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ベートーベンの生涯・年表まとめ【名言や功績、死因、性格についても解説】

ベートーベン(以下、ベートーヴェン)は、本名をルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンといい、西洋音楽史の大きな分岐点にいる音楽家の一人です。日本では「楽聖」と呼ばれており、生誕から200年以上経った現代でもベートーヴェンの音楽は世界中で演奏され、親しまれています。

怖い顔をした印象的な肖像画や、交響曲第5番「運命」や交響曲第9番の「歓喜の歌」のフレーズなどもよく知られているのではないかと思います。また、聴力を失いながらも作曲活動を続けた音楽家としても有名ですね。

ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

数ある音楽家の中でも、どうしてベートーヴェンはこのように広く知られているのでしょうか。もちろん彼自身やその作品たちが魅力的であるという点も大きいですが、その他にも様々な原因があります。

この時代は様々な価値観などが変遷していく時代であり、ベートーヴェンの作品を通してそれらを感じることもできるとも言われています。この記事ではベートーヴェンについて、時代背景なども含めながらご紹介できればと思います。

ベートーヴェンとはどんな人物か

名前ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
誕生日1770年12月16日頃(不明)
生地神聖ローマ帝国(現在のドイツ)ボン
没日1827年3月26日
没地オーストリア帝国 ウィーン
配偶者無し
埋葬場所ウィーン中央墓地

ベートーヴェンの生涯をハイライト

ベートーヴェンの生涯

ベートーヴェンはどのような生涯を送ったのでしょうか。はじめに簡単にご説明したいと思います。

彼の祖父はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手で、父も宮廷音楽家(テノール歌手)でした。ベートーヴェンも幼少時は美しい声のボーイソプラノだったため、カストラート(去勢した男性歌手)になっていたかも知れないとも言われています。やがて祖父が亡くなった頃から、音楽的な英才教育を受け始めるようになります。

1787年、ベートーヴェンが17歳の頃に母親が亡くなると、歌手であった父親はアルコール依存に陥って失職し、ベートーヴェンが仕事を掛け持ちして家計を支えるようになります。やがてベートーヴェンはハイドンなどに音楽の才能を認められてウィーンに移住し、20代になるとピアニストとして頭角を表していきます。

しかし20代後半から難聴を患い、音楽家でありながら聴力を失うという絶望感から死を選ぶほどまで苦悩しました。それでも音楽への情熱で絶望を乗り越え、作曲家として大成していきます。

40代になると全聾になったともいわれ、心身ともに疲弊した日々を送ったといわれています。その苦悩の中から交響曲第9番などの名作を生み出し、1827年に58歳で人生の幕を閉じました。死因は肝硬変だったようで、アルコール依存症だった父と同じく,自身もアルコールによって寿命を縮めました。ベートーヴェンの葬儀には2万人もの葬列者がいたといわれています。

「ハイリゲンシュタットの遺書」で絶望を乗り越え、音楽家として覚醒

ハイリゲンシュタットの遺書

ベートーヴェンは32歳の頃、難聴を苦にして自殺を決意し、夏の避暑地として過ごしていたハイリゲンシュタット(現在はウィーンの一部)で遺書を書きました。その内容やエピソードが有名ですので、一部ご紹介します。

手紙の内容は日ごと悪化していく難聴への絶望感からはじまります。当時すでに若手の演奏家・作曲家してとして有名になりつつあったベートーヴェンは、「私は人より優れた耳を持っていると人から思われているのに、『すみませんが、耳が聞こえづらいので大きい声で言ってください』などとは恥ずかしくて言えなかった」という生々しい感情を吐露しています。

更に自ら社交場から遠ざかる孤独感や、素行の悪い弟たちに対する複雑な愛情が綴られますが、筆を進めるうちに一転して「それでも私を死から引き止めているのは芸術である」と音楽に対する情熱を自覚し、彼は死を選択することはなく遺書の内容は強い決意へと変わっていきます。

