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院政とはどんな政治?行った天皇や時代、摂関政治との違いまで簡単に解説


「院政ってどんな政治?」
「授業で習ったけどどんな政治家詳しく知らない…」

院政とは天皇が後継者に皇位を譲って上皇となり、政務を天皇に代わり直接行う政治制度です。摂関政治が衰え始めた平安時代末期の1086年から白河上皇が開始し、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼びます。

院政を始めた白河上皇
出典:Wikipedia

院政時代は権力を持った上皇が「治天の君」と呼ばれ、天皇に代わって政治を行うことが約100年続きました。そんな院政は何故行われるようになったのか?どのような政治だったのか?目的や経緯などを詳しく解説します。

院政とはどんな政治?

平安時代末期から院政が敷かれるようになった
出典:40代からの美容を考えるブログ

上皇が天皇に代わって直接政治を行う「院政」ですが、どうして天皇ではなくわざわざ「上皇」が政治を行うようになったのか?院政のシステムや目的・院政文化を紹介します。

そもそも院とは?

明治時代に「院政」という言葉が広く知られるようになった
出典:Wikipedia

そもそも「院政」の「院」は、上皇を指します。そのため上皇が行った政治を江戸時代に「院政」と呼ぶ文献が見られ、明治政府によって編集された「国史眼」で院政の呼称が使用されたために広く知られるようになったといいます。

上皇の庶務・雑務を処理する機関に「院庁」が儲けられていました。院庁には「院司」という職員がおり、勤務していたそうです。院庁自体は平安初期の宇多天皇の時代に記述が見られ、上皇の家政機関として機能していました。

後白河上皇が発行した院庁下文
出典:大谷大学ホームページ

この頃は文書を交付することがあってもまれで、内容も雑事がほとんどでした。しかし院政時代の院庁は、「治天の君」の政治意志を表明・指示するために重要な政府機関となりました。治天の君の政治意向を「院庁下文」「院庁諜」「院宣」によって行ったのです。

本来は太政官の左右弁官局・外記局が天皇の詔勅や太政官符を発給する重用機関とされていましたが、院政の開始後はそれらを院庁が行うようになりました。

なぜ院政が行われたのか?

堀河天皇の内裏跡、堀河天皇時代は比較的天皇が政権を持っていた
出典:Wikipedia

院政が行われ始めた理由は、白河上皇による皇位継承の安定化が目的でした。そして結果的に権力が集中していき「院政」の土台が出来上がり、藤原摂関家の影響力が衰退していったのです。そして院政が行われた時期は「治天の君」が次代と次々代の天皇を任命したために、比較的安定した皇位継承ができていました。

白河上皇は自分の息子を天皇にしたいために、若干8歳であった堀河天皇に譲位しています。当初は堀河天皇と関白藤原師通の時代は天皇と関白が政治を行っていたものの、師通も死去し政治経験が乏しい藤原忠実になると天皇は白河上皇に相談することが増えたといいます。

藤原忠実は政治経験が浅かったために白河上皇の政治介入の要因となった
出典:JapaneseClass.jp

更に堀河天皇も崩御してしまい、幼い鳥羽天皇が即位しなお権力が白河上皇に集中する結果となりました。そして「治天の君」が摂政関白を任命するなどの権限ができてしまったのです。

院政期文化とは?

貴族が衰退し武士が台頭したり世の中が急激に変化した時期だった
出典:Wikipedia

「院政期文化」とは、平安時代末期の11世紀から鎌倉幕府が成立する12世紀にかけての文化をいいます。院政時代が貴族社会の衰退と、武士社会の伸長という時代が移り変わる時期だったために、文化面にも影響を受けています。

法然上人、この頃急速に仏教が広まっていった
出典:Wikipedia

大きな特徴の一つに「末法思想」があり、武士の台頭や貴族社会の衰退などの社会不安に加え、飢饉や天変地異も頻発し「厭世観」が芽生え極楽浄土への往生を願う思想が広まっていきました。平安時代中期まで神社が主流だったのが、院政期の白河・鳥羽・後白河の三上皇が自ら出家して「法皇」となり、仏像を建造し盛大な法会を開いたりとより仏教が広まっていったのです。

