大政奉還とは?いつ・なぜ起きたかわかりやすく解説!坂本龍馬の関わりも紹介

大政奉還が行われた経緯

四侯会議(しこうかいぎ)

参預会議や四侯会議で慶喜と激しく対立した島津久光
出典:Wikipedia

倒幕運動で強い影響力を発揮した薩摩藩も、最初のうちは幕府と同じ公武合体派でした。公武合体派とは朝廷と幕府・諸藩が協力して新しい政治体制を作るという考え方です。

その考えから1863年(文久3年)に参預会議という幕府や雄藩による会議が開かれました。しかし主に慶喜と薩摩藩の島津久光の意見が合わず、翌年には崩壊してしまいました。

このあたりから薩摩藩は幕府に見切りをつけ始めていましたが、大政奉還の数か月前である1867年5月に、参預会議と似た四候会議というものを開きます。薩摩はこの会議で幕府から主導権を奪い、朝廷を中心とする公武合体の体制を作るつもりでした。

しかしこのときも慶喜が完全に主導権を握ったため、薩摩藩は武力で幕府を倒すしかないと思うようになったのです。

土佐藩による構想

大政奉還という考え自体は幕臣の大久保一翁などによって1862年(文久2年)ころから提唱はされていました。しかし当時は幕府もそこまで衰えてはいませんでしたから、政権を返上するなんてとんでもないとしか考えられていませんでした。

しかし数年後にこのアイデアが脚光を浴びることになります。1867年6月に土佐藩の後藤象二郎は藩主の山内容堂に大政奉還を進言しました。

土佐藩も雄藩の一つでしたが、雄藩の中では幕府寄りでした。これは容堂が藩主に就任した際などに幕府に便宜を図ってもらっており、恩義を感じていたためと言われています。そのため土佐藩は薩長のように武力による倒幕までは考えていませんでした。

そういったことから大政奉還は藩論として採用され、1867年10月3日には幕府にも建白されることになりました。

徳川慶喜の思惑

土佐藩から建白された慶喜も大政奉還に活路を見出そうとしていました。1866年に行われた第二次長州征討で幕府は長州藩に敗れ、軍事的な権威をも失っていました。長州藩や薩摩藩が武力蜂起する可能性は日増しに高くなっていたのです。

そういった状況で先手を打って政権を返上してしまえば、幕府がなくなるので倒幕派が戦う相手もいなくなってしまうということになります。一方で朝廷には政治や外交の実務能力はありませんでしたから、政権返上の後も徳川家が政治権力を抑えられるとにらんだのです。

討幕の密勅

討幕の密勅
出典:Wikipedia

倒幕派は岩倉具視などに働きかけ、幕府を倒すための勅書(天皇の命令書)を得ようとします。そして朝廷から1867年10月14日に薩摩藩と長州藩へ「討幕の密勅」が出されました。これは文字どおり徳川慶喜を倒せという密勅ですが、正式な勅書の形式に則っておらず偽の勅書だと言われています。

大政奉還

幕府が諸藩に大政奉還の意図を伝えた二条城
出典:Wikipedia

慶喜は10月11日に京都に滞在している10万石以上の大名家に対して、「13日に二条城へ重臣を出席させよ」という知らせを出します。そして集まった大名家の人々に対して大政奉還の意向を発表しました。

翌14日には朝廷へ大政奉還をしたためた文書を提出、15日に受理されています。これにより討幕の密勅は意味がなくなってしまいました。討幕の密勅が出されたのは10月14日ですから本当にわずかな差です。

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