院政の始まり
始まりは飛鳥時代
日本で「上皇が政治の補佐をする」ということは、飛鳥時代の皇極天皇・持統天皇など女帝が皇位を生前譲位したことから始まりました。女帝は皇位を継ぐ皇子が成人するまでの中継ぎ的な存在な場合が多かったのです。ただし聖武天皇は「東大寺の大仏を作ることに専念したい」という理由で、生前譲位しています。これが後の院政が始まるフラグの一つとなりました。
摂関政治全盛が揺らぎ始める
平安時代に入っても嵯峨天皇など生前譲位する天皇がいましたが、家長的な存在である程度の存在感はあるものの国政を常に関与するほどの設備が整っていなかったために、院政期ほどの権力を持つことはありませんでした。
また平安中期になると短命な天皇が多く上皇も現れなかったために、上皇が貢献する父系政治よりも外戚が権力を持つ「摂関政治」が主流となります。特に藤原道長の時代は、3人の天皇の外祖父となり摂関政治の全盛時代を築いています。
しかし1068年、170年ぶりに藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位すると流れが変わり始めます。後三条天皇は「新政」として多くの摂関家の外戚を持たない強みで政治を行うものの、即位後4年で貞仁親王(白河天皇)に生前譲位し院政を試みますが志半ばで崩御しています。
院政の全盛期
白河上皇が「院政時代」を築く
次の白河天皇も、摂関家を外戚としていなかったために父・後三条天皇の新政を引き継ぎますが、1086年に善仁親王(堀河天皇)に譲位しています。この時が「院政時代」の始まりと定義されています。
堀河天皇が8歳と幼少だったために、白河上皇は後見するために「白河院」と称して引き続き政務を行いました。この時に白河天皇の意図は、摂関家への牽制というよりは自分の子供による皇位独占が目的だったと考えられています。当時反摂関家勢力は、白河上皇の異母弟輔仁天皇への皇位継承を望んでいました。しかし白河上皇は自分の息子善仁親王を指名し、輔仁親王の即位を断念させています。
その後白河上皇はしばらく政界からは距離を置いていたものの、政界の重鎮が死去したことにより白河上皇の意向が伺われることが多くなった上に堀河天皇が崩御し、若干4歳の鳥羽天皇が即位したことにより権力が白河上皇に集まりました。その様子は「天皇がまるで皇太子のようだ」と揶揄されたといいます。
この頃に院御所が整備され、院の権限も強化されていきます。そして摂政任命なども院ができるようになり「治天の君」としての権力を確立していくこととなったのです。
平家の滅亡で「院政時代」が終わる
院政時代は平家滅亡の1185年までと定義されていますが、それまでに院政も移り変わっています。院政が強くなった平安時代末期になると、院は「法の抜け道」として利用され始めています。
平安時代末期は公地公民制が実態として崩壊して荘園が多くありましたが、律令国家の長である天皇は荘園を持つことが出来ませんでした。しかし上皇は皇室に寄進された荘園を所有・管理出来たために、その収益で国庫をまかなっています。
そして武士が台頭し始め、平清盛が摂政になると当時「治天の君」だった後白河上皇と対立。この時、院政は停止されています。しかし平清盛が死去すると息子の宗盛が再度、後白河天皇の院政を復活させました。しかし1185年に平家が壇ノ浦の戦いで滅亡。その後源頼朝による武家政権へと移っていき、院政時代は終焉します。
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院政時代後
武家政権時も院政は健在だった
鎌倉幕府が成立し政治の政権が武家に移っても、院の機能は健在でした。鎌倉時代には後堀河天皇即位に、父親である行助入道親王が天皇の位を経ずに院政を行う事態なども発生しています。この頃も公家政権の中枢として機能しており、御嵯峨院政期には、院庁の制度を再度整備しなおしています。
鎌倉時代末期、後醍醐天皇の「建武の新政」で一時院政が中断されるも、南北朝時代には北朝の院政が再開しました。そして室町時代に院政は続いていたものの1433年に後小松院が崩御すると事実上の院政は終焉しました。しかし院庁は残っており、応仁の乱の頃はほとんど機能していなかったものの続いています。