運慶快慶とは?関係や作品、金剛力士像にまつわる真実も簡単に紹介

運慶快慶は平安時代から鎌倉時代に活躍した仏師たちです。彼らが手掛けた東大寺南大門の金剛力士像を誰もが一度は見たことがあるのではないでしょうか。

東大寺南大門金剛力士像
出典:奈良寺社ガイド

とはいえ、読者の皆さんの中には

「運慶と快慶ってどういう関係だったの?」
「運慶と快慶の作風の違いがわからない…」
「金剛力士像の他に代表的な作品ってあるの?」

などの疑問を抱いている方もいるはず。

金剛力士像のあまりに鮮烈なイメージから「運慶快慶」とセットで語られるケースが多いため、2人の関係やそれぞれの作品を詳しく知る機会は少ないですよね。

そこで今回は、仏像マニアの筆者が運慶快慶の関係や作風の違い、それぞれの代表作までわかりやすく紹介します。

この記事を読み運慶快慶への理解が深まれば、金剛力士像への見方も一変しますよ。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

運慶・快慶とはどんな人達?

運慶・快慶が活動拠点としていた興福寺
出典:Wikipedia

運慶・快慶は鎌倉時代を代表とする奈良の興福寺で活動していた仏師たちです。彼らは、源平合戦の被害を受けた東大寺の再建時、南大門に阿形像(あぎょうぞう)と吽形像(うんぎょうぞう)の2対から成る金剛力士像を作り上げました。

しかし、運慶・快慶が活躍する前の仏師は歴史の裏方的存在でした。この流れを変えたのが1050年ごろに活躍した定朝(じょうちょう)。定朝がつくった平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)といった柔和で優美な仏像は、貴族たちに大うけしました。これをきっかけに、仏師の地位向上と社会進出が成功します。

そして、定朝の子と弟子は仏師たちを「慶派」「円派」「院派」といった様々な一派に派生させました。運慶・快慶は「慶派」に所属する人物たちで、「慶派」の由来は「慶」の字がつく仏師を多数輩出したからです。

運慶とは?

慶派の仏師・運慶
出典:Wikipedia

運慶は奈良仏師の康慶(こうけい)の息子です。しかし、生没年不詳で生まれは12世紀中ごろと考えられています。1180年ごろには、平家の南都焼討によって焼かれた東大寺と興福寺の復興を慶派の仏師たちと行いました。

1186年には興福寺の西金堂本尊釈迦如来像(さいこんどうほんぞんしゃかにょらいぞう)の造像を携わっていましたが、鎌倉に向かい幕府関係の仕事を請け負います。幕府に対して運慶は、願成就院(静岡県伊豆の国市)の阿弥陀如来像、不動明王及び二童子立像(にどうじりゅうぞう)、毘沙門天立像と浄楽寺(神奈川県横須賀市)の阿弥陀三尊像(あみださんぞんぞう)、不動明王像、毘沙門天像を造りました。

1196年から康慶と協力して、東大寺大仏の両脇にある2体の仏像と大仏殿にある四天王像の製造に携わりました。1203年には東大寺南大門金剛力士像を造立した功績により、僧官の最高位である法印大和尚位(ほういんだいかしょうい)に任命。

1208年からの4年間は、慶派の仏師たちを率いて興福寺内の仏像造りに専念し、日本彫刻史上屈指の名作に数えられる無著菩薩(むじゃくぼさつ)・世親菩薩像(せしんぼさつぞう)を造り上げました。晩年になると、北条義時の大倉薬師堂、北条政子の勝長寿院五大尊像(しょうちょうじゅいんごだいそんぞう)など鎌倉幕府の重要人物たちからの仕事のみを請け負いました。

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快慶とは?

快慶と親交のあった重源
出典:Wikipedia

快慶は出自や生まれが定かではなく、歴史の表舞台に立ったのは1183年のことです。1189年には快慶が造立した最古の仏像・弥勒菩薩立像を造りました。

1192年になると作った仏像に「巧匠アン阿弥陀仏」(アンは梵字)というサインを残すようになります。このサインは1203年まで刻み続け、約40体の仏像にサインが残されました。

1194年には東大寺再建のため、多聞天像(たもんてんぞう)を造立しました。快慶は自身を巧匠と名乗っていることから仏像造立に対する意識が強く、それも相まって東大寺再建において際立った功績があったことが記録として残っています。

また、東大寺再建を監督した重源と親交があったので、僧形八幡神坐像や俊乗堂(しゅんじょうどう)阿弥陀如来立像といった重源に関係した仏像を東大寺で造立しています。

運慶と快慶の関係

運慶・快慶は兄弟弟子だった

運慶・快慶、2人の仏師はどのような関係だったのでしょうか。結論から申し上げますと、彼らは親子や兄弟といった血縁関係はなく、同じ師匠を持つ兄弟子と弟弟子といった関係でした。

運慶・快慶は慶派の仏師で共に康慶を師匠に持っていました。また、東大寺再建時には運慶と快慶は師匠と弟子の関係であったとの一説があります。

運慶と快慶の違い

運慶・快慶の作風は大きな違いがあった

運慶・快慶は作風といった点で大きな違いがありました。運慶は当時、平安貴族の間で人気だった定朝が興した仏像彫刻様式・定朝様から一線を画す作風でした。

定朝様は穏やかな表情と柔和さを重要視したものに対し、運慶は力強い表情と重量感のある体格を特徴とした仏像を造っています。その特徴もあってか、運慶は武士たちに人気で、北条政子や源実朝といった鎌倉幕府の重要人物たちからの依頼で仏像を造立しました。

一方、快慶は運慶とは違って定朝様を重視した繊細で優美な作風が特徴です。その作風は快慶が安阿弥陀仏(あんなみだぶつ)と称したことにちなんで「安阿弥様」(あんなみよう)と呼ばれました。

また、快慶は武家や貴族といった特定の層にこだわることなく、民衆向けにも仏像を造立したので、多くの作品が残っています。

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