宥和政策を採った理由
ミュンヘン会談の結果はドイツのほぼ全ての要求を呑むという宥和政策を採りました。その理由は大きく分けて2つあり、戦争を回避したいという思いとソ連の脅威が背景にあります。
ここでは、それについてより詳しく紹介します。
戦争を回避したかった
これほどまでに、イギリスやフランスは戦争を避けたいと考えていた理由は3つありました。1つは第一次世界大戦の終結から20年しか経過しておらず、国民の大勢が戦争を避けたいと思っていたことです。
2つ目はイギリスもフランスも十分な戦争準備ができておらず、このまま開戦するのは不本意であったことです。3つ目に自国ならともかく、チェコスロバキアという他国を守るため、第二次世界大戦の引き金を引くことに積極的な人はいなかったためでした。
これらの理由から何としてでも、戦争を回避するために、ドイツの要求をほぼすべて承諾するという宥和政策をミュンヘン会談で合意することになります。
英仏がドイツよりソ連を脅威に感じていた
イギリスとフランスはヒトラー率いるドイツよりもソ連に脅威を感じていました。その背景には、この時代共産主義という思想が徐々に広がりを見せ、共産主義圏が拡大していたことが挙げられます。
イギリスやフランスは、資本主義を否定するソ連の共産主義という思想が根付き、自国も共産主義に染まることを恐れていたため、ソ連を脅威に感じていました。そのため、ミュンヘン会談でドイツに大きく譲歩し、ズデーテン地方を割譲することになっても、そのドイツの次の標的をソ連に向けさせ、牽制する思惑がありました。
チェコスロバキアはソ連と同盟を結んでいたため、ドイツのズデーテン地方の要求はソ連がドイツに悪感情を持つきっかけになるだろうと予想していましたが、実際は正反対の結果を招くことになります。
ミュンヘン会談の結果と影響
ほぼ全面的にドイツの要求が通る
ミュンヘン会談の結果はほぼ全面的にドイツの要求が認められ、ミュンヘン協定が結ばれました。これにより、チェコスロバキアはミュンヘン会談が1938年9月29日に開催されたにもかかわらず、同年10月1日からドイツにズデーテン地方を割譲しなければならなくなります。
ズデーテン地方を失うことは、同時にドイツとの国境にある要塞が意味をなさなくなり、さらには、多数の軍需工場を擁する工業地帯と多額の資産を失うことになりました。
ミュンヘン会談に参加できず、隣室で待機していたチェコスロバキアの代表者は会談の結果を聞かされた際に、あまりのことに涙を流したと言われています。その一方で、会談を終えたチェンバレンは大きくあくびを2~3回していたと言われています。
一時的な戦争回避
ミュンヘン会談の結果、ドイツとチェコスロバキアの戦争を回避できたことで、それに付随して勃発しかねなかった世界大戦も未然に防ぐことができました。この成果にミュンヘン会談に参加したチェンバレンやダラディエなどは自国へ帰国した際、熱烈な歓迎を受けることになります。
戦争を回避したことに歓喜したイギリス国民は、チェンバレンがロンドンの飛行場に降り立つと、彼を歓迎に来た人々で空港が埋め尽くされるほどいました。また、パリでは町の一つに「チェンバレン」、街路に「ダラディエ」と名付けるなど、当時いかにこの結果が国民に歓迎されていたのかがわかります。
しかし、ご存知かもしれませんが、この戦争の回避は一時的なもので、かりそめの平和でしかありませんでした。
ドイツとソ連が急接近する
ミュンヘン会談の結果は思わぬところに思いがけない影響を及ぼしました。それはドイツとソ連の急接近です。
ヒトラーは著書「我が闘争」の中で、「東方生存圏」と呼ばれる東へ領土を拡大する必要性を訴えていました。さらに、ナチス・ドイツは反共産主義を掲げていたため、ドイツとソ連が手を組むなど誰も考えていませんでした。
そのため、当初ドイツを警戒していたソ連は、イギリスやフランスとの協力を模索します。しかし、チェコスロバキアの同盟国であるにもかかわらず、ミュンヘン会談に呼ばれなかったソ連は、イギリスやフランスがドイツのソ連侵攻を容認しているのではないかと強い不信感を持つことになります。
その後、ソ連は水面下でドイツと交渉を始め、1939年8月独ソ不可侵条約が締結されました。この事実には世界中に衝撃が走ります。
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日本の平沼騏一郎首相はこの件を受けて、「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢生じた」と言い残し、就任からわずか8か月で内閣総辞職するほどでした。
第二次世界大戦を招く
イギリスやフランスが譲歩してナチス・ドイツの要求を認めたため、ドイツの増長を招き、後に第二次世界大戦のきっかけとなります。この会談でズデーテン地方を得たヒトラーは今後も強引な領土拡大を訴えても、イギリスやフランスは手を出してこないと確信します。
そして、ソ連と不可侵条約を締結した際に、秘密裏に結んだドイツとソ連でのポーランドの分割にも合意がなされたため、後顧の憂いを断ったドイツはポーランドへ宣戦布告しました。しかし、ヒトラーの予想に反し、イギリスとフランスもさすがにこの事態を見過ごすわけにはいかず、ドイツへ宣戦布告。
これにより、束の間の平和な時代は終わり、第二次世界大戦の火蓋が切って落とされました。
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ミュンヘン会談に関するまとめ
今回はミュンヘン会談についてまとめました。ミュンヘン会談とはズデーテン地方をめぐるドイツとチェコスロバキアの問題を解決するために開かれた会談です。戦争の回避のため、小国が犠牲を強いられるという結果に終わり、当時の列強と呼ばれた国々とそれ以外の国の力関係を明確に物語っている会談だと思います。
歴史に「もし」を言っても仕方ありませんが、もしこの会談でドイツに対して宥和政策を採らなければ、第二次世界大戦は起きず、また違った歴史があったかもしれませんね。
この記事を読んでくださった皆様がミュンヘン会談について、理解を深めることができたなら幸いです。