神功皇后は『古事記』や『日本書紀』の中の天皇記で活躍する皇族の一人です。古来より武芸の神として崇められており、現代においても数々の神社で祀られ信仰され続けている非常に格の高い神様なのです。
また、神功皇后は日本の第十四代天皇・仲哀天皇の皇后であり、三韓征伐や天皇後継争いで大きな功績を残した人物です。日本の第十五代天皇・応神天皇の母でもあります。
神功皇后には実在説と非実在説があり、どちらかと言えば実在性は否定されており伝説上の人物であるというのが一般的な見解です。しかし、日本には神功皇后の伝承地が多数残されています。更に明治時代には切手や紙幣に神功皇后の肖像画が描かれていました。明治時代から太平洋戦争のあたりまでは、学校教育で「神功皇后は実在の人物である」と教えられていたのです。
歴史の研究が進むにつれ神功皇后の実在性は否定されていき、現代では非実在説が濃厚になってきています。しかし、各地に残されている伝承と歴史書の記述がほとんど一致していることから実在説を提唱する歴史家もいます。
このように神秘的な謎に包まれている神功皇后ですが、神話の中で武芸の才能や母としての強さを見せ、現代では勝運や安産を守護する神様として信仰されています。古代の皇族でこれほどの活躍をした女性は、神功皇后を置いて他にいないでしょう。
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神功皇后とはどんな人?
名前 | 神功皇后(息長帯比売命) |
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誕生日 | 成務天皇40年(169年) |
生地 | 近江国坂田郡 |
没日 | 神功皇后69年4月17日(269年) |
没地 | 京都 |
配偶者 | 仲哀天皇 |
埋葬場所 | 五社神古墳(神功皇后陵古墳) |
神功皇后の生涯をハイライト
神功皇后は2世紀に活躍したと言われる人物で、第14代仲哀天皇の皇后です。彼女には日本の国を統一、さらに豊かな朝鮮半島も従わせ、自分の息子が無事に天皇に即位する道筋を付けたという功績があります。
彼女は仲哀天皇が急死した後、天皇に対して抵抗していた熊襲という民族を従わせ、さらに朝鮮半島に出兵、これも従わせます。
その後は亡くなった天皇の子どもを無事に出産します。これが第15代応神天皇です。応神天皇には2人の異母兄がいましたが、これも神功皇后によって退けられ、即位が確実となりました。
応神天皇が即位するまでは、神功皇后が70年近くも摂政を務めました。母のおかげで、国内は統一され、朝鮮半島との関係も安定、さらには自分を脅かす者もいなくなったのです。応神天皇は安心して即位することができたでしょう。
神功皇后が皇后に選ばれた理由とは
神功皇后がなぜ仲哀天皇の皇后になれたのかは、ハッキリとわかっていません。
神功皇后の父方の祖先は開化天皇の末裔、母方の祖先はアメノヒボコという新羅から渡来した人(または神)だったと言われています。
それに比べると仲哀天皇の先妻は天皇のいとこでした。神功皇后よりもずっと家柄が良かったのですが、位は皇后よりの下の妃(みめ)でした。
日本の歴史書・日本書紀には、24歳のときに皇后になった神功皇后について、若く美しく、しかも聡明であると書かれています。
その上、日本書紀だけでなく古事記でも、それぞれ神功皇后の説明のために一巻を使っています。天皇以外の人間で、これほど詳しく説明されているのは皇后だけです。これは神功皇后が皇后として理想的な人物だった証拠ではないでしょうか。
確かに夫が亡くなった後の活躍を見ると、彼女は天皇の代理人として理想的な人物でした。神功皇后は若さと美しさ、そして頭の良さで皇后になれたのかもしれません。
女帝人気が高く卑弥呼と混同された
神功皇后は卑弥呼の名前を利用して、周りを自分に従わせたのではないかと考えられます。
江戸時代までは、邪馬台国の卑弥呼と神功皇后は同一人物だと考えられていました。先程登場した日本書紀には、暗に卑弥呼が神功皇后だとする記述があるためです。
しかし、卑弥呼と神功皇后には明らかな違いがありました。
- 卑弥呼は生涯独身だったが、神功皇后は結婚して子どもを生んでいた
- 卑弥呼の死後、新しい王への不満からすぐに女王が擁立されたが、神功皇后の死後は、応神天皇が即位して長く世の中を治めた
神功皇后の生きた時代、日本(特に九州地方)には女王を歓迎するムードがありました。卑弥呼の影響で女王には皆が従うと考えられていたのです。
現在では、神功皇后側がこれを利用して(つまり自分は卑弥呼の生まれ変わりだなどと称して)、熊襲を従わせ、朝鮮半島でも勝利をおさめることができたのだと考えられているのです。
紙幣となった神功皇后の肖像画は別人だった
明治になって、神功皇后の顔が国民に広く知られるようになりましたが、実はこれはまったく別人の顔です。そもそも、古事記や日本書紀にも、神功皇后の肖像画が載っているわけではありませんから、これは当然のことだと言えるでしょう。
日本では明治になって、初めての国産紙幣を発行することになりました。そのときに偽造防止のために使うことになったのが神功皇后の肖像画です。当時の日本人にとって古事記や日本書紀、そしてそこに登場する神功皇后は親しみのある人物だったのです。
紙幣の肖像画を描いたのはエドアルド・キヨッソーネという版画家でした。キヨッソーネは周囲の日本人から神功皇后についての話を聞き、イメージを膨らませました。そして大蔵省紙幣局印刷部の女子職員をモデルにして肖像画を完成させたということです。
西洋風の肖像画ですが、現代の私たちが見ても美しく、生き生きとした女性となりました。人々の神功皇后への親しみも一層増したのではないでしょうか。
神功皇后の墓 は?
神功皇后の墓は奈良県奈良市にある「五社神古墳」です。神功皇后陵とも呼ばれます。五社神古墳は、ヤマト政権王家の墓を多く含む「佐紀盾列古墳群」の中の一つです。全長は275メートルにも及び、佐紀盾列古墳群の中で最大規模の古墳となっています。
なお五社神古墳の実際の被葬者は明らかとなっていません。宮内庁によって神功皇后の陵墓であると正式に治定されているものの、それは古事記や日本書紀、その他歴史的文献資料から推察されたものです。
神社に祀られた神功皇后
亡くなった後、神社に祀られることになった神功皇后。2つの神となっています。1つ目は住吉大神です。
熊襲征伐の折にお告げをした神々の中に、住吉三神という三人の神様がいました。三人の神様の力で、神功皇后は熊襲征伐と三韓征伐をやり遂げたと言われています。
このように深い縁があったため、神功皇后は死後、住吉三神と一緒に祀られ、住吉大神と呼ばれるようになったのです。
2つ目は八幡神の母です。神功皇后の息子・応神天皇は戦いの神、八幡神として信仰の対象になっています。このため神功皇后も八幡神の母として、武家社会では広く信仰されるようになりました。
2つの神となっているために、神功皇后を祀った神社は、日本中に数多く存在し、今でも三韓征伐などの功績が讃えられています。