「ムッソリーニってどんな人?」
「独裁者と聞いたけどどんな政治をしたのだろう?」
ベニート・ムッソリーニは20世紀のイタリアの政治家です。「ファシズム」という新たな政治思想を構築し、国家ファシスト党による一党独裁制を築きました。一市民から国家の「ドゥーチェ(統領)」となりますが、第二次世界大戦でのイタリアの敗戦が濃厚になると失脚し処刑されています。
ドイツのヒトラーと並ぶ「独裁者」の代名詞であり、悪の権化のような認識のムッソリーニという人物ですが、失敗はしているものの精力的に政治に取り組んできた人物でもありました。もちろん善人というわけではありませんが、色々な顔を持っていた政治家だったのです。
「悪の代名詞」となっているムッソリーニがどの様な人物であったのか?この記事では彼が与えた影響なども踏まえつつ迫っていきます。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
ムッソリーニとはどんな人物か
名前 | ベニート・アミルカレ ・アンドレーア・ムッソリーニ |
---|---|
誕生日 | 1883年7月29日 |
没日 | 1945年4月28日 |
生地 | イタリア王国エミーリア =ロマーニャ州フォルリ =チェジェーナ県プレダッピオ市 ドヴィア地区 |
没地 | イタリア社会共和国 ジュリーノ・デイ・メッゼグラ |
配偶者 | イーダ・ダルセル、 ラケーレ・グイデイ |
埋葬場所 | イタリア国・プレダッピオ市 |
政党 | 国家ファシスト党 |
役職 | イタリア国主席宰相及び国務大臣 |
ムッソリーニの生涯をハイライト
ムッソリーニの生涯を簡単にダイジェストします。
- 1883年:イタリア王国のプレダッピオ市で誕生する
- 1901年:フォルリンポーポリ師範学校を首席で卒業する、その後教師となるもすぐに退職しスイスを放浪生活する
- 1908年:オネーリアの寄宿学校でフランス語教師となり、政治活動でも地方機関紙の編集長となる
- 1912年:社会党最大の日刊紙「アヴァンティ」の編集長となる
- 1914年:第一次世界大戦において社会党の路線を見限って、アヴァンティの編集長を辞任、党からも除名処分を受ける
- 1915年:第一次世界大戦に従軍し活躍
- 1919年:新たな政党「イタリアンファッシ」を設立する
- 1922年:「ローマ進軍」を行い政権を獲得する
- 1924年:反政府運動が起こるが鎮圧に成功し「独裁宣言」を行う
- 1935年:第二次エチオピア戦争を起こす
- 1939年:第二次世界大戦が起こる
- 1940年:日独伊三国同盟を結ぶ
- 1943年:独裁権を返上し幽閉されるがドイツに救出される
- 1945年:ドイツ支援により建国したイタリア社会共和国の指導者となるが、再度失脚し処刑される
イタリア王国の首相となるまでの経緯
1921年ムッソリーニはイタリア王国の首相となり、1921年から1943年までの約22年間政権を握り続けました。政権を取るまでには紆余曲折がありましたが、最終的に「ドゥーチェ(統領)」にまでなったのです。
イタリア社会党に入党したが除名される
ムッソリーニはイタリアで左翼的な思想の「イタリア社会党」を支持していました。きっかけは父のアレッサンドロが、熱心な社会主義者であったことから、父からの強い影響で「社会主義」と「愛国主義的な共和主義」を支持するようになったのです。そして「政治の目標は社会正義の実現である」を最後まで理想にしたといわれています。
ムッソリーニは模範学校時代に優等生だったため、学校代表として市民集会で演説を行っています。その時に本来予定になかった「イタリア統一の大義と王国政府を非難する」政治演説を行い、大喝采を受けたといいます。このことで「イタリア社会党」の機関紙にムッソリーニの名前が載るようになり、イタリア社会党の集会によばれるようになっていったといいます。
そしてイタリア社会党の機関紙編集となりますが、1914年に公然と「参戦論」を唱え始めます。そのため社会党から除名されてしまいました。除名後はミラノで新しい運動組織「戦闘ファッシ」を結成します。
その主張は、上院を廃止して労働者による立法権のある評議会を設立すること、戦争利益を没収して農民に土地分配するという労働者・農民に寄りそうものでした。しかし、1919年の総選挙では国民の支持を得られず敗退しています。
ファシスト党を設立し政権を奪取する
選挙に敗退後もムッソリーニは活動を続け、1921年に「全国ファシスト党」を結成し最高指導者となりました。1922年には黒シャツを着たファシスト党員4万人が「ローマ進軍」を決行し、中枢を占拠しています。
ムッソリーニは運動に参加していませんでしたが、国王がファシスト党を統制できるのはムッソリーニしかいないと判断しローマに召喚しています。そして組閣を命じられ、政権奪取に成功したのです。この時ムッソリーニは39歳で、イタリア史上最年少の首相となりました。
知的で優雅だったムッソリーニの演説手腕
ムッソリーニは演説を得意としました。演説は知的で優雅でもあり、わかりやすかったといいます。ドイツの独裁者ヒットラーが、感情が高ぶると激烈な弁を振るうのとは対称的に、さわやかな演説といわれました。
また語学に堪能であり、母国語のイタリア語だけでなく、英語・フランス語・ドイツ語の4ヶ国語を自在に話したといいます。これらの語学力はムッソリーニの強みであり、ドイツに訪問時は流暢なドイツ語で演説を行ったという逸話も残っています。