「大政奉還って具体的になに?」
「大政奉還はいつ、どこであったの?」
「坂本龍馬と大政奉還はどんな関係があるの?」
このように思われる方も多いのではないでしょうか。大政奉還とは約260年続いた徳川幕府の政権を、時の将軍徳川慶喜が天皇に返上したことをいいます。大政奉還やその後に発生した王政復古クーデターなどで徳川幕府は滅亡してしまいました。
しかし大政奉還を行った徳川慶喜は、政権を返上するつもりなどありませんでした。それなのになぜ徳川幕府が滅んだのかというと、倒幕派とのさまざまな駆け引きに敗れてしまったからです。
このように一見単純そうな大政奉還も、実はいろいろな人々の複雑な事情がからんでいるのです。この記事ではそんな大政奉還について、具体的にわかりやすく説明していきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
大政奉還とは
大政奉還はいつどこで行われた?
大政奉還とは1867年(慶応3年)10月に、徳川幕府の将軍徳川慶喜が京都で天皇へ政権を返したことをいいます。
徳川家康が打ち立てた徳川幕府は家康が実力で手に入れたものでした。しかし建前上は天皇から国の統治を委任されているという形を取っていました。その委任された政権を朝廷に返すというのが大政奉還です。大政奉還が行われたことで、結果として約260年に及ぶ徳川幕府の歴史が終わりました。
なぜ大政奉還が行われたのか
大政奉還は、薩摩藩や長州藩が幕府を武力で倒そうとしていたのに対抗して、先に政権を返上して幕府を倒せなくするという目的で行われました。
幕末になって尊皇攘夷運動が盛んになると幕府の力は衰え、代わりに薩摩藩や長州藩などといった雄藩が力を持ってきました。彼らは幕府と協力しようとしたこともありましたが、最終的には幕府を見限り武力で幕府を倒すことにしたのです。
将軍徳川慶喜は彼らが挙兵する前に政権を返上して、彼らが挙兵する理由をなくしてしまうという奇策に出ました。幕府がなくなれば薩長が挙兵しても倒す相手がいなくなるからです。
また慶喜には政権を返上してもまだ政治の主導権を握る自信がありました。なぜなら徳川家は全国に約400万石の領地を持っており、他の大名家と比べても群を抜いて全国ナンバーワンでした。慶喜はその有利さを活かして新たな政権の主導権を握るつもりでいたのです。
坂本龍馬はどんな関係があるのか
坂本龍馬は「船中八策」という大政奉還のアイデアを作った人物として知られています。しかし船中八策は後世の創作である可能性が高いとされています。
また龍馬は船中八策に似た「新政府綱領八策」というものも書いていますが、これも龍馬だけでなく同時代の知識人たちが同じようなアイデアを唱えており、オリジナルとは言いがたいです。
つまり龍馬が大政奉還に強い影響を与えたという証拠はありません。しかし一方で大政奉還のアイデアを土佐藩の後藤象二郎が藩主を通じて幕府に訴えたのは確かです。
そして後藤象二郎は龍馬と親交がありましたから、龍馬が影響を与えている可能性は十分にあります。