神功皇后とはどんな人物?生涯・年表まとめ【功績や逸話、卑弥呼との関係についても紹介】

神功皇后の生涯年表

成務天皇40年 – 0歳「神功皇后の誕生」

神功皇后の父・息長宿禰王が祀られている日撫神社
出典:まいばらんど

近江国で生まれる

成務天皇40年に近江国坂田郡(現・滋賀県米原市)で神功皇后は誕生し、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)という名を授けられました。

息長帯比売命は、皇族の父・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)と新羅王家の血統を持つ母・葛城高額媛(かずらきのたかぬかひめ)との間に生まれ、弟に息長日子王(おきながひこのみこ)、妹に虚空津比売(そらつひめ)がいます。

神功皇后の生まれについて正確な記述は無いのですが、父の息長宿禰王は近江国を本拠地として活動をしていました。滋賀県米原市には息長宿禰王を祀る日撫神社が残されています。このことから神功皇后は近江国で生まれたのではないかとされています。

なお『古事記』では息長帯比売命と表記されていますが、『日本書紀』では気長足姫尊と表記されています。どちらも読み方は同じです。

仲哀天皇2年 – 24歳「皇后に立てられる」

夫の急死にもひるまない強さが伝わってくる
出典:神功皇后ポータルハント謎解き

皇后となる

仲哀天皇2年1月に、息長帯比売命は仲哀天皇に正室として迎らえれ、皇后に立てられます。

仲哀天皇は、父・日本武尊(やまとたけるのみこと)が征伐した熊襲が叛いたとの報せを聞き、自ら軍の指揮を執り熊襲再征伐へと向かいます。熊襲の征伐には神功皇后も随伴しました。

仲哀天皇8年 – 30歳「仲哀天皇が崩御」

忠臣・武内宿禰は大きな働きをする出典:Wikipedia

神託を行い神の怒りに触れる

香椎宮に移動した神功皇后の一行は、熊襲での戦いを占うため神託を行います。仲哀天皇が琴を弾いて神功皇后に神を呼び寄せ、大臣の武内宿禰(たけしうちのすくね)が審神者(さにわ)として神託を受け取ることになりました。

儀式を行うと神功皇后は神がかり、そして「熊襲ではなく、海の向こうにある新羅という国を攻めろ」と仲哀天皇に告げます。しかし仲哀天皇は「海の向こうに国など見えない」と言い、琴を弾くのをやめてしまいます。

すると神功皇后についている神は激怒し「お前に国をおさめる資格はない。黄泉へと向かうがよい」と告げます。それを見て恐れをなした武内宿禰は、仲哀天皇に琴を弾くようにと申し出ます。仲哀天皇は再び琴を弾き始めましたが、すぐに音が途切れてしまいました。武内宿禰が確認すると仲哀天皇は既に息を引き取っていました。

仲哀天皇9年 – 31歳「三韓征伐」

朝鮮半島に渡り、戦う皇后の姿
出典Wikipedia

神功皇后の神がかり

仲哀天皇が崩御された翌年、神功皇后は武内宿禰を審神者として再び神託を行いました。神託の内容は「新羅の国を征伐し、皇后の腹の中にいる子に国をおさめさせろ」というものでした。

武内宿禰が神に名を尋ねると、神功皇后に神がかっている神は住吉三神であることが分かりました。住吉三神は航海を守護する神だと言われています。

こうして神からの託宣を受け取った神功皇后は、まずは目前の熊襲征伐を完遂させます。そして新羅を征服するため軍と船の準備を始めました。

三韓征伐

神功皇后は男装しお腹に子を抱えたまま、軍を引き連れ新羅の国へ出兵しました。船は海を進むにつれ勢いを増し、国の半分にも及ぶ勢いで新羅の国へ上陸していきます。

それを見た新羅の王はすぐさま白旗を上げ、百済・高句麗と共に朝廷に貢物を差し出すことを誓いました。こうして神功皇后は戦わずして朝鮮の三国を征伐することに成功したのです。

子供を出産する

新羅から帰国した神功皇后は12月に男児を出産し、誉田別尊という名前を授けます。誉田別尊は、後の第十五代天皇である応神天皇です。

神功皇后摂政1年 – 30歳「天皇後継争い」

忍熊皇子が神として祀られている福井県の劔神社
出典:Wikipedia

忍熊皇子との戦争

誉田別尊の異母兄弟である麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子は、神功皇后が子を産んだとの報せを聞きつけ、両名の暗殺を企てます。そこで二人は神功皇后と戦って勝てるかどうかを占うため誓約狩りをしに行くのですが、突如現れた猪に麛坂皇子は喰い殺されてしまいます。

占いの結果に凶兆を感じた忍熊皇子でしたが、結果を無視し神功皇后の軍を迎え撃つことにします。

帰途で忍熊皇子の暗殺計画を知った神功皇后は、忍熊皇子を翻弄するため「誉田別尊は既に亡くなった」という嘘の噂を流します。そして両軍が衝突するのですが、神功皇后の策に嵌った忍熊皇子は次第に追い詰められていき、将軍の五十狭茅宿禰(いさちのすくね)と共に敗走、湖に入水します。

こうして神功皇后は、無事に勝利をおさめました。

神功皇后摂政3年 – 32歳「誉田別尊を太子に立てる」

誉田別尊・後の応神天皇
出典:Wikipedia

誉田別尊が皇太子となる

天皇後継争いに勝利した神功皇后は、初めての摂政となり息子の誉田別尊を皇太子に立てました。

神功皇后摂政13年 – 43歳「禊をする」

誉田別尊の穢れを祓う

天皇後継争いの際、神功皇后は「誉田別尊は既に亡くなった」と嘘の噂を流しました。死人として扱われた誉田別尊は穢れを祓う必要があったため、武内宿禰の付き添いのもと禊を行いました。

神功皇后摂政47年 – 78歳「新羅の謀反を知る」

貢物が奪われる

新羅と百済からの朝貢の際、百済の貢物が貧相であったことを問い詰めると百済の使者は「新羅に貢物を奪われた」と訴えます。その報せを聞いた神功皇后は新羅を再征伐することを決めました。

神功皇后摂政49年 – 80歳「新羅再征伐」

新羅へ将軍を派遣

神功皇后は新羅へ将軍を派遣し、新羅を再び征伐します。

神功皇后摂政69年 – 100歳「崩御」

神功皇后の陵(みささぎ)の航空写真
出典:Wikipedia

神功皇后、崩御

この年の4月に神功皇后は崩御されました。享年100歳でした。神功皇后が崩御された後は誉田別尊が応神天皇として天皇に即位し国をおさめます。神功皇后のご遺体は狹城盾列池上陵へ埋葬されました。

こうして数々の伝説を残した神功皇后は、大阪の住吉大社を始め京都や福岡の神社を中心に信仰されています。

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関連外部リンク

神功皇后についてのまとめ

神功皇后の神話や伝説について紹介させてもらいましたが、いかがでしたでしょうか?

こうして改めてまとめてみると、神功皇后は非常に豪胆でパワフルな女性であったことが良く分かります。日本神話では様々な天皇が登場しますが、その中でも神功皇后の存在感は特に強烈です。

神がかったり出産を5ヶ月も遅らせたり100歳まで生きたり…伝説的な側面が強い神功皇后ですが、もしかしたら実在していたのかもしれないと考えると面白いですよね。

この記事をきっかけに神功皇后に興味が出てきたら、ぜひあなたも独自の考察をしてみてくださいね。歴史に思いを馳せながら伝承地を巡ってみるのも楽しいと思います。

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