「院政ってどんな政治?」
「授業で習ったけどどんな政治家詳しく知らない…」
院政とは天皇が後継者に皇位を譲って上皇となり、政務を天皇に代わり直接行う政治制度です。摂関政治が衰え始めた平安時代末期の1086年から白河上皇が開始し、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼びます。
院政時代は権力を持った上皇が「治天の君」と呼ばれ、天皇に代わって政治を行うことが約100年続きました。そんな院政は何故行われるようになったのか?どのような政治だったのか?目的や経緯などを詳しく解説します。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
院政とはどんな政治?
上皇が天皇に代わって直接政治を行う「院政」ですが、どうして天皇ではなくわざわざ「上皇」が政治を行うようになったのか?院政のシステムや目的・院政文化を紹介します。
そもそも院とは?
そもそも「院政」の「院」は、上皇を指します。そのため上皇が行った政治を江戸時代に「院政」と呼ぶ文献が見られ、明治政府によって編集された「国史眼」で院政の呼称が使用されたために広く知られるようになったといいます。
上皇の庶務・雑務を処理する機関に「院庁」が儲けられていました。院庁には「院司」という職員がおり、勤務していたそうです。院庁自体は平安初期の宇多天皇の時代に記述が見られ、上皇の家政機関として機能していました。
この頃は文書を交付することがあってもまれで、内容も雑事がほとんどでした。しかし院政時代の院庁は、「治天の君」の政治意志を表明・指示するために重要な政府機関となりました。治天の君の政治意向を「院庁下文」「院庁諜」「院宣」によって行ったのです。
本来は太政官の左右弁官局・外記局が天皇の詔勅や太政官符を発給する重用機関とされていましたが、院政の開始後はそれらを院庁が行うようになりました。
なぜ院政が行われたのか?
院政が行われ始めた理由は、白河上皇による皇位継承の安定化が目的でした。そして結果的に権力が集中していき「院政」の土台が出来上がり、藤原摂関家の影響力が衰退していったのです。そして院政が行われた時期は「治天の君」が次代と次々代の天皇を任命したために、比較的安定した皇位継承ができていました。
白河上皇は自分の息子を天皇にしたいために、若干8歳であった堀河天皇に譲位しています。当初は堀河天皇と関白藤原師通の時代は天皇と関白が政治を行っていたものの、師通も死去し政治経験が乏しい藤原忠実になると天皇は白河上皇に相談することが増えたといいます。
更に堀河天皇も崩御してしまい、幼い鳥羽天皇が即位しなお権力が白河上皇に集中する結果となりました。そして「治天の君」が摂政関白を任命するなどの権限ができてしまったのです。
院政期文化とは?
「院政期文化」とは、平安時代末期の11世紀から鎌倉幕府が成立する12世紀にかけての文化をいいます。院政時代が貴族社会の衰退と、武士社会の伸長という時代が移り変わる時期だったために、文化面にも影響を受けています。
大きな特徴の一つに「末法思想」があり、武士の台頭や貴族社会の衰退などの社会不安に加え、飢饉や天変地異も頻発し「厭世観」が芽生え極楽浄土への往生を願う思想が広まっていきました。平安時代中期まで神社が主流だったのが、院政期の白河・鳥羽・後白河の三上皇が自ら出家して「法皇」となり、仏像を建造し盛大な法会を開いたりとより仏教が広まっていったのです。
特に仏教の中でも天台宗を学んだ僧侶・法然が阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と唱えれば死後往生できるという浄土宗を開き、貴族から武士や庶民にまで急速に広がりました。浄土宗が広まるにつれて、阿弥陀堂の建設が盛んになります。代表的なものが、藤原頼通が建設した「平等院鳳凰堂」や奥州藤原氏が建てた「中尊寺金色堂」などです。
院政の始まりから全盛期、衰退までの流れ
院政時代と呼ばれる約100年間は社会情勢が不安定なこともあり、同じ「院政」でも時代によって状況が移り変わっていきました。そんな院政時代の流れを簡単に説明します。