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北条義時とはどんな人?生涯・年表まとめ【家系図や執権政治、承久の乱について紹介】

北条義時とは平安時代後期から鎌倉時代初期の武将であり、鎌倉幕府の2代目執権を務めた人物です。鎌倉幕府の歴代将軍であった源氏が3代で絶えると、北条家が台頭。後鳥羽上皇による承久の乱や、父である時政との確執を経て義時は幕府の実権を握りました。

北条氏はやがて御成敗式目を定めた北条泰時や、元寇から日本を救った北条時宗を輩出する等、鎌倉時代を彩る存在になります。北条氏の幕府における地固めをした義時は、歴史を語る上でも必要不可欠な存在です。

北条義時

義時は承久の乱を経て後鳥羽上皇を島流しにした経緯もあり、明治時代には悪人のように扱われていました。ただ鎌倉幕府創設前の義時をみると、他の武将や御家人に比べるとそこまで目立つ存在ではなく、父親の時政に振り回される立ち位置だったと言えます。義時は鎌倉幕府創設後の戦いや謀略の中で、大きく成長を遂げた人物なのです。

鎌倉時代は幕末や戦国に比べるとあまり人気はないものの、策謀渦巻く展開や殺伐とした人間模様は癖になると個人的には思います。今回は2022年の大河ドラマで北条義時が主人公になる事が決まり、思わずガッツポーズをするほど義時を好きな筆者が、北条義時の生涯について解説します。

北条義時とはどんな人物か

名前北条義時
誕生日長寛元年(1163年)
没日元仁元年6月13日(1224年7月1日)
生地伊豆の国市江間
没地相模国鎌倉(神奈川県鎌倉市)
配偶者姫の前(正室)・伊賀の方(継室)
埋葬場所北條寺(静岡県伊豆の国市)・頼朝法華堂の東の山(神奈川県藤沢市)

北条義時の生涯をハイライト

北条義時の木像

北条義時の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1163年 0歳 北条義時誕生
  • 1180年 17歳 源頼朝挙兵に父時政と共に従う
  • 1189年 26歳 奥州合戦に参加した他、頼朝上洛に随行
  • 1199年 36歳 頼朝が死去し、未熟な頼家を補佐する為に十三人の合議制に加わる
  • 1205年 42歳 父時政と対立し、時政を追放
  • 1219年 56歳 3代目将軍実朝が暗殺される
  • 1221年 58歳 承久の乱で後鳥羽上皇に勝利する
  • 1223年 62歳 脚気のため死去

鎌倉幕府の2代目執権に就任!北条家の権力固めに貢献

鎌倉幕府の基本構造(執権は幕府のNo.2と言いつつ、実質的には最高責任者だった)

執権とは鎌倉殿(鎌倉幕府の将軍)を補佐し、政務を統括する役職です。鎌倉幕府が発足した1185〜1192年の段階では執権という地位は存在せず、1203年に義時の父である時政が初めて就任しました。

時を戻せば1199年に初代将軍の源頼朝が死去した際、二代目将軍の頼家は18歳とまだ未熟でした。政務は、義時や時政を含めた有力御家人13人による集団指導体制により行われるのです。これを「十三人の合議制」と呼びます。

やがて熾烈な権力争いが起こり、北条時政が台頭していきます。1203年に時政は三代目将軍に実朝を擁立すると共に前述した初代執権に就任。北条氏の権力の足固めの始まりでした。

北条時政像

1205年に義時は二代目執権になりますが、これは世襲ではなく、義時が時政との勢力争いに勝利した結果でした。義時は執権だけでなく、軍事を司る侍所も兼ねた為、執権は事実上幕府の最高職となったのです。

やがて実朝が暗殺されると源氏の血筋は途絶えます。幕府は皇族等から傀儡となる将軍を迎え、執権が幕府の事実上の最高責任者となる体制が確立。やがて鎌倉幕府の要職は北条氏が独占していくのでした。

後鳥羽上皇に勝利した承久の乱

幕府軍と後鳥羽軍が交戦した滋賀県大津市の瀬田川

義時にとって最大の危機が1221年に勃発した承久の乱です。後鳥羽上皇は武士政権である鎌倉幕府を良しとぜず、義時追討の宣旨を全国に発布します。未だに朝廷や天皇に対する権威は大きく、幕府に激震が走りました。