ベートーヴェンは「もし後世に自分が不幸だ、と思う者がいて、過去に耳の不自由な音楽家が仕事を完遂したと知ったら生きる勇気を与えることができるのではないか」という内容を綴っており、自らの音楽活動に使命感を感じたのでしょう。

その証拠に、遺書を書いた後のベートーヴェンの作品は交響曲第三番「エロイカ(英雄)」、第五番「運命」、第六番「田園」など、私たちもよく知る名作ぞろいです。このベートーヴェン中期の充実した創作時期は、後に20世紀の作家・ロマン・ロランによって「傑作の森」と名づけられました。

ベートーヴェンの功績

功績1:音楽の啓蒙主義

ダイナミックで感情的な楽曲

優れた作曲家が数多くいる中で、どうしてベートーヴェンはここまで広く知られているのでしょうか。いくつか理由がありますので、一緒に考えていきましょう。
ベートーヴェンはモーツァルトやハイドンと並んで盛期古典派(ウィーン古典派)の代表的な作曲家とされていますが、モーツァルト、ハイドンたちと比べてベートーヴェンには決定的な違いがあります。それは、貴族社会と完全に決別した作風であるという点です。

モーツァルトの後期の作品なども自由でユーモアのある作品が多くみられます。しかし、それはあくまでも宮廷や貴族たちのルール、または好みを逸脱しない域で表現されていました。

対してベートーヴェンは「拳を振り上げる不作法」と後に例えられるほど、ダイナミックで強弱の対比などが激しい表現などを追求していきました。そのストレートで感情的な表現は、時代を超えて私たちの心にも響きやすいのかも知れません。

功績2:新時代の音楽活動

フランス革命の最中に活動していた

このベートーヴェンの作風には、その当時の世の中の変化、特にフランス革命などの市民革命や産業革命が関係しています。

フランス革命が始まったのは1789年で、モーツァルトの死去がその2年後の1791年、ベートーヴェンが音楽活動をはじめたのがルイ16世処刑後の1795年前後です。この2人の作曲家の年齢差は僅か14歳ですが、その間には社会の変化による大きな違いがあるのです。

今まで作曲家たちに仕事を与えていた貴族たちの権力や求心力が無くなっていき、彼らに受け入れられる音楽を作る必要がなくなっていきます。革命後の社会は作曲家自身が作りたい音楽を追求できる時代でもあり、また、大衆にも受け入れられる音楽が求められていく時代の始まりでもありました。

またこの時代は、産業革命によってピアノを始め様々な楽器も進化を遂げ、表現の幅が広がっていきました。そのためベートーヴェンが追求したようなダイナミックな表現も可能になります。同時に印刷技術の発達による楽譜の普及率向上・作曲家のフリーランス化などの変化もあって、音楽史的にも大きな分岐点が複数ありました。

功績3:音楽のあらゆる可能性に挑戦

「第九」は12月の定番曲になっている

ベートーヴェンの作品にはキャッチーなフレーズが多くみられます。例えば、交響曲第5番「運命」の主題のメロディは、初めて聞いた人でもすぐに口ずさむことができるでしょう。

更に、「第九」とよばれる交響曲第九番の終楽章「歓喜の歌」では交響曲に合唱を取り入れ、大勢で「エイエイオー」とばかりに唱和する熱狂を生み出しました。

ベートーヴェンの楽曲が演奏される機会が多い理由として、このようなわかりやすさがあるということも関係しているでしょう。交響曲第5番「運命」のモティーフや交響曲第九番 終楽章「歓喜の歌」は現在でもテレビCMなどでアレンジされ、使用されているかと思います。

しかし、ベートーヴェン作品の特徴はそれだけではありません。彼は聴衆たちとの熱狂をあえて切り離した秘教的な作品なども意識的に作曲していました。特に晩年はJ.Sバッハの作品に感化されてポリフォニーを取り入れ、思想的に深化した作品も数多く作曲されています。