藤原頼通が建てた阿弥陀堂「中尊寺金色堂」
出典:Wikipedia

特に仏教の中でも天台宗を学んだ僧侶・法然が阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と唱えれば死後往生できるという浄土宗を開き、貴族から武士や庶民にまで急速に広がりました。浄土宗が広まるにつれて、阿弥陀堂の建設が盛んになります。代表的なものが、藤原頼通が建設した「平等院鳳凰堂」や奥州藤原氏が建てた「中尊寺金色堂」などです。

院政の始まりから全盛期、衰退までの流れ

平家納経の画、この時代は情勢不安のために助けを神仏に求めた
出典:Wikipedia

院政時代と呼ばれる約100年間は社会情勢が不安定なこともあり、同じ「院政」でも時代によって状況が移り変わっていきました。そんな院政時代の流れを簡単に説明します。

院政の始まり

院政時代の流れを簡単に解説
出典:Wikipedia

始まりは飛鳥時代

聖武天皇は大仏事業に専念するために生前譲位し上皇となった
出典:Wikipedia

日本で「上皇が政治の補佐をする」ということは、飛鳥時代の皇極天皇・持統天皇など女帝が皇位を生前譲位したことから始まりました。女帝は皇位を継ぐ皇子が成人するまでの中継ぎ的な存在な場合が多かったのです。ただし聖武天皇は「東大寺の大仏を作ることに専念したい」という理由で、生前譲位しています。これが後の院政が始まるフラグの一つとなりました。

摂関政治全盛が揺らぎ始める

嵯峨天皇、生前譲位しているがこの頃上皇はあまり権力を持っていなかった
出典:Wikipedia

平安時代に入っても嵯峨天皇など生前譲位する天皇がいましたが、家長的な存在である程度の存在感はあるものの国政を常に関与するほどの設備が整っていなかったために、院政期ほどの権力を持つことはありませんでした。

また平安中期になると短命な天皇が多く上皇も現れなかったために、上皇が貢献する父系政治よりも外戚が権力を持つ「摂関政治」が主流となります。特に藤原道長の時代は、3人の天皇の外祖父となり摂関政治の全盛時代を築いています。

後三条天皇は約170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇だった
出典:Wikipedia

しかし1068年、170年ぶりに藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位すると流れが変わり始めます。後三条天皇は「新政」として多くの摂関家の外戚を持たない強みで政治を行うものの、即位後4年で貞仁親王(白河天皇)に生前譲位し院政を試みますが志半ばで崩御しています。

院政の全盛期

白河上皇が春日大社に行幸する様子
出典:慶喜

白河上皇が「院政時代」を築く

白河上皇が院政を始めたといわれている
出典:JapaneseClass.jp

次の白河天皇も、摂関家を外戚としていなかったために父・後三条天皇の新政を引き継ぎますが、1086年に善仁親王(堀河天皇)に譲位しています。この時が「院政時代」の始まりと定義されています。

堀河天皇が8歳と幼少だったために、白河上皇は後見するために「白河院」と称して引き続き政務を行いました。この時に白河天皇の意図は、摂関家への牽制というよりは自分の子供による皇位独占が目的だったと考えられています。当時反摂関家勢力は、白河上皇の異母弟輔仁天皇への皇位継承を望んでいました。しかし白河上皇は自分の息子善仁親王を指名し、輔仁親王の即位を断念させています。

幼少の天皇が即位することにより上皇の権威が強まった

その後白河上皇はしばらく政界からは距離を置いていたものの、政界の重鎮が死去したことにより白河上皇の意向が伺われることが多くなった上に堀河天皇が崩御し、若干4歳の鳥羽天皇が即位したことにより権力が白河上皇に集まりました。その様子は「天皇がまるで皇太子のようだ」と揶揄されたといいます。

