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ミュンヘン会談/ミュンヘン協定とは?内容や影響、宥和政策の理由を簡単に解説

「ミュンヘン会談って何?」
「誰が何について話し合って、どうなったの?」
「宥和政策って言われるけどその理由は??」

このような疑問をお持ちの方もいると思います。ミュンヘン会談/ミュンヘン協定とは、チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツが要求したことで発生した問題を解決するため、1938年ドイツのミュンヘンで開かれた会談とそこで合意した協定のことです。

そこで今回は、ミュンヘン会談/ミュンヘン協定について開催された経緯や参加国、ミュンヘン会談の結果とその後どのような影響を与えたのか、また宥和政策と言われる理由についてわかりやすく解説します。

ミュンヘン会談/ミュンヘン協定とは

ミュンヘン会談における一幕
出典:Wikipedia
会談名ミュンヘン会談
開催年月日1938年9月29日から30日
開催場所ドイツのミュンヘン
参加国イギリス
フランス
ドイツ
イタリア
会談内容チェコスロバキアの
ズデーテン地方の
領土問題について
結果ズデーテン地方はドイツに
割譲されることが決定

ミュンヘン会談/ミュンヘン協定とは、ドイツがチェコスロバキアのズデーテン地方をドイツ系住民が多く住んでいることを理由に、割譲を求めたことがきっかけとなり、開催された会談とそこで決まった協定のことです。ヒトラー率いるナチス・ドイツは第一次世界大戦で失った領土を取り戻すことと、ドイツ民族を養うため、領土を広げる必要があると考えていました。

当時、チェコスロバキアはフランスとソ連と同盟を結んでいたため、ドイツとチェコスロバキアが戦争になった場合、第二次世界大戦が始まるきっかけとなりかねませんでした。そのため、イギリスとフランスは事態を収集するため奔走し、ミュンヘン会談が開催されることになります。

イギリスとフランスが戦争回避を優先した結果、ドイツの要求はほぼすべて通り、ズデーテン地方はドイツに割譲されることになりました。これにより、ヒトラーを勢いづかせ、後に第二次世界大戦の引き金を引くことになります。

ミュンヘン会談が開催された背景・経緯

ドイツの領土要求がきっかけ

黄色い地域がドイツの要求したズデーテン地方
出典:Wikipedia

先述の通り、ヒトラーは第一次世界大戦で失った領土やドイツ民族を養えるように領土の拡張を目標としていました。そこで白羽の矢が立ったのが、オーストリアとチェコスロバキアのズデーテン地方です。

オーストリアは1938年3月にドイツに併合されたため、ヒトラーは次の目標としてズデーテン地方をドイツに渡すようにチェコスロバキア政府に要求します。ズデーテン地方を要求した理由は、ズデーテン地方にドイツ系住民が多いことと、チェコスロバキアでも有数の工業地帯で軍需工場が多く立ち並んでいたためでした。

また、ズデーテン地方にはドイツからの侵攻を阻む要塞も構築されていたため、チェコスロバキアを攻める際に障害となる要塞を無力化させるためにズデーテン地方を要求します。当然のことですが、このような要求をチェコスロバキア政府が受け入れるわけがなく、二国間に緊張が走ります。

そして、チェコスロバキアへの侵攻をヒトラーが決断し、戦争準備をドイツが始めたことで世界中が警戒し始めます。

一向に進まない交渉

問題解決に動いたフランス首相のエドゥアール・ダラディエ
出典:Wikipedia

この状態を危険視したフランスの首相エドゥアール・ダラディエはイギリスの首相ネヴィル・チェンバレンにヒトラーとの首脳会談を提案します。チェンバレンは戦争を回避するため、ドイツのベルヒテスガーデンに赴き、英独首脳会談を実施しました。

この会談で、次回の首脳会談まで一連の問題について武力行使をしないという約束を取り付けたチェンバレンは一時帰国し、関係者と協議することになりました。そしてチェンバレンはチェコスロバキアに譲歩させ、戦争を避ける意志を固めます。