朝敵になった鎌倉幕府の御家人は動揺するものの、初代将軍の妻である北条政子の演説により、動揺は静まったとされます。演説を現代語訳すると以下の通りです。

みなさん、心を一つにして聞いてください。これは私の最後の言葉です。
(中略)平家に仕えていた時には犬のように召し使われていたあなたたちでしたが、今日では京都へ行って無理に働かされることもなく、幸福な生活をおくれるようになりましたよね。
それもこれもすべては頼朝殿のお陰です。そしてその恩は山よりも高く海よりも深いのです。

義時は総大将として嫡男・泰時と次男・朝時、弟の時房を京へ派遣。東国武士達は19万人の大軍となり、わずか1ヶ月で京都は制圧され、幕府の圧勝に終わりました。

義時は朝廷に対して厳しい態度をとり、後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島に配流となります。幕府と朝廷の立場は完全に逆転し、義時による執権政治は全国的政権として更なる発展を遂げたのです。

義時が就任した執権はやがて得宗に乗っ取られる?

8代目執権であり得宗でもあった北条時宗

鎌倉時代の勉強をする中で、得宗政治という言葉を聞いた事はありませんか?執権政治に得宗政治とややこしい言葉が沢山出てくる事が、鎌倉時代が敬遠される理由の一つかもしれません。

得宗は北条義時の別名(法名)で、義時の本家の家柄を得宗家と呼びます。執権は職務、得宗は身分を指すのです。執権の地位は本家の子孫が常に執権に就任するのではなく、兄弟や分家が持ち回りで就任する事もありました。

時代が下るにつれ、北条氏内では執権よりも「北条氏の家督を継ぐ者」という身分である得宗に権力が移りました。執権を後任に譲りつつ、得宗が実際の政治を司る事もあったようです。

しかし鎌倉幕府末期になると、得宗家の執事である内管領が政治の実権を握ります。つまり末期の幕府は「将軍<執権<得宗<内管領」というとんでもない傀儡政権の構図が出来ていたのです。

北条義時の家系図は?北条政子や源頼朝との関係性

北条義時と政子・頼朝の関係図

北条氏は伊豆出身の地方豪族であり、桓武平氏の出身である平直方を祖としていますが、近年では疑問視もされています。家系図において確実視されているのは、義時の3世代前からです(時家-時方-時政-義時…となります)。

義時の父である時政は、伊豆に流罪となった源頼朝の監視役でした。長女の政子は頼朝と結婚し、頼朝が挙兵した際に時政も呼応しています。政子は義時の6歳上の姉であり、頼朝は義兄です。その他時政には15人程の子がいました。

北条義時の家系図(番号は歴代の執権)

義時は側室を含め何人か妻がいるものの、不明な点も多いです。

  • 阿波局:三代目執権となる長男・泰時を産む。詳しい消息は不明。
  • 姫の前:正妻であり頼朝の大倉御所に勤める女官で。次男・朝時と三男・重時を産む。
  • 伊佐朝政の娘:四男・有時を産む。
  • 伊賀の方:姫の前と離別後に継妻となる。五男・政村と六男・実泰を産む。

彼女らは男子の他に6人の女子を産み、幕府の御家人のもとに嫁ぎました。彼女達は名前も分からず、生涯については不明です。

先程説明した「得宗」は長男・泰時が継承。後に御成敗式目を制定した事で有名ですね。次男・朝時から六男・実泰はそれぞれの流派を立ち上げて分家。彼らも幕府における要職に就任し、時には執権に就く者も現れました。

北条義時の功績

功績1「平家追討や奥州合戦に参戦し、頼朝から絶大なる信頼を得る」

源頼朝(足利義直説あり)

義時の活躍は執権政治の確立に留まらず、鎌倉幕府創設前に遡ります。1180年に頼朝が挙兵した時に義時は時政と共に従っています。1185年には頼朝の弟である源範頼の兵に従軍し、葦屋浦の戦いで武功を挙げました。

1189年には治承・寿永の乱の最後の戦いである奥州合戦にも参戦し、無事に勝利。義時は頼朝の側近として絶大な信頼を得ています。1190年に頼朝が後白河法皇との駆け引きの為に上洛した時には、行列の先頭の役を務めました。

頼朝は「義時は我が子孫を支える存在になる」と周囲に話していたそうです。前述した「姫の前」は比類なき美貌の女官で頼朝のお気に入りでしたが、頼朝は義時と姫の前の婚姻に奔走する等、苦労を惜しみませんでした。

結論から言えば頼朝は謎の死を遂げると共に、義時ら北条氏は傀儡として歴代の将軍達を支えます。頼朝の言葉は事実であり間違いだったと言えるでしょう。

功績2「承久の乱後に六波羅探題を設置する」

六波羅探題府跡

義時は承久の乱の後、京都の朝廷の動きを監視・制御する為に、鎌倉幕府の出先機関である「六波羅探題」を設立しました。六波羅とは地名を指し、旧平清盛邸を拠点として六波羅の北と南に配置されました。