この頃に院御所が整備され、院の権限も強化されていきます。そして摂政任命なども院ができるようになり「治天の君」としての権力を確立していくこととなったのです。

平家の滅亡で「院政時代」が終わる

平安時代末期は荘園を上皇が所持し国庫をまかなっていた

院政時代は平家滅亡の1185年までと定義されていますが、それまでに院政も移り変わっています。院政が強くなった平安時代末期になると、院は「法の抜け道」として利用され始めています。

平安時代末期は公地公民制が実態として崩壊して荘園が多くありましたが、律令国家の長である天皇は荘園を持つことが出来ませんでした。しかし上皇は皇室に寄進された荘園を所有・管理出来たために、その収益で国庫をまかなっています。

平清盛は後白河天皇と対立し、一時院政を停止させた
出典:Wikipedia

そして武士が台頭し始め、平清盛が摂政になると当時「治天の君」だった後白河上皇と対立。この時、院政は停止されています。しかし平清盛が死去すると息子の宗盛が再度、後白河天皇の院政を復活させました。しかし1185年に平家が壇ノ浦の戦いで滅亡。その後源頼朝による武家政権へと移っていき、院政時代は終焉します。

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院政時代後

武士の台頭により院政時代は終わりを告げた
出典:Wikipedia

武家政権時も院政は健在だった

行助入道親王は皇位を経ずに院政を敷いた
出典:Wikipedia

鎌倉幕府が成立し政治の政権が武家に移っても、院の機能は健在でした。鎌倉時代には後堀河天皇即位に、父親である行助入道親王が天皇の位を経ずに院政を行う事態なども発生しています。この頃も公家政権の中枢として機能しており、御嵯峨院政期には、院庁の制度を再度整備しなおしています。

応仁の乱後は皇室自体がひっ迫したが院庁はかろうじて存続していたらしい
出典:Wikipedia

鎌倉時代末期、後醍醐天皇の「建武の新政」で一時院政が中断されるも、南北朝時代には北朝の院政が再開しました。そして室町時代に院政は続いていたものの1433年に後小松院が崩御すると事実上の院政は終焉しました。しかし院庁は残っており、応仁の乱の頃はほとんど機能していなかったものの続いています。

江戸時代は形式的に機能していた

女帝・後桜町上皇も譲位後に院政を行っている
出典:Wikipedia

江戸時代になると「禁中並公家諸法度」に基づいて江戸幕府による朝廷介入が本格化しました。幕府は摂政・関白を中心とした朝廷秩序を望んだものの、結局後水尾上皇や霊元上皇・後桜町天皇などが院政を敷いています。形式的とはいえ、最後の院政は江戸末期に光格天皇が息子の仁孝天皇に譲位をしたもので、これ以降院政は敷かれていません。

明治に正式に「院政」が禁止された

現・上皇陛下は202年ぶりの「上皇」となった
出典:Wikipedia

明治に入ると1889年に制定された旧皇室典範第10条に、

「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」

とし天皇の譲位を禁止し、天皇が崩御したときのみ皇位継承が行われることが決められ上皇の存在は否定されました。

しかし2016年に現・上皇陛下(明仁親王)が今上陛下「生前退位」の意向を示します。そして2019年に退位し現・上皇陛下は202年ぶりの「上皇」となったのです。この生前譲位は、上皇が国事行為及び政治に関与する権限が定められていないために、院政を執ることはことは出来なくなっています。

有名な院政と時代

院政で権力を持った人物と時代を紹介

平安時代中期から末期にかけての院政時代でも、特に政治で大きな存在感を残した上皇がいました。ここでは有名な院政を敷いた時代と時期を解説します。

平安時代中期(1086~1129年):白河上皇

白河上皇
出典:Wikipedia

白河天皇は平安時代末期の天皇で、息子に譲位し院政を確立させました。上皇が天皇の王権を超えた権力を行使する人物を「治天の君」と呼ばれるようになったきっかけの人物でもありました。

藤原摂関家を外戚としなかったために、院政を行おうとしていた父・後三条天皇の意志を継ぎ、幼少だった堀河天皇に譲位し自らを「院」と称して院政を始めています。当初は天皇と摂政が政治を主導していたものの、徐々に権限を増やしていきました。白河天皇の院政は、堀河・鳥羽・崇徳の三天皇に及び43年間治天の君として君臨しています。