これにフランス首相のダラディエも同意し、チェコスロバキア政府に「譲歩しなければ、今後チェコスロバキアに関心を持たない」という猛烈な圧力をかけ、ズデーテン地方の割譲を認めさせます。

この成果を手にヒトラーとの会談が行われましたが、上手くいきませんでした。ヒトラーはズデーテン地方の即時占領を訴えるとともに、ポーランドやハンガリー王国など他の国もチェコスロバキアと領土問題を抱えていることを理由にチェンバレンの仲裁を拒否します。

そのため、交渉は暗礁に乗り上げ、ミュンヘン会談に至ります。

ミュンヘン会談の参加国と参加者

ミュンヘン会談に参加した英仏独伊の首脳
出典:Wikipedia

ミュンヘン会談の参加者は以下の通りです。

  • ネヴィル・チェンバレン(イギリス)
  • エドゥアール・ダラディエ(フランス)
  • アドルフ・ヒトラー(ドイツ)
  • ベニート・ムッソリーニ(イタリア)

イタリアの首相ムッソリーニは仲介役として、ミュンヘン会談に参加しました。これら4か国により会談は開催されましたが、驚くことに当事者であるチェコスロバキアの代表者が会談に参加できませんでした。

チェコスロバキア代表者は会談の際、隣室で待機させられ、その際、ダラディエに「すべては英国人しだいだ。我々は彼らに従う他ない」という言葉を残したといわれています。このことから、当時列強と呼ばれた国々とそれ以外の国との力関係が明確に現れているのではないかと思います。

また、チェコスロバキアの同盟国であるソ連もミュンヘン会談に呼ばれず、このことが後に新たな火種を作る要因となりました。

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宥和政策を採った理由

ミュンヘン会談の結果はドイツのほぼ全ての要求を呑むという宥和政策を採りました。その理由は大きく分けて2つあり、戦争を回避したいという思いとソ連の脅威が背景にあります。

ここでは、それについてより詳しく紹介します。

戦争を回避したかった

第一次世界大戦で散った身元不明の兵士13万人の遺骨があるドゥオモン納骨堂
出典:Wikipedia

これほどまでに、イギリスやフランスは戦争を避けたいと考えていた理由は3つありました。1つは第一次世界大戦の終結から20年しか経過しておらず、国民の大勢が戦争を避けたいと思っていたことです。

2つ目はイギリスもフランスも十分な戦争準備ができておらず、このまま開戦するのは不本意であったことです。3つ目に自国ならともかく、チェコスロバキアという他国を守るため、第二次世界大戦の引き金を引くことに積極的な人はいなかったためでした。

これらの理由から何としてでも、戦争を回避するために、ドイツの要求をほぼすべて承諾するという宥和政策をミュンヘン会談で合意することになります。

英仏がドイツよりソ連を脅威に感じていた

ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリン
出典:Wikipedia

イギリスとフランスはヒトラー率いるドイツよりもソ連に脅威を感じていました。その背景には、この時代共産主義という思想が徐々に広がりを見せ、共産主義圏が拡大していたことが挙げられます。

イギリスやフランスは、資本主義を否定するソ連の共産主義という思想が根付き、自国も共産主義に染まることを恐れていたため、ソ連を脅威に感じていました。そのため、ミュンヘン会談でドイツに大きく譲歩し、ズデーテン地方を割譲することになっても、そのドイツの次の標的をソ連に向けさせ、牽制する思惑がありました。

チェコスロバキアはソ連と同盟を結んでいたため、ドイツのズデーテン地方の要求はソ連がドイツに悪感情を持つきっかけになるだろうと予想していましたが、実際は正反対の結果を招くことになります。

ミュンヘン会談の結果と影響

ほぼ全面的にドイツの要求が通る

ズデーテン地方の要求をしていたアドルフ・ヒトラー
出典:Wikipedia

ミュンヘン会談の結果はほぼ全面的にドイツの要求が認められ、ミュンヘン協定が結ばれました。これにより、チェコスロバキアはミュンヘン会談が1938年9月29日に開催されたにもかかわらず、同年10月1日からドイツにズデーテン地方を割譲しなければならなくなります。

