神功皇后の功績
功績1「熊襲征伐で国内統一を達成した」
神功皇后の功績として一番に揚げられるのは、熊襲を征伐して国内を統一したことでしょう。
熊襲というのは、九州の南部にいた人々のことで、彼らは天皇の支配を嫌い、仲哀天皇の父・ヤマトタケルの時代から抵抗を続けていました。
何とか熊襲を征伐したかった仲哀天皇と神功皇后でしたが、仲哀天皇は神のお告げを無視して怒りをかい(一説には熊襲の矢があたったためとも言われています)、急死してしまいます。
跡を引き継いだ神功皇后は、家臣に戦わせるだけではなく、自らも羽白熊鷲(はしろくまわし)、田油津媛(たぶらつひめ)という名の人物を討ち取っています。神功皇后の働きのおかげで、熊襲は天皇に従い、無事に国内は統一されたのです。
功績2「強気な外交・三韓征伐を果たした」
妊娠していた神功皇后が朝鮮半島に出兵して、新羅・百済・高句麗の三国を従わせたのが三韓征伐ですが、史実ではないという説があります。しかし、史実でなくても、これは日本人の強い願いを叶えた大きな功績と言えます。
神功皇后の時代、246年に百済側からの望みで日本との国交が始まりました。日本は朝鮮半島での勢力を拡大したいと願い、百済や新羅を「臣民」として上位に立とうとしました。しかし高句麗が勢力を伸ばし、日本は何度も朝鮮半島から追い払われてしまいます。
この事実から、朝鮮半島の国々が日本の言うことを聞くべきだという強い願い・三韓征伐の話が生まれ、人々に支持されるようになったのかもしれません。
功績3「長い摂政の後、無事に応神天皇を即位させた」
妊娠中ながら三韓征伐をやり遂げた神功皇后は帰国後、無事に男の子を出産します。出産後皇后には、やらなくてはならないことがありました。それが息子とは異母兄に当たる麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊王との戦いです。
2人の皇子は仲哀天皇の先妻の子どもでしたが、母親の位が神功皇后よりも低いものでした。神功皇后が男の子を出産したことで、自分たちの立場が危ういと感じたのでしょう。
しかし麛坂皇子は猪に食い殺され、それをきっかけに敗退した忍熊王も入水して命を絶ってしまいます。こうして無事に神功皇后は皇太后と認められ、息子も太子となりました。その後、神功皇后は合間に新羅を征伐しつつ、息子の摂政を70年近くも続けたのです。
夫から息子へと無事に天皇の位を橋渡しした後、神功皇后は100歳でこの世を去ったと伝えられています。
神功皇后にまつわる逸話
逸話1「月延石で出産を遅らせた」
三韓征伐に出向いたとき、神功皇后は仲哀天皇との子をその身に宿していました。渡航の際に子を産むわけにいかなかった神功皇后は、月延石と呼ばれる石を腹や腰に複数個くくりつけ、身体を冷やすことで出産を遅らせたのです。
本来であれば10ヶ月で子供は産まれるものですが、神功皇后は15ヶ月もの間お腹に子供を抱えていたと言われています。
そして三韓征伐から帰還した神功皇后は無事に子供を出産します。神功皇后が腹にくくりつけていたとされる月延石は京都府の月読神社に奉納されているそうです。
逸話2「松浦の釣り」
熊襲征伐が終わった後、火前国(肥前国・現在の佐賀県辺り)の松浦という土地で神功皇后は占いの1種、「うけい」を行います。これは前もって、〇〇をすれば△△となる、そうでないなら××となると宣言をして、どちらが起こるかで吉凶を占うというものです。
皇后は次のような宣言をして釣りをしました。
西の財(たから)の国を得られるならば魚はこの釣針を飲むだろう
すると松浦では珍しいことに、細鱗魚(鮎)が釣れました。この結果を見て、皇后は三韓征伐への気持ちを強くしたのかもしれません。
松浦では長い間、春に女性が川へ針を投げ入れて釣りをする風習が残っていましたが、男性には決して魚を釣ることができなかったということです。