京都から鎌倉まで450kmも離れており、朝廷側が不審な動きをしても、軍を派遣するには時間がかかります。その為六波羅探題には軍事指揮権も持たされており、北条氏の有力者が配置されました。

最初に六波羅探題に配置されたのは、義時の息子の泰時と弟の時房でした。彼らは承久の乱の後処理と、西国の御家人の監視と再編成を断行しています。

義時の構想により「東の幕府」と「西の六波羅探題」が生まれ、鎌倉幕府は全国的な支配勢力を確立。後に後醍醐天皇が倒幕を企てた時、1度目は六波羅探題がそれを察知し事前に争いを防いでいます。

六波羅探題は1333年に足利高氏(尊氏)が滅ぼすまで、その役割を全うしたのです。

功績3「 2022年の大河ドラマの主役に抜擢される」

義時を演じる小栗旬

2022年の大河ドラマは義時が主人公となっており、タイトルは「鎌倉殿の13人」。真田丸を手がけた三谷幸喜が脚本と原案を担当し、小栗旬が義時を演じます。タイトルは頼朝亡き後に定めされた「十三人の合議制」が由来です。

幕末や戦国が描かれやすい大河ドラマにおいて平安後期〜鎌倉時代が題材になる事は珍しく、2012年の「平清盛」以来10年ぶり。義時が主要人物となるのは、実に源頼朝が主役の「草燃える」から数えて43ぶりです。

義時が主役に選ばれたのは、治承・寿永の乱から承久の乱に至る、歴史の場面に立ち会った事も要因でしょう。義時が主役になる事でマイナーな鎌倉時代にスポットライトが当たる事は間違いありません。

義時がその時代を生き延びて、大河ドラマの主役になる事自体が大きな功績と言えるでしょう。

北条義時の名言

一人も残らず殲滅せよ。山狩りをしても召し捕れ。敵を掃蕩せずに功を急いで京を攻め上ろうとするな。

承久の乱で義時が発した指令です。血気盛んな御家人を鼓舞しつつ、焦って京に攻め入る事は制止してきます。義時の冷静さと最高権力者としての資質がよく分かる名言ですね。

北条義時にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「源実朝の暗殺に関与?不審な点の多すぎる事件の顛末」

公暁が実朝を暗殺する場面(以前は”くぎょう”だったが現在では”こうぎょう”だったとも言われている)

1219年に鶴岡八幡宮で参拝の儀式の際に、三代目将軍の実朝は頼家の子である公暁に暗殺されます。結果的に頼朝の嫡流は途絶えます。実朝暗殺事件の黒幕は義時だったとも言われています。

  • 参拝の際に義時は実朝の太刀を持つ役だったが、体調不良によりその役を源仲章が急遽担った。
  • 源仲章は実朝と共に暗殺されている。
  • 実朝暗殺後は摂関家から藤原頼経が四代目将軍に就任、義時が実権として実権を握る。

その他の説として、①三浦義村ら御家人説、②後鳥羽上皇説、③公暁個人の野心説等があります。他には時は事件の現場にいながら暗殺を止める事が出来なかった為、吾妻鏡が誤魔化して嘘を書いたという説もあります。

義時は命拾いすると共に、更に権勢を強めていきます。いずれにせよ実朝暗殺により最も利を得たのが義時だった事は間違いない為、黒幕説は根強く残っているのです。

都市伝説・武勇伝2「承久の乱から3年後に急死?暗殺説もある最期とは?」

吾妻鏡の序文

義時は承久の乱から3年後である、1224年の6月に死去しています。鎌倉幕府の公式書物である吾妻鏡によると死因は「脚気」ですが、あまりに急な死から当初から暗殺説が囁かれていました。

三代目の執権は、嫡男の泰時が就任する予定でした。しかし義時死去後に継室の伊賀の方が五男の政村を執権に擁立しようと画策して失敗し、その一派が伊豆に流罪になる事件が起きています(伊賀の方は4ヶ月後に死去)。

それから3年後、承久の乱の首謀者でありずっと潜伏していた尊長が捕縛。彼は取り調べの際に以下の事を言い、武士達を驚愕させています。

早く首を切れ。さもなければ義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ

つまり尊長は義時が継室の伊賀の方に毒殺されたと主張したのですね。このやり取りは藤原定家の日記である「明月記」に残されています。その他、「保暦間記」には義時は近習の小侍に刺し殺されたと書かれています。