ズデーテン地方を失うことは、同時にドイツとの国境にある要塞が意味をなさなくなり、さらには、多数の軍需工場を擁する工業地帯と多額の資産を失うことになりました。

ミュンヘン会談に参加できず、隣室で待機していたチェコスロバキアの代表者は会談の結果を聞かされた際に、あまりのことに涙を流したと言われています。その一方で、会談を終えたチェンバレンは大きくあくびを2~3回していたと言われています。

一時的な戦争回避

ロンドンの飛行場で歓迎されるチェンバレン
出典:Wikipedia

ミュンヘン会談の結果、ドイツとチェコスロバキアの戦争を回避できたことで、それに付随して勃発しかねなかった世界大戦も未然に防ぐことができました。この成果にミュンヘン会談に参加したチェンバレンやダラディエなどは自国へ帰国した際、熱烈な歓迎を受けることになります。

戦争を回避したことに歓喜したイギリス国民は、チェンバレンがロンドンの飛行場に降り立つと、彼を歓迎に来た人々で空港が埋め尽くされるほどいました。また、パリでは町の一つに「チェンバレン」、街路に「ダラディエ」と名付けるなど、当時いかにこの結果が国民に歓迎されていたのかがわかります。

しかし、ご存知かもしれませんが、この戦争の回避は一時的なもので、かりそめの平和でしかありませんでした。

ドイツとソ連が急接近する

独ソ不可侵を揶揄する風刺画
出典:Wikipedia

ミュンヘン会談の結果は思わぬところに思いがけない影響を及ぼしました。それはドイツとソ連の急接近です。

ヒトラーは著書「我が闘争」の中で、「東方生存圏」と呼ばれる東へ領土を拡大する必要性を訴えていました。さらに、ナチス・ドイツは反共産主義を掲げていたため、ドイツとソ連が手を組むなど誰も考えていませんでした。

そのため、当初ドイツを警戒していたソ連は、イギリスやフランスとの協力を模索します。しかし、チェコスロバキアの同盟国であるにもかかわらず、ミュンヘン会談に呼ばれなかったソ連は、イギリスやフランスがドイツのソ連侵攻を容認しているのではないかと強い不信感を持つことになります。

その後、ソ連は水面下でドイツと交渉を始め、1939年8月独ソ不可侵条約が締結されました。この事実には世界中に衝撃が走ります。

独ソ不可侵条約とは?なぜ結ばれた?目的や理由、影響をわかりやすく解説

日本の平沼騏一郎首相はこの件を受けて、「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢生じた」と言い残し、就任からわずか8か月で内閣総辞職するほどでした。

第二次世界大戦を招く

ポーランド侵攻時のドイツ軍
出典:Wikipedia

イギリスやフランスが譲歩してナチス・ドイツの要求を認めたため、ドイツの増長を招き、後に第二次世界大戦のきっかけとなります。この会談でズデーテン地方を得たヒトラーは今後も強引な領土拡大を訴えても、イギリスやフランスは手を出してこないと確信します。

そして、ソ連と不可侵条約を締結した際に、秘密裏に結んだドイツとソ連でのポーランドの分割にも合意がなされたため、後顧の憂いを断ったドイツはポーランドへ宣戦布告しました。しかし、ヒトラーの予想に反し、イギリスとフランスもさすがにこの事態を見過ごすわけにはいかず、ドイツへ宣戦布告。

これにより、束の間の平和な時代は終わり、第二次世界大戦の火蓋が切って落とされました。

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ミュンヘン会談に関するまとめ

今回はミュンヘン会談についてまとめました。ミュンヘン会談とはズデーテン地方をめぐるドイツとチェコスロバキアの問題を解決するために開かれた会談です。戦争の回避のため、小国が犠牲を強いられるという結果に終わり、当時の列強と呼ばれた国々とそれ以外の国の力関係を明確に物語っている会談だと思います。

歴史に「もし」を言っても仕方ありませんが、もしこの会談でドイツに対して宥和政策を採らなければ、第二次世界大戦は起きず、また違った歴史があったかもしれませんね。

この記事を読んでくださった皆様がミュンヘン会談について、理解を深めることができたなら幸いです。

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