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大政奉還とは?いつ・なぜ起きたかわかりやすく解説!坂本龍馬の関わりも紹介

「大政奉還って具体的になに?」
「大政奉還はいつ、どこであったの?」
坂本龍馬と大政奉還はどんな関係があるの?」

このように思われる方も多いのではないでしょうか。大政奉還とは約260年続いた徳川幕府の政権を、時の将軍徳川慶喜が天皇に返上したことをいいます。大政奉還やその後に発生した王政復古クーデターなどで徳川幕府は滅亡してしまいました。

大政奉還図
出典:Wikipedia

しかし大政奉還を行った徳川慶喜は、政権を返上するつもりなどありませんでした。それなのになぜ徳川幕府が滅んだのかというと、倒幕派とのさまざまな駆け引きに敗れてしまったからです。

このように一見単純そうな大政奉還も、実はいろいろな人々の複雑な事情がからんでいるのです。この記事ではそんな大政奉還について、具体的にわかりやすく説明していきます。

大政奉還とは

大政奉還はいつどこで行われた?

大政奉還が行われた京都御所
出典:Wikipedia

大政奉還とは1867年(慶応3年)10月に、徳川幕府の将軍徳川慶喜が京都で天皇へ政権を返したことをいいます。

徳川家康が打ち立てた徳川幕府は家康が実力で手に入れたものでした。しかし建前上は天皇から国の統治を委任されているという形を取っていました。その委任された政権を朝廷に返すというのが大政奉還です。大政奉還が行われたことで、結果として約260年に及ぶ徳川幕府の歴史が終わりました。

なぜ大政奉還が行われたのか

幕府の天領のうちの一つ、高山陣屋
出典:Wikipedia

大政奉還は、薩摩藩や長州藩が幕府を武力で倒そうとしていたのに対抗して、先に政権を返上して幕府を倒せなくするという目的で行われました。

幕末になって尊皇攘夷運動が盛んになると幕府の力は衰え、代わりに薩摩藩や長州藩などといった雄藩が力を持ってきました。彼らは幕府と協力しようとしたこともありましたが、最終的には幕府を見限り武力で幕府を倒すことにしたのです。

将軍徳川慶喜は彼らが挙兵する前に政権を返上して、彼らが挙兵する理由をなくしてしまうという奇策に出ました。幕府がなくなれば薩長が挙兵しても倒す相手がいなくなるからです。

また慶喜には政権を返上してもまだ政治の主導権を握る自信がありました。なぜなら徳川家は全国に約400万石の領地を持っており、他の大名家と比べても群を抜いて全国ナンバーワンでした。慶喜はその有利さを活かして新たな政権の主導権を握るつもりでいたのです。

坂本龍馬はどんな関係があるのか

坂本龍馬は「船中八策」という大政奉還のアイデアを作った人物として知られています。しかし船中八策は後世の創作である可能性が高いとされています。

また龍馬は船中八策に似た「新政府綱領八策」というものも書いていますが、これも龍馬だけでなく同時代の知識人たちが同じようなアイデアを唱えており、オリジナルとは言いがたいです。

つまり龍馬が大政奉還に強い影響を与えたという証拠はありません。しかし一方で大政奉還のアイデアを土佐藩の後藤象二郎が藩主を通じて幕府に訴えたのは確かです。

そして後藤象二郎は龍馬と親交がありましたから、龍馬が影響を与えている可能性は十分にあります。

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大政奉還が行われた経緯

四侯会議(しこうかいぎ)

参預会議や四侯会議で慶喜と激しく対立した島津久光
出典:Wikipedia

倒幕運動で強い影響力を発揮した薩摩藩も、最初のうちは幕府と同じ公武合体派でした。公武合体派とは朝廷と幕府・諸藩が協力して新しい政治体制を作るという考え方です。

その考えから1863年(文久3年)に参預会議という幕府や雄藩による会議が開かれました。しかし主に慶喜と薩摩藩の島津久光の意見が合わず、翌年には崩壊してしまいました。

このあたりから薩摩藩は幕府に見切りをつけ始めていましたが、大政奉還の数か月前である1867年5月に、参預会議と似た四候会議というものを開きます。薩摩はこの会議で幕府から主導権を奪い、朝廷を中心とする公武合体の体制を作るつもりでした。

しかしこのときも慶喜が完全に主導権を握ったため、薩摩藩は武力で幕府を倒すしかないと思うようになったのです。

土佐藩による構想

大政奉還という考え自体は幕臣の大久保一翁などによって1862年(文久2年)ころから提唱はされていました。しかし当時は幕府もそこまで衰えてはいませんでしたから、政権を返上するなんてとんでもないとしか考えられていませんでした。

しかし数年後にこのアイデアが脚光を浴びることになります。1867年6月に土佐藩の後藤象二郎は藩主の山内容堂に大政奉還を進言しました。

土佐藩も雄藩の一つでしたが、雄藩の中では幕府寄りでした。これは容堂が藩主に就任した際などに幕府に便宜を図ってもらっており、恩義を感じていたためと言われています。そのため土佐藩は薩長のように武力による倒幕までは考えていませんでした。

そういったことから大政奉還は藩論として採用され、1867年10月3日には幕府にも建白されることになりました。

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