また、交響曲第5番のように一見単純に思えるようなフレーズの曲でも、曲の構成は細かく計算しつくされている点など、ベートーヴェンの曲はわかりやすさと精巧さが絶妙なバランスで成り立っています。わかりやすさと精緻さ、熱狂と静謐、など、楽曲のあらゆる可能性を追及した点でも、後世に様々な影響を与えたと言えるでしょう。

ベートーヴェンにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「ベートーヴェン研究を複雑にした自称秘書・シンドラーの存在」

アントン・シンドラー

伝記に書かれるベートーヴェン像というのは、「少し風変りで気難しいアーティスト」・「苦悩の中で傑作を生みだした英雄的な人物」というイメージが多いのではないでしょうか。しかしそれらのイメージは現在見直されつつあります。

ベートーヴェンの知人のアントン・シンドラーという男性は「無給の秘書」を自称し、耳が聞こえづらいベートーヴェンとの筆談メモを多数残していました。しかし、この記述のほとんどが嘘・創作であることがわかっています。

一説には、シンドラーは「自分が理想とするベートーヴェン像」を作りあげて後世に残すためであれば、資料の改竄や破棄までも辞さない程であった、ともいわれています。(ちなみに彼は「無給の秘書」を自称していましたが、実際は有給だったようです。)

ドラマティックなベートーヴェンの人生や逸話のほとんどが創作かもしれないというのは少し残念ですが、このような身近な人間に「この人を伝説にしたい」と思わせるほどの魅力がベートーヴェンにあったことは真実なのでしょう。シンドラーは、現代でいうとプロデューサーのような存在だったのかもしれません。

都市伝説・武勇伝2「あの肖像画の意外なエピソード?」

ベートーヴェンの肖像画

ベートーヴェンは生涯に多くの肖像画を書かれた人物でもありますが、一番有名なのは乱れた髪で厳しい目つきをした、この肖像画だろうと思われます。(Wikipediaより)

肖像画を描きに画家が来訪する日の朝、ベートーヴェンは自身の大好物である「マカロニチーズ」を家政婦に作ってもらうよう頼みましたが、その料理の出来がひどく不味かったためにその日のベートーヴェンは終止不機嫌であり、あのような怖い表情で描かれた、という説があります。

しかしこの逸話は、前述したように虚偽の記録の多いシンドラーの記述のものですので、本当かどうかはわからないと言われています。

ベートーヴェンの略歴年表

1770年
ベートーヴェン誕生
神聖ローマ帝国・ボン(現在のドイツ)で生まれました。祖父や父は宮廷で仕える歌手で、ベートーヴェンは音楽家の一族に生まれました。
1773年
祖父の死により生活が困窮
宮廷音楽家で楽長を務めた祖父が亡くなると生活が苦しくなります。ベートーヴェンの父親はお酒で失敗することが多く、収入が途絶えがちだったためです。その父親には虐待とも思えるほど厳しい音楽の英才教育を受けていたと言われています。
1787年
ウィーンへ演奏旅行
ベートーヴェンが受けた厳しい英才教育は、父親が幼少期のモーツァルトを意識したためでした。ベートーヴェン本人もモーツァルトへの憧れを抱いており、モーツァルトに会うためにウィーンへ旅立ちますが、母が危篤という知らせがありボンへ帰ることになります。母親はそのまま亡くなってしまいまいした。
1792年
ハイドンに弟子入り
たまたまボンに立ち寄っていたハイドンはベートーヴェンの才能を認め、ベートーヴェンはそのままピアノや即興演奏の名手(ヴィルトゥオーソ)として名を馳せていきます。この頃からベートーヴェンはウィーンに移住し始めました。父親がこの頃に肝硬変で死去します。
1802年
ハイリゲンシュタットの遺書
20代後半の頃より悩まされていた難聴によって絶望し自殺まで考えますが、音楽への情熱によって踏みとどまります。ベートーヴェンの難聴の原因は諸説ありますが、はっきりとしたことはわかっていません。
1804年
交響曲第3番初演・傑作の森へ
一時期死を決意までしたベートーヴェンですが、この年発表の「交響曲第3番・エロイカ」を皮切りに次々と名作を生みだしていきます。またこの頃からピアノ演奏より作曲に専念していきます。
1808年
交響曲第5番初演
今日もっとも有名な交響曲の一つである交響曲第5番「運命」が演奏されました。同じく有名な交響曲第6番「田園」も同時に発表され、当時は「田園」も交響曲第5番という扱いだったようです。
1818年
スランプに陥るも復活
名作を次々と生み出していく中、耳の疾患の悪化や体調不良などが影響し一時期は制作期間がストップする時期がありました。しかしJ.S.バッハのポリフォニー音楽に影響を受けてからは深みのある作品を生みだしていきます。
1824年
交響曲第9番初演
声楽付きの交響曲として有名な交響曲第9番を発表しました。この頃ベートーヴェンは完全に聴力を失っており、聴衆の大喝采が聞こえずソリスト歌手に促されて観客を見て初めて聴衆の反応を知ったようです。
1827年
ベートーヴェン死去
最晩年になるとベートーヴェンは聴力を完全に失い、心身共に疲弊した日々を過ごしたといいます。そして1827年3月26日に肝硬変によって死去しました。彼の葬式には多くの人が集まり、その翌年に亡くなるシューベルトなども参列したようです。

