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ムッソリーニとはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や死因も紹介】

「ムッソリーニってどんな人?」
「独裁者と聞いたけどどんな政治をしたのだろう?」

ベニート・ムッソリーニは20世紀のイタリアの政治家です。「ファシズム」という新たな政治思想を構築し、国家ファシスト党による一党独裁制を築きました。一市民から国家の「ドゥーチェ(統領)」となりますが、第二次世界大戦でのイタリアの敗戦が濃厚になると失脚し処刑されています。

ベニート・ムッソリーニ

ドイツのヒトラーと並ぶ「独裁者」の代名詞であり、悪の権化のような認識のムッソリーニという人物ですが、失敗はしているものの精力的に政治に取り組んできた人物でもありました。もちろん善人というわけではありませんが、色々な顔を持っていた政治家だったのです。

「悪の代名詞」となっているムッソリーニがどの様な人物であったのか?この記事では彼が与えた影響なども踏まえつつ迫っていきます。

ムッソリーニとはどんな人物か

名前ベニート・アミルカレ
・アンドレーア・ムッソリーニ
誕生日1883年7月29日
没日1945年4月28日
生地イタリア王国エミーリア
=ロマーニャ州フォルリ
=チェジェーナ県プレダッピオ市
ドヴィア地区
没地イタリア社会共和国
ジュリーノ・デイ・メッゼグラ
配偶者イーダ・ダルセル、
ラケーレ・グイデイ
埋葬場所イタリア国・プレダッピオ市
政党国家ファシスト党
役職イタリア国主席宰相及び国務大臣

ムッソリーニの生涯をハイライト

ムッソリーニは波乱の人生を送っている

ムッソリーニの生涯を簡単にダイジェストします。

  • 1883年:イタリア王国のプレダッピオ市で誕生する
  • 1901年:フォルリンポーポリ師範学校を首席で卒業する、その後教師となるもすぐに退職しスイスを放浪生活する
  • 1908年:オネーリアの寄宿学校でフランス語教師となり、政治活動でも地方機関紙の編集長となる
  • 1912年:社会党最大の日刊紙「アヴァンティ」の編集長となる
  • 1914年:第一次世界大戦において社会党の路線を見限って、アヴァンティの編集長を辞任、党からも除名処分を受ける
  • 1915年:第一次世界大戦に従軍し活躍
  • 1919年:新たな政党「イタリアンファッシ」を設立する
  • 1922年:「ローマ進軍」を行い政権を獲得する
  • 1924年:反政府運動が起こるが鎮圧に成功し「独裁宣言」を行う
  • 1935年:第二次エチオピア戦争を起こす
  • 1939年:第二次世界大戦が起こる
  • 1940年:日独伊三国同盟を結ぶ
  • 1943年:独裁権を返上し幽閉されるがドイツに救出される
  • 1945年:ドイツ支援により建国したイタリア社会共和国の指導者となるが、再度失脚し処刑される

イタリア王国の首相となるまでの経緯

ムッソリーニを迎える党員たち

1921年ムッソリーニはイタリア王国の首相となり、1921年から1943年までの約22年間政権を握り続けました。政権を取るまでには紆余曲折がありましたが、最終的に「ドゥーチェ(統領)」にまでなったのです。

イタリア社会党に入党したが除名される

イタリア社会党の党章、労働者層に支持を得ていた

ムッソリーニはイタリアで左翼的な思想の「イタリア社会党」を支持していました。きっかけは父のアレッサンドロが、熱心な社会主義者であったことから、父からの強い影響で「社会主義」と「愛国主義的な共和主義」を支持するようになったのです。そして「政治の目標は社会正義の実現である」を最後まで理想にしたといわれています。

学生の頃から演説能力に長けていたという

ムッソリーニは模範学校時代に優等生だったため、学校代表として市民集会で演説を行っています。その時に本来予定になかった「イタリア統一の大義と王国政府を非難する」政治演説を行い、大喝采を受けたといいます。このことで「イタリア社会党」の機関紙にムッソリーニの名前が載るようになり、イタリア社会党の集会によばれるようになっていったといいます。

そしてイタリア社会党の機関紙編集となりますが、1914年に公然と「参戦論」を唱え始めます。そのため社会党から除名されてしまいました。除名後はミラノで新しい運動組織「戦闘ファッシ」を結成します。

イタリア戦闘ファッシのシンボルマーク

その主張は、上院を廃止して労働者による立法権のある評議会を設立すること、戦争利益を没収して農民に土地分配するという労働者・農民に寄りそうものでした。しかし、1919年の総選挙では国民の支持を得られず敗退しています。