平安時代末期(1129~1156年):鳥羽上皇

鳥羽上皇
出典:Wikipedia

鳥羽上皇は白河上皇の孫にあたる天皇で、生後7か月で立太子し5歳で天皇となりました。院政は祖父の白河上皇が敷いておりまるで「皇太子のようだ」と揶揄されるような幼少天皇だったといいます。

しかし白河上皇崩御後の1123年に治天の君となり、崇徳・近衛・後白河の三天皇の時代に院政しています。院政では寵愛する藤原得子が産んだ体仁親王(近衛天皇)を即位させたりなど崇徳天皇を冷遇し、後の保元の乱が起こるきっかけを与えてしまいました。

平安時代末期(1158~1192年):後白河上皇

後白河上皇
出典:Wikipedia

平安時代末期の武士が台頭し始めた頃に院政をしていた天皇です。1155年に即位するも1158年に譲位し上皇となり院政をしました。しかし当初は次代の二条天皇と折り合いが悪くあまり政権に関与ができていませんでしたが、二条天皇の政権が揺らぐと平清盛など平氏が後白河上皇を支援。勢力を巻き返しています。

しかし寵愛していた平滋子の死去を契機に清盛との関係が徐々に悪化。清盛により権限が多く奪われていき、1179年の「治承三年の政変」が起こると後白河上皇は幽閉を言い渡され院政は停止してしまいます。しかし1180年に清盛が死去したことにより院政を再開。そして平家討伐の宣旨をだし、源氏の活躍で平家は滅亡し鎌倉幕府が始まりました。

大仏を作ったりと晩年は仏教に深く帰依していたという
出典:Wikipedia

源氏に「朝廷を守護する」という鎌倉幕府の政治体制を許可した後は、政治の実権は武士へと移行してしまいまいます。そのため晩年は仏教に傾倒していたそうです。

鎌倉時代(1198~1221年):後鳥羽上皇

鎌倉時代初期の天皇で、土御門・順徳・仲恭の三代に渡って23年間院政を敷いていました。院政時は院政機構の改革を行い、鎌倉幕府に対しても強気な態度を示していました。

そして1221年に執権・北条義時に対して討伐の宣旨を出し「承久の乱」が起こしますが、幕府軍に大敗。後鳥羽上皇は隠岐の島に配流されてしまい、在位していた仲恭天皇も廃位されてしまいました。後鳥羽上皇の院政は、皇位を継いでいない行助入道親王が「御高倉院」と称し引き継がれました。

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院政と摂関政治の違いは?

摂関政治全盛期を築いた藤原道長
出典:Wikipedia

歴史の授業で「院政」と「摂関政治」が混同してしまう人も多いのではないでしょうか?簡単に言うと院政は上皇が「治天の君」として政治を見るシステムで、摂関政治は藤原氏が娘を天皇に嫁がせてその天皇の後見になるシステムです。

摂関政治の肝は「天皇の外戚として権力を握る」ことでしたが、生物学的なことに依存する限り無理が生じ、藤原摂関家を外戚としない天皇が即位すると徐々に廃れていき、代わりに摂関家とも距離を置ける「院政」へとシフトしていきました。

摂関政治とは?全盛期から院政との違いまでわかりやすく簡単に解説

院政に関するまとめ

いかがでしたでしょうか?筆者は今回「院政」を執筆して、平安時代末期は時代的に不安定だったんだろうなと感じています。当時の法律の抜け道を使い出来た「院庁」という場所で政権を握っていたということに驚くと同時に、上皇も如何に自分の意見を通しやすいかを追求した結果院政が始まったのだと解釈しています。

現在は法律で「院政」は禁止されているということですが、やはり天皇が公務を行うのが本来なので今は元に戻っていることに安心した気持ちにもなってしまいました。この記事を読んで「院政がわかった」という人がいたら嬉しく感じます。最後までお読みいただきありがとうございました。

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