実朝暗殺の顛末も含め、義時は様々な暗殺事件に手を染めていたとされます。仮に義時が暗殺されていたのなら、因果応報とも言える結果です。いつか謎が解明されると良いですね。

都市伝説・武勇伝3「北条義時は明治時代に大悪人と思われていた」

北条高時をテーマにした歌舞伎「北条高時と天狗(月岡芳年画)」

義時は尊皇信仰が厚かった明治時代においては、同情の余地のない大悪人と評されてきました。何故なら義時は3人の上皇を島流しにした上、六波羅探題を設置して朝廷を監視したからです。

更に実朝暗殺事件にも関わっている可能性もある他、藤原頼経を傀儡にし、父の時政を追放した事も義時の評価を下げています。目上の人物をないがしろにする事は儒学においても不忠とみなされてしまうのです。

泰時や元寇で活躍した時宗を除き、歴代の執権達は大半が良い描かれ方をされていません。鎌倉幕府滅亡に関与したとされる北条高時なども「北条九代名家功」という歌舞伎で無能な人物という描写がされました。

太平洋戦争が終わり、天皇についてのタブーが少しずつ解禁されるにつれて義時の客観的な研究も進んできました。ただ明治期のイメージを引きずって「大悪人」という印象を拭えていないのもまた事実なのです。

義時の評価が定まってくるのは、もう少し後なのかもしれませんね。

北条義時の年表

1163年 – 0歳「北条義時誕生」

北条義時

謎に包まれた幼少期

義時は1163年に北条時政の次男として伊豆の国に生まれます。姉に頼朝の妻となる政子、頼朝の異母弟の阿野全成に嫁ぐ阿波局、兄に嫡男である宗時がいます。幼少期の事は記録に残されておらず、詳しくは不明です。

義時の幼名は小四郎。4番目の子供だからなのか、宗時の上に天逝した2人の兄がいたのかも分かってはいません。なお宗時の幼名は三郎である為、兄がいたのではないかと個人的には思います。

源頼朝が伊豆に配流される

なお義時が生まれる数年前の1160年に、源義朝の三男であった頼朝が伊豆の地に流罪。この時に頼朝の監視役になったのが時政でした。この地で頼朝は長い年月を過ごす事となるのです。

1177〜1180年 – 14〜17歳「政子の婚姻と源頼朝の挙兵」

石橋山古戦場(神奈川県小田原市)

政子と頼朝が夫婦となる

1177年頃に姉の政子と頼朝が夫婦となりました。時政はもともと結婚に反対でしたが、最終的に結婚を認めています。時政が平氏政権が長く続かない事を見越していた、単に政子の熱意に押された等、時政の真意は不明です。

頼朝の挙兵に従う

1180年4月に皇族の以仁王が平家打倒の令旨を全国に発布。伊豆にいる頼朝にも届きます。様々な経緯を経て8月には頼朝は挙兵し、伊豆国目代山木兼隆を襲撃します。

この時に時政と宗時、義時は頼朝の挙兵に従っています。頼朝は山木の殺害には成功するものの、続く石橋山の戦いで大敗し、命からがら逃げ出しました。時政・義時も生き残るものの、兄の宗時が戦死しました。

1180〜1182年 – 17〜19歳「頼朝の信頼を得る」

頼朝の有力御家人となる

石橋山の戦いで生き延びた頼朝は態勢を立て直し、やがて東国一帯に大きな権限を持つようになります。義弟の立場である義時は頼朝からの信頼も厚く、1181年4月には頼朝の寝所を警護する11名に選ばれました。

当時頼朝に仕える武士は「門葉(源氏の血縁)」「一般御家人」「家子(門葉と一般御家人の中間)」の位置付けでした。義時の評価は「家子の専一」であり、源氏に次ぐ信頼を得ていたのです。

亀の前事件

1182年に政子が、頼朝の愛妾・亀の前に嫉妬し亀の前の住む家を破壊します。政子は「時政の再婚相手の牧の方の父親・牧宗親」に家の破壊を命じました。頼朝は牧宗親に激怒し、宗親の髻を切って辱めています。

この時、頼朝の横暴な振る舞いに時政は激怒し、一族を連れて伊豆へ立ち退いてしまいます。ただ義時だけは、頼朝に従い鎌倉に残ったとされ、頼朝から賞賛されました。

なお、亀の前事件の顛末については、吾妻鏡が欠文の為に不明です。ただ時政と頼朝は一枚岩ではなかったと共に、義時は頼朝から信頼されていた事が分かります。

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