院政とはどんな政治?行った天皇や時代、摂関政治との違いまで簡単に解説

江戸時代は形式的に機能していた

女帝・後桜町上皇も譲位後に院政を行っている
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江戸時代になると「禁中並公家諸法度」に基づいて江戸幕府による朝廷介入が本格化しました。幕府は摂政・関白を中心とした朝廷秩序を望んだものの、結局後水尾上皇や霊元上皇・後桜町天皇などが院政を敷いています。形式的とはいえ、最後の院政は江戸末期に光格天皇が息子の仁孝天皇に譲位をしたもので、これ以降院政は敷かれていません。

明治に正式に「院政」が禁止された

現・上皇陛下は202年ぶりの「上皇」となった
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明治に入ると1889年に制定された旧皇室典範第10条に、

「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」

とし天皇の譲位を禁止し、天皇が崩御したときのみ皇位継承が行われることが決められ上皇の存在は否定されました。

しかし2016年に現・上皇陛下(明仁親王)が今上陛下「生前退位」の意向を示します。そして2019年に退位し現・上皇陛下は202年ぶりの「上皇」となったのです。この生前譲位は、上皇が国事行為及び政治に関与する権限が定められていないために、院政を執ることはことは出来なくなっています。

有名な院政と時代

院政で権力を持った人物と時代を紹介

平安時代中期から末期にかけての院政時代でも、特に政治で大きな存在感を残した上皇がいました。ここでは有名な院政を敷いた時代と時期を解説します。

平安時代中期(1086~1129年):白河上皇

白河上皇
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白河天皇は平安時代末期の天皇で、息子に譲位し院政を確立させました。上皇が天皇の王権を超えた権力を行使する人物を「治天の君」と呼ばれるようになったきっかけの人物でもありました。

藤原摂関家を外戚としなかったために、院政を行おうとしていた父・後三条天皇の意志を継ぎ、幼少だった堀河天皇に譲位し自らを「院」と称して院政を始めています。当初は天皇と摂政が政治を主導していたものの、徐々に権限を増やしていきました。白河天皇の院政は、堀河・鳥羽・崇徳の三天皇に及び43年間治天の君として君臨しています。

平安時代末期(1129~1156年):鳥羽上皇

鳥羽上皇
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鳥羽上皇は白河上皇の孫にあたる天皇で、生後7か月で立太子し5歳で天皇となりました。院政は祖父の白河上皇が敷いておりまるで「皇太子のようだ」と揶揄されるような幼少天皇だったといいます。

しかし白河上皇崩御後の1123年に治天の君となり、崇徳・近衛・後白河の三天皇の時代に院政しています。院政では寵愛する藤原得子が産んだ体仁親王(近衛天皇)を即位させたりなど崇徳天皇を冷遇し、後の保元の乱が起こるきっかけを与えてしまいました。

平安時代末期(1158~1192年):後白河上皇

後白河上皇
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平安時代末期の武士が台頭し始めた頃に院政をしていた天皇です。1155年に即位するも1158年に譲位し上皇となり院政をしました。しかし当初は次代の二条天皇と折り合いが悪くあまり政権に関与ができていませんでしたが、二条天皇の政権が揺らぐと平清盛など平氏が後白河上皇を支援。勢力を巻き返しています。

しかし寵愛していた平滋子の死去を契機に清盛との関係が徐々に悪化。清盛により権限が多く奪われていき、1179年の「治承三年の政変」が起こると後白河上皇は幽閉を言い渡され院政は停止してしまいます。しかし1180年に清盛が死去したことにより院政を再開。そして平家討伐の宣旨をだし、源氏の活躍で平家は滅亡し鎌倉幕府が始まりました。

大仏を作ったりと晩年は仏教に深く帰依していたという
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源氏に「朝廷を守護する」という鎌倉幕府の政治体制を許可した後は、政治の実権は武士へと移行してしまいまいます。そのため晩年は仏教に傾倒していたそうです。

鎌倉時代(1198~1221年):後鳥羽上皇

鎌倉時代初期の天皇で、土御門・順徳・仲恭の三代に渡って23年間院政を敷いていました。院政時は院政機構の改革を行い、鎌倉幕府に対しても強気な態度を示していました。

そして1221年に執権・北条義時に対して討伐の宣旨を出し「承久の乱」が起こしますが、幕府軍に大敗。後鳥羽上皇は隠岐の島に配流されてしまい、在位していた仲恭天皇も廃位されてしまいました。後鳥羽上皇の院政は、皇位を継いでいない行助入道親王が「御高倉院」と称し引き継がれました。

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院政と摂関政治の違いは?

摂関政治全盛期を築いた藤原道長
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歴史の授業で「院政」と「摂関政治」が混同してしまう人も多いのではないでしょうか?簡単に言うと院政は上皇が「治天の君」として政治を見るシステムで、摂関政治は藤原氏が娘を天皇に嫁がせてその天皇の後見になるシステムです。

摂関政治の肝は「天皇の外戚として権力を握る」ことでしたが、生物学的なことに依存する限り無理が生じ、藤原摂関家を外戚としない天皇が即位すると徐々に廃れていき、代わりに摂関家とも距離を置ける「院政」へとシフトしていきました。

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院政に関するまとめ

いかがでしたでしょうか?筆者は今回「院政」を執筆して、平安時代末期は時代的に不安定だったんだろうなと感じています。当時の法律の抜け道を使い出来た「院庁」という場所で政権を握っていたということに驚くと同時に、上皇も如何に自分の意見を通しやすいかを追求した結果院政が始まったのだと解釈しています。

現在は法律で「院政」は禁止されているということですが、やはり天皇が公務を行うのが本来なので今は元に戻っていることに安心した気持ちにもなってしまいました。この記事を読んで「院政がわかった」という人がいたら嬉しく感じます。最後までお読みいただきありがとうございました。

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