長男は父・英機と疎遠だった
長男の英隆氏は、父・英機と疎遠だったといわれています。きっかけは英機が満州で関東軍参謀長をしていた頃、英隆が満州警務部に勤務しており、二人の間に衝突があったためです。
内容は英隆が父・英機の力を借りずに自力で満州警務部に勤めるも、たまたま英機も関東軍参謀長として満州に赴任していました。そのため英機は息子が自分のコネで入ったと噂されることを嫌い、満州警務部に免職、或いは昇進できないように扱うよう要求したそうです。
父のせいで辞職に追い込まれた英隆は、それ以来父・英機と距離を取るようになったと語っています。
そのため英機が巣鴨プリズンに収監されている時も、英機から面会の希望が出ても断固として面会にいかなかったそうです。そのため父英機は、英隆に遺書を宛てています。そこには、
「自分とは疎遠になっても、母の事は気にかけてほしい」
と書かれていたといいます。そして迫害される東條家を支援してくれる友人を頼るようにとも書いてあり、英隆氏を気遣う親心を垣間見ることができるのです。
父の擁護に奔走した次女・満喜江
東條英機の次女・満喜江さんは戦後、英機の遺品や名刺・軍服などを管理していました。娘の由布子程の活動ではないものの、英機を擁護する立場をとっています。
満喜江は当初古賀秀正陸軍大尉と結婚し一児を儲けていますが、夫は1945年8月15日の宮城事件で自決しました。その後東洋大学の名誉教授・田村健二と再婚。また満喜江自身も家庭裁判所調停員として活躍する傍ら、夫と共同研究した社会学の著書が多数あります。また家庭調停の専門家としてメディアにも出演しています。
東條英機の著名な子孫を紹介
東條英機の孫や曾孫は、今もあらゆる方面で活躍しています。そんな子孫の中で、特に著名な人物を紹介します。
東條由布子(岩波由布子)
東條英機の長男・英隆氏の娘、東條由布子(とうじょうゆうこ)は、英機の子孫の中で特に精力的に活動している人物です。本姓は岩波ですが、夫に「英機擁護のためなら岩波姓を使うことを許さない」といわれたためだそうです。保守派のコメンテーターとしてメディアにも頻繁に出演していました。
著書には『祖父東條英機「一切語るなかれ」』「大東亜戦争の真実東條英機宣誓供述書」など、祖父東條英機に関する書を多数発表しています。東京裁判での判決から、靖国神社の戦犯分祀問題でも祖父を擁護する立場として意見を述べていました。
また戦地に赴き「遺骨の収集活動」にも従事しました。2007年には第21回参議院議員通常選挙区に、無所属新人候補で立候補するも、落選しています。その後2013年に肺炎により73歳で死去しました。
東條英利
東條英機の曾孫にあたる東條英利は、現在「日本の文化を広めよう」といった活動を積極的に行っています。具体的には、
- 神社などの日本文化を紹介する「神社人」を運営
- 一般社団法人国際教養振興協会の代表理事に就任
などです。英利氏はカタログ販売会社に就職し4年ほど香港に赴任していました。その時に日中戦争を先導していた東條英機の曾孫として周囲に言いづらかったといいますが、あるとき友人に打ち明けたそうです。すると友人は「そんなこと関係ない。僕たちは友達だ」といわれたそうです。
それから英利氏は「自分も日本のために何かできるのではないか」と考えるようになり、今の活動へと繋がったといいます。
東條英機の子孫に関するまとめ
今回東條英機の子孫を執筆しましたが、筆者の感想はご子孫は非常に苦労されながらも、自分自身のアイデンティティを見つめて活動されていることに驚いています。そして個人的に「神社人」の運営を、曾孫の方がされていたことを知らなかったために驚いています。
このように普段使っているけれども、実はこんな人が作っていたんだということが他にもあるんだろうなと感じつつ、ご活躍を応援したい次第です。この記事を読んで、筆者と同じようにそうだったのかと感じた方がいたら嬉しく感じます。最後まで読んでいただきありがとうございました。
多分近くに住んでいたら多分殺す計画を立てる!!!