ファシスト党を設立し政権を奪取する

進軍するファシスト党員たち

選挙に敗退後もムッソリーニは活動を続け、1921年に「全国ファシスト党」を結成し最高指導者となりました。1922年には黒シャツを着たファシスト党員4万人が「ローマ進軍」を決行し、中枢を占拠しています。

ムッソリーニは運動に参加していませんでしたが、国王がファシスト党を統制できるのはムッソリーニしかいないと判断しローマに召喚しています。そして組閣を命じられ、政権奪取に成功したのです。この時ムッソリーニは39歳で、イタリア史上最年少の首相となりました。

知的で優雅だったムッソリーニの演説手腕

ドイツ語で演説をしたという

ムッソリーニは演説を得意としました。演説は知的で優雅でもあり、わかりやすかったといいます。ドイツの独裁者ヒットラーが、感情が高ぶると激烈な弁を振るうのとは対称的に、さわやかな演説といわれました。

また語学に堪能であり、母国語のイタリア語だけでなく、英語・フランス語・ドイツ語の4ヶ国語を自在に話したといいます。これらの語学力はムッソリーニの強みであり、ドイツに訪問時は流暢なドイツ語で演説を行ったという逸話も残っています。

実は教員をしていた

教員をしたり放浪生活をしたりしていた

ムッソリーニは政治活動も行いつつ、教職についていました。当初は社会党の町長が選出されているグァルティエリという田舎町で教鞭を振るっていました。しかしすぐに職を辞し、スイスに移住しています。この時に、ドイツ語やフランス語を習得しました。

そして語学力を活かして色々な文献を読み漁り、スイスでもイタリア語圏の労働運動に参加するようになっていきます。しかし政治活動によりスイス政府からマークされる存在となり、国外退去させられてしまいます。

ジェノヴァの町、この近郊の学校で教師をしていた

イタリアに戻った後は、放浪生活で得た語学を活かしてフランス語の教員資格も取得しています。そしてジェノヴァ近郊のオネーリアという町で再び教職をし、フランス語と歴史・国語・地理を担当していたそうです。

スポーツも勉強も万能だったムッソリーニ

活発で目立ち成績も優秀な子供だったという

子供の頃のムッソリーニは喧嘩っ早い性格で、喧嘩も強いので村のリーダー的な存在だったといいます。しかし性格は寡黙で、群れることを嫌い一人でいることが多かったそうです。成績も非常に優秀で、寄宿学校を優秀な成績で卒業し、師範学校は首席で卒業しています。非常に読書家で、哲学・政治学・歴史学の本を中心に学校の鐘楼に登って読んでいたそうです。

スポーツも得意で朝起きたら体操して乗馬するのが日課だったといいます。性格は粗野で行動的だった反面、繊細な神経で人を信用せず、心を許す友人を作らなかったといいます。非常な読書家であり、近代ドイツ文学に傾倒していたそうです。また、芸術に対しても造詣が深く、多くの美術品を愛好していたと伝えられています。

死因は銃殺による処刑

吊るされるムッソリーニ達の遺体(左から二番目がムッソリーニ、三番目がぺタッチ)

ムッソリーニは共産主義を掲げるパルチザンによって銃殺されました。第二次世界大戦にドイツ・日本と同盟を組み参戦しますが、敗戦が濃厚になると失脚し、イタリア国内もパルチザンによるイタリア解放運動が活発になっていました。

1945年にスイスに逃亡しようとしますが、パルチザンに捕えられ正式な裁判を経ずに愛人のクララ・ぺタッチと共に銃殺されました。享年61歳でした。処刑後はミラノに遺体は搬送され、ミラノ市民に遺体を晒された後に、愛人と共に遺体は逆さづりにさりました。

ムッソリーニの死因と最後の様子を解説!処刑された理由や経緯も紹介

ムッソリーニの孫も政治家だった

ムッソリーニの孫で政治家のアレッサンドラ・ムッソリーニ

ムッソリーニの孫にあたるアレッサンドラ・ムッソリーニはネオ・ファシストを掲げる政治家でした。イタリア社会運動(社会ファシスト党の後任政党)から下院議員となり、「左翼」的な政治家として知られました。現在は政界を引退していますが、27年間議員を務めています。

ムッソリーニの子孫が活躍する背景には、イタリアではムッソリーニは独裁政治を行い戦争敗戦の責任で処刑されたものの、ナチスのような積極的な大量虐殺を行わなかったために、ドイツ程の禁忌的な存在ではないことが挙げられます。現在もムッソリーニの墓は、墓参りの人が絶えないそうです。

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