ベートーヴェンの具体年表

1770年 – 0歳「ベートーヴェン誕生・家族事情について」

ベートーヴェンの誕生

ベートーヴェンの家族について

ベートーヴェンの父親は息子に音楽の厳しい教育を施し、かつ暴力的で一時期ベートーヴェンが音楽に対して嫌悪感を持つほど厳しい人物だったようです。対して母親は心優しい人でしたが、ベートーヴェンが16歳の頃、彼が演奏家や作曲家として世に出る前に亡くなってしまいました。

ベートーヴェンは次男として生まれ、生まれてすぐ亡くなったカール・マリアという兄がいました。他兄弟は三男・カルル(資料によりガスパール)と四男・ヨハンと二人の弟がいます。

1787年 – 17歳「10代から一家の大黒柱になる」

悲しい出来事が続いた

母の死と父の失職

ベートーヴェンが16歳の頃に母親が病死すると、父親はアルコール依存症へと陥り、完全に仕事を失ってしまいます。その後は病気の父と2人の弟を養うためにベートーヴェンは仕事を掛け持ちして家計を支えるようになります。しかし父親も数年後にはアルコールの過剰摂取が原因で亡くなりました。

皮肉にも晩年のベートーヴェンは溺愛した甥の自殺未遂でアルコール依存症気味となり、この父親と似たような死を迎えることになります。

1792年 – 22歳「ハイドンに弟子入り」

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン

ピアニストとしてキャリアをスタート

ハイドンに才能を認められて弟子入りしたベートーヴェンは、当初ピアノの即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として音楽家のキャリアをスタートさせました。当時はまだ他の人の作った曲を演奏する現代のピアニストのような職業はなく、自身で作った曲を自作自演するスタイルが主流でした。

ベートーヴェンも若い頃は演奏家兼作曲家でしたが、次第に作曲中心へと打ち込むようになりました。

同年代の意外な音楽家たち

シューベルトやウェーバー、ロッシーニなどの前期ロマン派の作曲家たちはベートーヴェンと活動時期が同じであり、年齢も同世代と言って良いでしょう。ベートーヴェンのことを調べてみると、「古典派音楽の集大成であり、後のロマン派に大きな影響を与えた」と書かれていることが多いですが、実際はベートーヴェンが音楽家としてキャリアをスタートさせた頃には既にロマン派音楽の作曲家は存在していました。

ベートーヴェンが彼らの着想などに与えた影響は大きいですが、ベートーヴェン本人は形式のないロマン派音楽の思想とは一線置いていたようです。

1802年 – 32歳「『ハイリゲンシュタットの遺書』ベートーヴェンを苦しませた難聴の原因とは?」

ワインが原因という説がある

興味深い新たな説も?

