豊後国風土記
国名 | 豊後国(現在の大分県) |
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成立年 | 720年~739年説 |
編纂者候補 | 西海節度使の藤原宇合、 738年の国司、楊胡真身 |
特徴 | 抄録本で分量が少ない。 景行天皇の巡幸記事が多く 日本書紀と共通した 箇所が多い |
豊後国風土記はいわゆるダイジェスト版のような形態で分量が少なく、日本書紀と類似した点が多いのが特徴です。また、成立年や編者については不明ですが、編者候補の一人である藤原宇合の節度使就任(732年)と合わせ、732年~739年説が有力です。
また、後述する肥前国風土記と相似しているため、大宰府主導で宇合を中心に編纂されたという説もあります。
内容は、ヤマトタケルの父である景行天皇の征討記事が多いのが特徴。例えば景行天皇が、土蜘蛛(まつろわぬ民)を退治するための槌を作った場所を海石榴市(つばいち)、退治して血が流れた地は血田と呼ばれた逸話があります。
肥前国風土記
国名 | 肥前国(現在の佐賀県、長崎県) |
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成立年 | 732年~740年説 |
編纂者候補 | 藤原宇合 |
特徴 | 抄録本で分量か少ない。 景行天皇の巡幸記事が多く、 日本書紀との類似点が多い |
肥前国風土記は、豊後国風土記と同じく抄録本です。成立年は、地域区分の表記や軍事面の記事があることなどから藤原宇合の関与も考慮し732年以降の成立が有力とされています。豊後国風土記と同様、大宰府でまとめて編纂された可能性もあります。
内容的には日本書紀と類似点が多く、景行天皇や神功皇后の巡幸記事が多いのが特徴です。
神功皇后は身重の身ながら自ら先頭に立って新羅に遠征した記紀にも登場する女性です。肥前国風土記には、皇后が釣りをして新羅征討の成否を占い、アユを得て「珍しい」と言ったため、希見(めづら)の国、それが「マツラ(松浦)」の地名になったなど地名由来が記載されています。
また肥前国風土記は遠征にまつわる記事も多く、ひれを振りながら朝鮮に出兵した大伴狭手彦(さでひこ)を見送った弟日姫子(おとひひめこ)は、その後蛇神に魅入られ、沼の底に引き入れられたという悲話もあります。
風土記逸文
風土記は鎌倉時代頃まで数々の文献に断片的に引用されました。30か国以上の引用(逸文)が知られています。
おなじみの昔話・浦島太郎は、日本書紀や万葉集、丹後国風土記にそのルーツが記されています。風土記には、与謝の郡日置の里、日下部首の先祖である浦嶋子の話として掲載されています。
浦嶋子が釣り上げた五色の亀が乙女となり、ふたりは結婚して仙境で3年過ごします。しかし浦嶋子が妻から「私と会いたいなら開けないで」と渡された玉匣(たまくしげ)を手に地上に戻ると、300年の歳月が過ぎていました。浦嶋子が玉匣を開けると、よい香りが漂ったといいます。
また、527年の筑紫君磐井の乱の磐井の末路について、朝廷軍に斬られた記紀神話と異なり、筑紫国風土記では険しい山へと逃れ、朝廷軍から逃げおおせたと伝えています。
風土記の丘とは
風土記の丘とは、遺跡や史跡の保存活用を目的として1966年に文化庁が開設した、史跡等を中心とした野外博物館、公園です。以降、島根県の出雲の八雲立つ風土記の丘や宮崎県の西都原風土記の丘など各地に15か所以上もうけられました。
古風土記の内容と必ずしも関わりがあるわけではありませんが、出雲の八雲立つ風土記の丘のように、出雲国風土記にある国引き神話の舞台だった場所もあります。
風土記の年号の覚え方
風土記の制作が命じられた年の語呂合わせについてご紹介します。
- 元明天皇が内密(713)に命じた風土記の編纂
- 風土記は5つしか無いさ(713)
風土記の現代語訳が読める本
各国の風土記の原文、読み下し文、現代語訳があります。解説文や脚注、地図もついており、分からない言葉や背景などの理解を深めながら読み進められるのがポイント。比較的易しく書かれているので初めて風土記に触れる人も読みやすいでしょう。上下巻となっています。
風土記に関するまとめ
風土記について解説しましたがいかがでしたでしょうか。風土記は古代の地方を知ることができる貴重な資料です。地名の由来は現代につながるルーツを知ることができますし、さまざまな伝承から当時の人々の息吹を感じられるでしょう。
また、古事記や日本書紀と同じような伝承や歴史も少しずつその内容が異なっているため、読み比べてみると歴史や神話の世界が広がりますよ。
この記事を読んで、風土記に興味をもっていただけたら幸いに思います。
とてもわかりやすい
> 匿名 さん
嬉しいコメントありがとうございます!
引き続き、よろしくお願いします^^