された後の土地支配
御成敗式目は制定されたものの、荘園領主と地頭の争いは激しくなっていきました。鎌倉幕府の勢力が増すにつれ、地頭たちはその権力を背景に年貢を横領したり、所領内の百姓を勝手に使ったりと、荘園領主の支配権を侵食しようとしたからです。
そこで幕府は、地頭と荘園・公領の領主との関係調整のために「下地中分(したじちゅうぶん)」と「地頭請(じとううけ)」という政策をとるようになります。
下地中分とは
下地中分とは、領主と地頭とで荘園の支配権と年貢収納権を折半するというものです。「下地」とは土地そのものの意味で、土地からの収益のことは上分(じょうぶん)と呼びます。
中分には、当事者同士の示談によって成り立ち、幕府に承認をお願いする「和与(わよ)中分」と、幕府が命じて行う強制的な中分がありました。
地頭請とは
地頭請とは、領主が地頭に荘園の支配を委ねて毎年一定の年貢納入を請け負わせるものです。地頭の横暴を一定程度に食い止めようと、領主側から提案された方法でした。しかし、これによって荘園領主が荘園の状況を自ら知る努力をしないようになり、地頭の荘園支配はますます強大になっていきます。
御成敗式目による影響
派生した数多くの法律が生まれた
御成敗式目は武士の基本法として規定されたため、その後は「式目追加」という形で多くの条項を追加法として定めています。これは鎌倉時代に限ったことではなく、室町時代以降も続きました。そのため、御成敗式目の内容は鎌倉時代以降も語り継がれてきたのです。
戦国大名は家臣団の統制や領国の支配のために分国法を定めていますが、御成敗式目を参考に、その追加する法令として出されています。そして御成敗式目は、江戸時代はもとより、現代における民法にまで影響を与えているとも言われています。
例えば民法162条には「20年間所有の意思をもって、平穏に、かつ公然と他人の物を所有した者は、その所有権を取得する。」とあります。これは御成敗式目に書かれていた知行年紀法につながるものとも考えられているのです。
武家政権である鎌倉幕府が続くことになった
初代将軍源頼朝が突然他界してのち、源氏一族の内乱や御家人同士の勢力争い、承久の乱での勝利による幕府の支配地域の拡大で、訴訟や揉め事が増えて不穏な社会情勢となっていました。鎌倉幕府というのは源頼朝というカリスマ的なリーダーがいたからこそ成立していたものであり、御家人たちは頼朝という個人との御恩と奉公という関係性の上に仕えていたのが実情だったからです。
そんな危機的状況を北条泰時は理解した上で、北条氏が執権として支えながら鎌倉幕府を存続させるために、御成敗式目は制定されました。結果として御成敗式目により幕府としての規律が明確化したため、社会は落ち着きを取り戻し始めます。
さらに、御成敗式目はあくまでも幕府の考え方のベースであって、完璧を目指さなかったことも良かったといえます。細かな内容は式目追加として別途出すことで、その時の社会情勢に応じた対応をすることができました。北条泰時の思惑通り、御成敗式目が定められたおかげで、鎌倉幕府は武家政権として以後も政治の中心となったわけです。
似ている法律である「武家諸法度」と「公事方御定書」の違い
江戸時代に作られた「武家諸法度」と「公事方御定書」は、御成敗式目と内容に似ている部分が多いことから、混乱しがちです。しかしこの2つの法律は、定められた時代はもちろん、目的や対象も御成敗式目とは違います。
武家諸法度は、江戸幕府の大名に対する根本法典です。1615(元和1)年に2代将軍徳川秀忠が出した元和(げんな)令が最初で、将軍の代替わりごとに発せられました。3代将軍徳川家光の出した、1635(寛永12)年の寛永令と呼ばれる武家諸法度で参勤交代が定められたことからもわかるように、武家諸法度は大名統制が主な目的です。
一方、公事方御定書(くじかたおさだめがき)は、8代将軍徳川吉宗の時代である1742(寛保2)年に定められた、江戸幕府の庶民向けの成文法です。
「名裁判官」とされた大岡忠相(ただすけ)らが編纂に関わり、裁判や刑の基準を定めています。上巻は重要法令を納めた法令集、下巻は判例や取り決めなどが収められています。
御成敗式目の覚え方
御成敗式目が定められたのは1232年です。御成敗式目は、今までの慣習を明文化した点が大きな特徴であるため、「一つの文章にした」、つまり「ひと(1)ふ(2)み(3)に(2)した御成敗式目」と覚えると良いですね。
御成敗式目に関するまとめ
御成敗式目は800年ほど前に定められた法典ですが、今読んでも、当時の鎌倉幕府が御家人のどんな所業に手を焼いていたのかが伝わってきて、とても面白いです。
悪口を言うことは争いの元となるから禁じ、ひどい悪口を言ったら流罪にするという規定があるのですが、裁判中に悪口を言ったらその場で敗訴が確定するとも書かれています。また、事件が起きたときに、事件を調べに行くことは構わないけれども、加勢してはならないという規定もあります。きっと血の気の多い御家人は、暴力沙汰を見たらつい自分もその騒ぎに加わってしまったのでしょう。
また、女性に対する規定が多いことにも驚きます。不倫や女性の拉致を禁じ、罪を犯した場合の罰則も定められています。鎌倉時代の裁判では、御家人だからといって忖度される判決は出ませんでしたが、性別についても公平性を大切にしていることが伺えます。御成敗式目を通して、意外と知らない鎌倉時代の魅力を感じてもらえたら嬉しいです。