彼を苦しませた難聴の原因とは一体何だったのでしょうか。一説には当時のワインに入っていたとされる鉛による中毒という説や、耳硬化症だったという説がありますが、今のところどの説においても完全に特定できる証拠はありません。

最近では、「実はベートーヴェンは耳が聞こえていたのではないか」という説もあり、その真偽はともかく、興味深く面白い内容です。聴力を失った作曲家は他にもフォーレやボイスなどがいますが、彼らの作曲活動が病後後伸び悩んだのに対し、ベートーヴェンは難聴を抱えながらも代表作を生みだしている点などが指摘されています。

1808年 – 38歳「「運命」の初演は散々だった?」

アン・デア・ウィーン劇場

ドタキャンやリハーサル不足で大惨事に?

今やもっとも有名な交響曲の一つとされるベートーヴェンの交響曲第5番ですが、初演のコンサートは失敗に終わったといわれています。この曲は1808年12月22日・アン・デア・ウィーン劇場にて演奏されました。その日は他にも沢山の曲が演奏されましたが、プログラムが長すぎて観客は12月の極寒のウィーンで凍えながら鑑賞に堪えなければいけませんでした。

また新曲のアリアを歌う予定だった歌手はコンサート当日に降板し、代役の歌手は緊張のあまり歌えなくなり公開中止、初演だった「合唱幻想曲ハ短調」は演奏がひどすぎて途中で止まるなど、散々な様子だったようです。交響曲第5番「運命」の評判はというと、いきなり「ダダダダーン」と荒々しく音を叩きつけるような激しい表現に当時の人々は困惑したようですが、その斬新な魅力・評判は瞬く間に広がり、あらゆる箇所で演奏されるようになっていきます。

1824年 – 55歳「交響曲第9番初演」

フリードリヒ・フォン・シラー

ハイテクな交響曲だった?

ベートーヴェンは詩人・シラーの「歓喜に寄す」の詩に感銘を受け、この詩を基にした交響曲の構想が1792年頃よりあったと言われています。

この曲はソリスト4名と合唱、つまり歌が挿入された交響曲で、この時代にはとても珍しく奇抜なアイディアでした。またオーケストラも当時としては大編成といえるものであり、最先端の交響曲でした。後世への影響については、最早言うまでもないでしょう。

1826年 – 57歳「甥の自殺未遂で体調が悪化」

甥が拳銃自殺未遂

甥への行き過ぎた愛情が死の遠因?

ベートーヴェンの弟たちは、兄が書いた楽譜を売ってお金にするなど素行の悪い弟だったようですが、ベートーヴェンは弟二人に愛情を持っていたことが「ハイリゲンシュタットの遺書」でわかっています。特に彼が溺愛していたといわれている三男のカルルは41歳で亡くなってしまいますが、カルルは遺言で息子・カルル(同名)の後見人を妻ではなく兄のベートーヴェンに指名します。

ベートーヴェンはこの最愛の弟の忘れ形見を自分の息子のように育てますが、甥・カルルが愛しいあまりに偏愛を注ぎ過ぎたようで、カルルはそれを不自由に思い、精神的に不安定な若者へと成長してしまいます。そして甥・カルルは20歳の頃に拳銃で自殺未遂をし、それを機にベートーヴェンの体調は一気に悪化したといわれています。

ベートーヴェンの関連作品

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ベートーヴェンの生涯 (岩波文庫)

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ダンシング・ベートーヴェン

交響曲第9番にバレエの振り付けをつける、という壮大なプロジェクトを描いた映画です。ズービン・メータ指揮の交響曲第9番は必見・必聴の価値があるでしょう。

関連外部リンク

ベートーヴェンについてのまとめ

いかがでしたでしょうか。執筆にあたって、ベートーヴェンに関する情報の多さに驚きました。

2020年にはベートーヴェンも生誕250周年となり、これからも新たな研究や発展がされていくことでしょう。今回ご紹介できたのはベートーヴェンについてほんの少しの要素でしたが、少しでも皆さまがご興味を持って戴けると幸いです。

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