北条義時とはどんな人?年表まとめ【家系図や執権政治、承久の乱について紹介】

北条義時は、鎌倉幕府二代執権を務めた武将です。初代執権北条時政の息子であり、初代将軍源頼朝の義弟という立場を考えると華やかな青年期を思い浮かべますが、実際は特に目立つことのない前半生でした。

北条義時

父親には認められないものの、頼朝は義時を側近の中でも一番優秀な人物として評価していました。二代将軍源頼家の時に敷かれた十三人の合議制には最年少で加わり、ドロドロの政権闘争を最後まで生き抜きます。そして武家政権を完成させ、朝廷と武家の立場を逆転させるという、日本史の中でも大転換点となる歴史を作り出すのです。

この記事では、そんな北条義時の生涯を解説するとともに、功績や武勇伝も紹介します。最後まで読めば、義時が主役の2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」がより楽しめるはずです。

この記事を書いた人

Webライター

吉本 大輝

Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。

北条義時とはどんな人物か

名前北条義時
誕生日長寛元年(1163年)
没日元仁元年6月13日(1224年7月1日)
生地伊豆の国市江間
没地相模国鎌倉(神奈川県鎌倉市)
配偶者姫の前(正室)・伊賀の方(継室)
埋葬場所北條寺(静岡県伊豆の国市)・頼朝法華堂の東の山(神奈川県藤沢市)

北条義時の生涯をハイライト

北条義時の木像

北条義時の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1163年 0歳 北条義時誕生
  • 1180年 17歳 源頼朝挙兵に父時政と共に従う
  • 1189年 26歳 奥州合戦に参加した他、頼朝上洛に随行
  • 1199年 36歳 頼朝が死去し、未熟な頼家を補佐する為に十三人の合議制に加わる
  • 1205年 42歳 父時政と対立し、時政を追放
  • 1219年 56歳 3代目将軍実朝が暗殺される
  • 1221年 58歳 承久の乱で後鳥羽上皇に勝利する
  • 1223年 62歳 脚気のため死去

鎌倉幕府の2代目執権に就任!北条家の権力固めに貢献

鎌倉幕府の基本構造(執権は幕府のNo.2と言いつつ、実質的には最高責任者だった)

執権とは鎌倉殿(鎌倉幕府の将軍)を補佐し、政務を統括する役職です。鎌倉幕府が発足した1185〜1192年の段階では執権という地位は存在せず、1203年に義時の父である時政が初めて就任しました。

時を戻せば1199年に初代将軍の源頼朝が死去した際、二代目将軍の頼家は18歳とまだ未熟でした。政務は、義時や時政を含めた有力御家人13人による集団指導体制により行われるのです。これを「十三人の合議制」と呼びます。

やがて熾烈な権力争いが起こり、北条時政が台頭していきます。1203年に時政は三代目将軍に実朝を擁立すると共に前述した初代執権に就任。北条氏の権力の足固めの始まりでした。

1205年に義時は二代目執権になりますが、これは世襲ではなく、義時が時政との勢力争いに勝利した結果でした。義時は執権だけでなく、軍事を司る侍所も兼ねた為、執権は事実上幕府の最高職となったのです。

やがて実朝が暗殺されると源氏の血筋は途絶えます。幕府は皇族等から傀儡となる将軍を迎え、執権が幕府の事実上の最高責任者となる体制が確立。やがて鎌倉幕府の要職は北条氏が独占していくのでした。

後鳥羽上皇に勝利した承久の乱

幕府軍と後鳥羽軍が交戦した滋賀県大津市の瀬田川

義時にとって最大の危機が1221年に勃発した承久の乱です。後鳥羽上皇は武士政権である鎌倉幕府を良しとぜず、義時追討の宣旨を全国に発布します。未だに朝廷や天皇に対する権威は大きく、幕府に激震が走りました。

朝敵になった鎌倉幕府の御家人は動揺するものの、初代将軍の妻である北条政子の演説により、動揺は静まったとされます。演説を現代語訳すると以下の通りです。

みなさん、心を一つにして聞いてください。これは私の最後の言葉です。
(中略)平家に仕えていた時には犬のように召し使われていたあなたたちでしたが、今日では京都へ行って無理に働かされることもなく、幸福な生活をおくれるようになりましたよね。
それもこれもすべては頼朝殿のお陰です。そしてその恩は山よりも高く海よりも深いのです。

義時は総大将として嫡男・泰時と次男・朝時、弟の時房を京へ派遣。東国武士達は19万人の大軍となり、わずか1ヶ月で京都は制圧され、幕府の圧勝に終わりました。

義時は朝廷に対して厳しい態度をとり、後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島に配流となります。幕府と朝廷の立場は完全に逆転し、義時による執権政治は全国的政権として更なる発展を遂げたのです。

義時が就任した執権はやがて得宗に乗っ取られる?

8代目執権であり得宗でもあった北条時宗

鎌倉時代の勉強をする中で、得宗政治という言葉を聞いた事はありませんか?執権政治に得宗政治とややこしい言葉が沢山出てくる事が、鎌倉時代が敬遠される理由の一つかもしれません。

得宗は北条義時の別名(法名)で、義時の本家の家柄を得宗家と呼びます。執権は職務、得宗は身分を指すのです。執権の地位は本家の子孫が常に執権に就任するのではなく、兄弟や分家が持ち回りで就任する事もありました。

時代が下るにつれ、北条氏内では執権よりも「北条氏の家督を継ぐ者」という身分である得宗に権力が移りました。執権を後任に譲りつつ、得宗が実際の政治を司る事もあったようです。

しかし鎌倉幕府末期になると、得宗家の執事である内管領が政治の実権を握ります。つまり末期の幕府は「将軍<執権<得宗<内管領」というとんでもない傀儡政権の構図が出来ていたのです。

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