「風土記って何?具体的に何が書かれているの?」
「誰がいつ書いたもの?」
「古事記や日本書紀とどう違うの?」
本記事を読んでいるあなたはこのような疑問をお持ちではないでしょうか?風土記は奈良時代、朝廷が各国に命じ、それぞれの国の産物や地名由来、伝承などをまとめさせた地誌です。 つまり日本でほぼ初めての各国の郷土史、地理誌でもあり、これを読めばその土地に根付いた古代の人々の生活や息遣いを知ることができる貴重な資料です。
風土記は、各国で作成し朝廷に提出したと考えられていますが、その多くが失われ、現在では常陸、播磨、出雲、豊後、肥前の5か国の風土記のみが残されています。
今回は風土記について、作成された経緯や年代、現存する5か国の風土記の特徴などについて分かりやすく解説していきます。これを読めば、風土記についての理解が深まるはずです。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
風土記とは
制作を命じた年 | 713年 |
---|---|
命じた天皇 | 元明天皇 |
完成時期 | 国によって異なる |
内容 | 1.郡郷の名前を 好い字に して記載 (中国風の漢字2文字の 名前をつける) 2.郡内の銀銅などの鉱物、 動植物、魚、昆虫の目録 3.土地の肥沃の状態 4.山川原野の地名由来 5.古老が伝える古伝承 |
古風土記の内容を簡単に解説
風土記は713年、元明天皇が各国に対して、その地方の地名由来や産物、土地の肥沃状態、伝承などを調査、報告するように命じて作らせたものです。このように風土記は一冊の書物ではなく、国別にまとめられたものでした。また、風土記という名前も平安時代初期に呼ばれ始めたもので、当初は公式文書である「解」(げ)とされていたようです。
なお、後世にも何度か地方の情勢や地理をまとめた地誌の風土記が作られているため、この奈良時代のものは「古風土記」とも呼ばれています。
この古風土記は律令制下の約60のほとんどの国で作られ、中央に提出されたと考えられますが、原本は残っていません。写本で現在まで伝承されているのは常陸、播磨、出雲、豊後、肥前の5か国分のみ。このうちほぼ完全な形で伝わるのは出雲のみで、ほかの4か国は部分的に残っている状態です。
5か国以外の風土記は散逸しましたが、後世の文献に一部が引用される形で断片的に知ることができます。これを風土記逸文と呼び、30か国以上のものが発見されていますが、本当に風土記の引用かどうか疑わしいものもあるようです。
誰がどのような目的で作ったのか
風土記の制作を命じたのは元明天皇です。
当時の日本は701年に大宝律令を制定し、本格的に中央集権の律令国家として歩み始めていました。中央集権国家として地方のことを把握するために、風土記の制作を命じたとみられており、土壌や特産物の記録は徴税に役立てたようです。
中央からの命令を受け、各国では風土記の制作にとりかかりました。制作の流れとしては、トップの国司が中心となって大要を決め、郡司に郡単位の調査を命じ、その報告書を国司がまとめて編纂し朝廷に提出したと考えられています。
ただし現在、編纂者と成立年がはっきりわかっているのは出雲国風土記のみです。しかも出雲では国司ではなく、郡司が主体になって編纂していたようです。
また編纂者のキーパーソンの一人に藤原宇合(ふじわらのうまかい)がいます。宇合は藤原不比等(ふじわらのふひと)の子で、彼も含めた藤原4兄弟は中央で政権をリードしていました。風土記の制作と前後して常陸の国司や西海道の節度使(九州の大宰府に赴任)などを経験していることから、彼が常陸、肥前、豊後風土記、さらに他の九州の風土記作成にかかわっていた可能性が指摘されています。
風土記の成立年について
風土記の成立時期については諸国で異なっていたようです。出雲国風土記は733年に成立したことがその奥付に記されていますが、そのほかの4か国の風土記の成立年はわかっていません。ただしその記述内容や表記などからおおよその完成時期が推測されています。
播磨国と常陸国の風土記は、行政区分の使い方などから官命を受けて数年後に完成したと考えられています。これに対し、出雲国風土記は官命から約20年たって完成しており、豊後と肥前両風土記も出雲国風土記と前後して作られたと考えられています。
このように成立時期が大きく違うことから、
- 播磨国と常陸国風土記・・・和銅風土記
- 出雲国と肥前、豊後風土記・・・天平風土記
と呼んで区別することがあります。
じつはこの2種類には内容に大きな違いがありました。和銅風土記が形式的なものであるのに対し、天平風土記には軍事的要素が加えられ、実用的なものとなっていたのです。
出雲国風土記がなぜ完成まで20年近くもかかったのかは不明です。そのため出雲国風土記は一度提出した後に作り直したものという説も出ました。ただ出雲国風土記は徹底的に調べた形跡があり、調査にかなりの歳月をかけたのかもしれません。さらに出雲風土記は先行する和銅風土記の修正点を踏まえているとされることから、その修正部分も追加したため完成が遅れた可能性もあります。
とてもわかりやすい
> 匿名 さん
嬉しいコメントありがとうございます!
引き続き、よろしくお願いします^^